61TCM50

Jan 23, 2024 updated

~キャベンディッシュ研究所固体理論グループ/1954-2004の沿革~ Volker Heine先生の筆により50周年記念式典で配布された文書をHeine先生の許可を得て訳出しております。

01/発足の年1954年


TCMグループ発足は1954年、Nevill Mottがブリストル大学よりキャベンディシュ教授職として着任した時点に遡る。TCMグループの前身である「Solid State Theory [SST]」グループの立ち上げに際し、同年、Mottは、John Zimanを講師として着任させた。

キャベンディッシュ研究所は、歴史的には実験物理学科として系譜を辿っており、当時の理論研究の状況としては各実験グループに1名〜2名の理論家が各個バラバラで仕事をしているというような状況にあった。本来の理論物理学部門は、今日の「応用数学及び理論物理学科」で行われているような研究内容を主務としており、微視的な固体理論に興味を示す研究者は皆無といえる状況であった。

Mottは、第二次世界大戦中の米国の研究動向を通じて、実験研究と連携した理論研究の重要性を感じていた。キャベンディッシュ研究所内においても固体理論研究の潮流が成長しつつあった。例えば、ShoenbergやPippardによる、金属のフェルミ面形状に関する研究、Pippardによる超伝導コヒーレント長概念、Taborによる表面物理の研究、Crick/WatsonのDNA発見に繋がる構造解析研究、Peter Hirschによる結晶構造欠陥解析への電子顕微鏡の応用などがある。これらが固体理論部門が創設された背景として挙げられる。

02/Nevill Mott教授(後にMott卿)


Nevill Mottが、その職にあった「キャベンディッシュ教授職」(1954-1974)とは、それ自体は固体理論部門とは形式上無関係である。ただ、当然の事として、Mottの存在や研究内容、これに関連して出入りした研究者や学生は、固体理論グループにとって重要な影響を与えた。Nick RivierはMott直属の学生の一人だが、事実上、TCMに机を置いた。Mottは、グループを意識して活動した訳ではないため、以降のTCMグループの歴史に表立って登場する事は少ないが、その影響は常にTCM内に存在していたといえる。

本文の筆者であるVolker Heineは、1954年に博士課程の学生としてMottに師事した。Heineが気づくのに時間を要したのは「Mottは学生の指導よりも第一線の実験家と協力してアイデアを練る事に興味がある」という事であった。Mottには最初、キャベンディッシュの別の教員に師事することを勧められたが、Heineは一日考えた末、ニュージーランドから地球を半周近くも廻ってやって来たのだから、そう簡単に諦めてはいけないと決断し、「必要な時以外には出入りしない」という条件付きでMottに師事する了承を取り付けた。与えられた課題は「階下の低温物理グループで、君が有用な人材となり得るかどうか」というもので、こうした事がMott自身の理論家としてのコンセプトであったのだが、幸いHeineの出身であるニュージーランドの文化とも合致していた。

この当時、Mottの興味は格子欠陥、乱れのある物質中での電子状態、金属絶縁体転移といった問題にあった。Mottの関連でキャベンディッシュに出入りのあった研究者に、Hans Bethe、Philipe Nozieres、Phil Andersonといった面々がいる。Phil Andersonは1961-1962に講義を担当し、受講生の一人にBrian Josephsonがいた。Andersonの講義ノートはLu Shamによって詳細にまとめられ、後に「Concepts in Solids」という書名で出版された。David Thoulessが当時の研究員として在籍している。 Mottは退官の後、PCSグループ(Physics and Chemistry of Solids/固体の物理と化学/実験グループ)内に机を置いて、PCSグループ、及びSPグループ(Semiconductor Physics/半導体物理/実験グループ)の研究者達と、主にアモルファス半導体、金属絶縁体転移、金属の最小伝導度、ホッピング伝導といった問題で交流を続けた。その後、新たに発足した超伝導IRCグループ(Interdisciplinary Research Centre in Superconductivity)に机を移し、1996年91才で亡くなるまで精力的に論文出版などに努めた。

03/John ZimanとSSTグループ(1954-1964)


オックスフォードから着任したJohn Zimanは、磁性分野を主な研究対象としていたが、ケンブリッジでは、固体電子論研究に主軸を移した。自身の復習も兼ねて執筆したのが、代表的著書「Electrons and Phonons」である。執筆を通じ、Zimanは、特に輸送理論について多くの課題を掘り起こした。乱れた物質中での輸送は特に時機を得たものであり、sp電子結合の金属溶融状態での電気伝導など、今日明らかになっている数々の理由も幸いし、驚くほどの成功をおさめた計算となった。

Volker Heineは此の時期、シニア・メンバーとして在籍している(1957年に特別研究員/1958年に講師職)。Zimanが1964年にBristolに転任するまで期間、在籍大学院生として、Lu Sham(香港)、Neil Ashcroft(ニュージーランド)、Maurice Rice(アイルランド)、Leo Falicov(アルゼンチン)、Federico Garcia-Moliner(スペイン)など今日著名な研究者が名を連ねる。英国出身者は、どのグループにも一人も居らず、ZimanにしてもHeineにしてもニュージーランド出身である。ケンブリッジ純正の若手理論家は固体理論などではなく、むしろ、場の理論やグリーン関数法、あるいは核物理学を専攻したがったという事情が背景にある。

Zimanは研究だけでなく広く大学人として活動的であった。大学院コースに系統立った講義を整備したのはキャベンディッシュ研究所初の試みであったし(この講義ノートが後に著書「Principles of the Theory of Solids」にまとめられる)、固体物理学の広汎な分野を対象とした輪講会も主催した。この時期の大学院生は、どちらかというと放任されていた観がある。 Zimanは、キングス・カレッジで最初の’tutor’(カレッジの個別指導教官、Zimanの場合は大学院生向けの管理事務一般も任される)を務めている。

1950年代後半から60年代前半は、ケンブリッジにおいて(英国の大学界全体でもそうであるが)、大きな変革の時期であった。第二次世界大戦を終え、新しい時代に向けて多くの改変が迫られた。王立委員会が、所謂、オックスブリッジの複雑なシステムをもっと簡素化すべきであるという勧告を行い、我々に脅威を与えた。こうした中、Zimanは友人のJasper Roseと協力し「The Cambridge Review」の編纂に尽力し、それまで大学改革に関して数々のジャーナルに分散していた意見をまとめ上げる役割を担った。彼らは新しい号を発行する度に、一つの「生け贄」として何か改革成果を上げるという事をモットーとしていた。大学やカレッジ側も徐々に自ら進んで変革を実行するようになった。入学金制度改革や大学院の予算確保など、数々の改革が行われた結果、結局、王立委員会勧告は実行を免れた。改革の必要性が漠然としか認識されなかった時期に、この問題に焦点を絞ったZimanとRoseの功績は大きい。Zimanは1964年にBristolに移る。

04/Phil Andersonと多体理論(1967-1975)


「着任当時の学生のうち、Gideon Yuvalは特に優秀で、私が新しい着想として取りかかっていた赤外崩壊の研究を行った。以後1969年まで、John Hopfieldなどに励まされながら、Yubalと共に近藤問題の解法に取り組んだ。この仕事は1次元電子ガスの問題、コスタリッツ・サウレス転移、X線吸収端の問題など、理論物理の広範な分野から反響を得た。この一連の仕事において我々は、繰り込み群の方法を初めて物性物理 に適用した。Yuvalはその後、イスラエルのモサドに戻り、10年ほど前には、Microsoftに移ったとの便りをもらっている。此の研究は、その後、John Armytageに引き継がれた。彼の学位論文は、後の有名なウィルソンの計算ほどの分量には至らぬもの十分評価に値するような計算成果をあげている。Armytageは塗料業界に就職したが、ArmytageもYuvalも、私の学生のうち、基礎研究分野から産業界に就職した最初の学生である」。

「John Leknerは、Brian JosephsonとHe中のイオンの問題など幾つかの共同研究を行っていて、Roger Bowleyなど優秀な学生も参画した。Leknerは准講師職(当時はDemonstratorshipと呼ばれていた)の任期を終えるとニュージーランドに戻った。Josephsonは、pre-Wilsonian相転移理論においても重要な業績をあげた。彼は1967年に理論グループに参加したが、その前には、Pippardの低温物理のグループ(後にMond Laboratory)と呼ばれるグループに在籍していた。ジョセフソン効果の発見は勿論、言うまでもなく著名な業績である」。

「私は超伝導にも相変わらず関心を続けていて、電子格子相互作用に関する基礎的な問題を考察していた。例えば、Marvin Cohenと共著でTcの最大値に関する論文を著したが、正しい論文なのに随分と槍玉に上げられた。電子格子相互作用に関する Bill McMillanのアイデア、つまり、Dynes-McMillanの論文でやっているような体系化した理論構築にも随分取り組んだ。この問題は70年代に我々の部門に参加してきたJohn Inksonに引き継いだ。彼は多体理論の形式論に基づいて取組みを続け、後に著書を著した。この著書は、当時、私がこの話題に関して数年間 「Part III(学士数学教程第三)」で担当した講義ノートが基となっている。Inksonに与えた課題「金属/半導体界面の問題」に対し、彼は所謂GW法を編み出した。これは後にSwedesにより、局所密度近似法のバンドギャップ予見を改善するのに用いられる。Inksonの論文数自体は大して多くはなかったが、キャベンディッシュに講師職を得、後にExeter大学に移り、教授を経て副総長を務めた。

「我々がまだ『虹の時代』(大陸間を虹のように跨いで活躍していた時期)にあった頃、マレーシアからの学生Wai-Choo Kokがグループに参加した。彼女の題材は、当時、磁性合金の複雑系で実験上の謎とされていた問題、即ち、私が69年~70 年の論文で「スピングラス」と名付けた問題であった。彼女は現在、シンガポールで教授の職にある。スピングラスの会議の席で、私はMydoshによる決定的な実験業績を知る。此を受けて、74年から75年にかけて、Sam Edwardsの協力を受け、この問題に取り組んだ。これが後のレプリカ理論に繋がり、Richard Palmerの協力で1977年、スピングラスに関する有名なThouless-Anderson-Palmerの論文を仕上げた」。

「Patrik Fazekasも『虹の時代』の学生で、ハンガリーから自費留学で来ていたが、彼にはRVB(共鳴価電子状態;Resonating Valence Bonds)に関する課題を与えた。このアイデアは近頃もリバイバルとなっている。我々の手掛けた72年~73年にかけての論文は、内容は刺激的ではあるが決定的な結論に至るものではなかった。Fazekasからは何度か便りをもらっているが、ドイツで過ごしていることが多いようである」。

「Volker HeineやRoger Haydockと当時、興味を共にした話題には、化学ポテンシャルの問題があり、ボンド、イオン、配位子錯体といった純朴な化学的描像を理論的に捉え直すという仕事を行った。こうした化学の概念は全て局所的な性質であって、そもそも非局所な電子構造理論の枠組みとは独立に生起してきたという点に着目した。Cohen-Heineの擬ポテンシャルに関する着想に基づいて超局所非直交ワニエ関数に対する方程式を導いた。北アイルランドから学生だったDave Bullettが此の問題を引き継ぎ、かなりの程度まで研究を進めたが、LDA研究コミュニティの強い圧力もあって、Physical Reviewに此の成果を出版するのには困難を要した。そこで、Seitz-Turnbulのシリーズの第35巻に、Bullett-Haydock- Heine-Mike Kellyの共著で総説を書いた。Bullettは其の後、Bath大学で学科長を務め、彼の尽力でBathの当該学科は「最も恵まれた学科」という賞賛 を得るまでに至るが、その後、彼は悲劇的な死を遂げた」。

「1970年あたりから再び、局在や乱れについて考えはじめ、2準位中心、フェルミ・グラスの問題などについてMottとの議論を再開した。75年夏に「negative U」(負の電子間斥力パラメタU)に関する論文をNatureに出版した。ただ、思い返すに、Mott、それからビジターだったMorrel Cohen以外のいずれの「Cantabridgians」(ケンブリッジ大学関係者)とも交際はなかった」。

「1960年代中頃になると真に優秀な英国出身学生が来るようになった。多体論サイドでは、Richard Palmer、Alan Bishop、John Armytage、Mike Cross、Duncan Haldane、Roger Bowley、John Inksonといった面々、また、一電子理論サイドでは、Dave Bullett、John Inglesfield、John Pendry、Denis Weaireらである」。Richard Palmerは1974年あたりから、状態方程式に関する学位論文などを通じて中性子星関連の研究を始めた。Naoki Itohであった(伊藤直紀、上智大教授)は『虹の時代』で来訪していたが、中性子星の問題に関連した彼との有用な議論は、私を「超流動グリッチ」の着想に至らしめた。このアイデアは、後に私がPrinceton大学に移ってから、Ali Alparの学位論文としてまとめられた。Alparは中性子星の研究業界で活躍していて、現在はトルコの物理学界で活躍している。Richard Palmerについては、John Hopfield(米国からのビジター)が彼の質を見込んで、彼をPrinceton大学に送る。Palmerは、それからDuke大学に移り、そこで「経済物理学」の創始者の一人になるが、数年前、仕事も最高潮だった頃に脳卒中で倒れ、現在は殆ど、復帰の難しい状態にある」。

「英国滞在の『締め括り』として二つの大きなプロジェクトを手掛けた。一つ目は書籍の執筆で、1973年秋にサバティカルでコーンウォール地方の新しいコテージに滞在して多体理論に関する講義ノートの練り直しを行った。内容は以前、Maths Tripos-PartIII (学士数学教程第三)の講義で行ったものであるが、自身が以前から用いてきた基礎概念、即ち、モデル化、解析接続、対称性の破れ、繰り込み群といった概念を基に内容を構成し直した。以降、私の講義は、此のノートを基としており、その内容をまとめて1983年に「Basic Notions of Condensed Matter Physics」として出版したが、それなりに影響力のある著書と自負している。出版までに時間がかかったのは、自身の怠惰でもあるが、実は強相関物理の項目を、ずっと保留にしていたという事情がある。此れは、それなりに正当な理由であって、実際、なかなか此の問題を(本に書けるまで)キチンと理解出来なかったのである」。

「二つ目のプロジェクトは、He3の超流動であった。これは72~73年の冬にChandra VarmaやBill Brinkmanと一緒に手掛けた。問題自体が難しく、分野での競争も激しいので、当初、Mike Crossには参加しないよう勧めたのだが、彼は、ベル研での夏の間じゅうBill Brinkmanや私と一緒に仕事して、重要な論文を数本仕上げている(これらは、我々が74年にまとめた総説論文から引用してある)。Crossは其の後、ベル研にしばらく在籍した後、カリフォルニア工科大学にうつり、流体力学分野での重要人物となる」。

「Duncan Haldaneの学位論文(Princeton大学にて修了)は、私自身の中では「珠玉のアイデアの一つ」というわけではなかったのだが、此の学位論文で、彼のその後の方向性が、より彼の適性に逸れていったのだろう。Haldaneは、Nozieresのポスドクとして非常に鍛え上げられてからPrinceton大学にやってきたのだが、かつてないほど優秀で、また、かつてないほど不可解な数学を操る人物と評された」(以上、Andersonの回想終わり)。

David Thoulessは、64年から65年にかけての短い期間、スタッフとして在籍し、後に70年代と80年代に、英国学士院の教授職として何回かTCMに来訪している。

05/1964年から1975年にかけての電子構造理論など


John Zimanはブリストルに移った後、ブリストル大とケンブリッジとの間で交換プログラムを始め、毎年人材の交換を計った。一方で、Heineは此の時期、英国ひいては欧州の学術的孤立を感じていた。この時期の米国からの訪問者は大変重要で、例えば(何人かは64年以前となるが)、Jim Phillips、Morrel H. Cohen、Bill McMillan、Marvin L. Cohen、Walter Harrison、John Hopfieldといった面々がいた。Harrisonを除いては、皆、ベル研、あるいは、シカゴ大学を経験した人材で、Harrisonについても、ゼネラル・エレクトリック社の顧問をしていたMorrel Cohenの繋がりなので、シカゴコミュニティの一員といえる。これら米国の研究者らは、経費向こう持ちでHeineの招聘を続けてくれたため、1970年代までHeineは米国の出島な立場で仕事をする。実際、この時期、TCMの博士課程を了えた優秀な人材は、ベル研に行くか、あるいは、米国の上記の面々のグループに行くかどちらかという殆ど二者択一的な事態になってきていた。

電子論のサイドでは、Igor Abarenkovの訪問が「模型擬ポテンシャル」の誕生をもたらした。Alex Animaluによる擬ポテンシャルの数値リストは、論文引用の多い「ベストセラー」となった。Denis Weaireは擬ポテンシャルを用いて、sp結合金属系の物性や構造の数多くの事実を説明した。これら業績につき、Heineがベル研で講演を行うと、かのConyers Herringは、「1時間でこんなにも物理を学んだのは初めてだ」と感想を漏らしたものである。これらはSeitz-Turnbulのシリーズの第24巻にVolker Heine/Marvin Cohen/Denis Weaireの共著で総説として収めてある。

電子論に関するその他の業績としては、David Pettiforによる遷移金属の業績、John Pendryによる低エネルギー電子線回折のd業績(§7後半に詳述)、John Inglesfieldによる合金や表面の問題、Mike Finnisによる金属の構造や表面の問題、また、Bob (R.O.) Jonesによる半導体表面の現実的計算のさきがけなどが挙がる。

後に准講師となるRoger Haydockは、計算機管理職にあったコンピュータ数理の専門家Chris Nexと共同で、再帰法による計算手法を開発する。これは電子構造を、局所的な原子環境の立場から研究するための手法である(§4でのアンダーソンの回想 参照)。彼らは、研究競合上、秘匿に進められるのが当たり前だった時代にあって、何と自分たちの計算プログラムを磁気テープに焼いてタダで頒布していた。彼らは、わかりやすいマニュアル類やサンプル計算などを添えて、ユーザが使いやすい計算コードを開発するという新しい研究スタイルの流れを作り出しているかに見えた。再帰法を用いた局所的立場からの研究は、Seitz-Turnbullの35巻のテーマとして、Haydock/Mike Kelley/Heineの共著で総説が収められた。

他にも言及すべき秀逸な業績がたくさんあった。この時期、海外から主要な貢献をしたポスドク?ビジター/院生としては、§4に挙がった面々の他、Bob Shaw、Naoki Itoh、Bob White、Chandra Varma、Denis Newns (英国出身ではあるが)、Michel van Hove、Risto Nieminen、Erio Tosatti、Abhijit Mookerjeeといった人物が挙がる。

グループ秘書としての最初の人物は1965年からのSusan Cattellで、他、記憶に残る秘書スタッフとしてはChristine Burton、Rosaleen Darlington、Linda Webster (旧姓Parsons)がいる。彼女たちは、秘書として数年間、ニキビ面の学生達の面倒など見ながら我々と仕事を共にし、後に世界中に飛び出てもっと大きな仕事で活躍した。より卓越したレベルに向け努力する事は、大学「University」という概念を規定する重要な一部である。Susan Cattellは学位を取得の後、カナダで2人の子をもうけ、最終的にカイロのブリティッシュ・カウンシル英語学校の副校長を勤め上げ退任した。Christine Burtonには語学の才能に長け、その後、欧州議会で翻訳・通訳の仕事に携わった。Linda Websterは、退職後すぐにイースト・ケンブリッジ地区の知事の事務所スタッフに加わり、彼女よりずっと年長の女性同僚が何人もいる中、此をごぼう抜きにして知事の私設秘書となった。Rosaleen Darlingtonは、Heineが知る如何なる女性よりも服装のセンスが優れていたが、母親となってからも其のセンスは失われていない。

06/理論部門における計算機研究や実験部門とのかかわり


計算機に関する事情から振り返えれば、1954年に大学院生として参加したVolker Heineは、往時の計算機「EDSAC I」を用いて博士論文をまとめた。これは米国外で最初に作られた一般用途電算機で、此処ケンブリッジにて建造された。この計算機を用いて相当量の質の高い研究がなされた。当時は、夜中にテープリーダへの補充をすべく人が常駐しなければならず、徹夜で肩を揉み揉み過ごした仲間で思い出されるもは、星団構造の計算をしていたFred Hoyle、ハートリー・フォック法をより重い原子へ適用しようとしていたHartreeの学生達、分子の配置間相互作用計算でガウシアン軌道法を発明したFrank Boysなどがいる。当時、物理と化学で進展の違いは著しく、化学者の「Boys一味」は水の計算を「最初の3元素分子」として手掛けていた一方、物理の方ではシリコンやゲルマニウムのバンド計算は数年前にあがっていて、電子の有効質量の大きな異方性に起因して「重い」正孔/「軽い」正孔が存在する事を理論的に説明していたし、また光学吸収端の形状もフォノンの間接遷移によって説明されていた。

こうした計算機を用いた研究は、TCMグループ(当時はSSTグループ)では心から受け入れられたものであったし、結果として実験/理論の距離を縮める事に貢献した。ただ当然ながら、こうした風潮は物性理論コミュニティ全般には広くは伝搬しなかった。計算機による理論研究など真の理論研究ではないと蔑むようなところもあり、こうした風潮はde Gennesの影響などで、今でもフランスには大きく影を落としている。ほんの数年前の事だが、ドイツの若者が言うには、Heineのような計算物理を主とした業績では、ドイツの理論物理学界では教授職などには決して就けないという話も耳にした。当時も、こうした風潮が大勢を占める所があったが、其れが全く正しいという事ではなかったし(多少の例外もあろうが)、こうした風潮も今ではだいぶ薄れたものである。

実験サイドからは、Brian Pippard (1971-1982/キャベンディッシュ教授職) が今後の理論部門のあり方について、「理論家として、Mottのような人材と、BardeenやAndersonみたいな人材の他、更に、一体どのような人材など必要なものか?」というような意見を持っていた。キャベンディッシュ研究所が今後備えるべき研究資源/人材といった問題に差し迫った関心が集まった。例えば、新しく建造されたキャベンディッシュ研究所の建屋には、理論グループに十分なスペースは計画されてなかった。理論グループが入る事になったMott棟の最上階は、当初、実験グループに割り当てられていたため、我々が彼らを階下に追いやる形になってしまった。教職ポストの面でも同様の事情があり、John Pendryにポストを確保することが出来なかったし、講師に昇任した他の3人の論文引用数を総合した引用数を上回る業績をあげたRoger Haydockでさえも講師に昇任することが出来なかった (PendryにとってもHaydockにとっても、恐らく長い目でみれば、それでよかったのだろうが、当時は予期せぬ痛手であった)。

計算機による理論研究のスタイルもこの時期、変化を遂げた。当初は、理論曲線など理論の帰結が先ずあり、これと実験結果とを対応させるために、具体的なパラメタ数値などを代入して計算を行うというスタイルがとられていた。研究スタイルを峻別するのは難しいが、時代を経てくると、よりシミュレーション的なスタイル、すなわち、物理の基礎方程式なり基礎法則を直接計算機上で走らせ、何が帰結として出て来るかを「観測する」というやり方が増えてきた。 John Pendryによる低エネルギー電子線回折の計算などは、こうしたスタイルの草分けであった。

Chris Nexは当初、奨励資金で研究助手としてグループに参加していたが、研究現場で、計算機数理やハードウエア、ソフトウエアなど計算機に関する知識に大きな需要がある事を知り、大学の計算機管理職に転向/着任した。Nexは、必要性が次第に増しつつあった物理学科学部生向けの計算機教育を導入した。彼以降、末尾のスタッフリストに見るように、グループの計算機管理職ポストが続いていくことになる。

研究所内の理論部門としての役割に話を移すと、TCMでの理論研究/計算機研究プロジェクトの目的として、キャベンディッシュ研究所での実験の理解を助けるような目的で行われた研究は幾つか存在し、TCMグループでも研究資金が許す限り、そうした研究を最優先としてきた。例えば、かつて、Yoffeの層状物質に関する研究プロジェクトで研究資金を得た事もあった。ただ、Yoffe自身が主張したように、こうした事自体が「理論部門が存立する主目的」でもなく、また、「理論部門が存在する事による研究所の利益」でもない。理論家が実験研究の助けになる「在りよう」とは、実験研究の基盤となる概念を明確にし、純化し、伝えていく事である。部門としてのこうした役割は、TCM内部のスタッフのみならず、TCMを来訪する相当数のビジターも担うべき役割である。実験研究は装置のくみ上げや調整に非常に時間がかかり、それに要する資金はカウントされないことさえある。したがって、世界を飛び回って新しい着想を持ち帰るという機会において、理論家は実験家に較べ常に優遇されていると言える。実際、20世紀初頭からの国際会議の集合写真などを眺めていると、そのような気がしてくるのである。

しかしながら「近いのに遠い」というか、TCM/固体理論部門の仕事が、キャベンディッシュ研究所内よりも、むしろ研究所外の実験研究に適用されて成功を納めたという事例が度々あり、若干、考えさせられる所もある。以下の話は、Pendryの低エネルギー電子線回折(LEED)の理論の事例である:1950年代に超高真空技術が発展し、表面を原子レベルで清浄に保つ事が可能になった。表面でのミクロな計測が十分な長時間で可能となり、表面科学が飛躍的に進展した。LEEDは、バルク結晶構造解析におけるX線回折のアナロジーであり、表面の原子レベル構造解析のツールとして最も有望視された技術であった。入射X線とは違い、入射電子は原子に強く散乱されるため、電子線は表面の数層のみしか透過できず、其れゆえ表面情報のプローブとなるというのがLEEDの原理の要点である。このとき、電子線と原子間の相互作用が強いため、散乱ビームは、原子構造と単純に関連付ける事が出来ず、問題は非常に複雑となる。したがって、此を計算で扱おうとすると、完全に量子力学的な扱いが必要となる。先ず、何か構造を仮定して、その仮定が観測される散乱ビームの形状を再現するまで、仮定構造をいちいち再設定して試行を繰り返すのである。このような問題を当時の計算機資源で遂行するのはなかなか困難で、Heineは此の問題をJohn Pendryに提案したのだが、彼はそれを見事にやってのけたのである。

Pendryはまず、電子ビームの強い前方散乱については、厳密な計算が出来るという事に気付いた。したがって、より弱い後方散乱は摂動論の思想で漸次近似をあげて取り入れていけばいいという着想に至った。彼の計算と実験との比較によって、それまで定性的ツールでしかなかったLEEDは、表面構造の定量的決定手法としての地位を得る事になる。そこで、Pendryは、何か単純な典型物質を対象に、実験と理論の照合に協力してくれる実験家を身近に捜していた。丁度、同じ時期、今では表面科学の世界的な権威であるDavid TaborがキャベンディッシュでLEED実験をやっていたので、我々は彼に共同研究を持ちかけたのだが、残念ながら実現しなかった。というのは、Pendryが望む定量的実験を行うには、Taborが当時持っていた実験設備ではダメで、より複雑な装置を新しく組み上げなければならなかったからである。それで丁度、そのような新しい装置を組み上げたところだったスウェーデンの研究者に話を持ちかけて共同研究を遂行し「あとは皆さん御存知の通り」である。ただ、これは、Taborを責めているのではなく、彼は当時、金属表面酸化の初期過程に関する先駆的な仕事を手掛けており、Pendryの申し出に応えようとすると、装置の大幅な変更やそれに伴う時間的コストも問題となったであろうし、それに研究資金の元々の目的から逸れてしまうというのが恐らく最も大きな障碍だったろうと思われる。実際、Pendryの方法が確立されてからは、すぐにTaborグループにいたLionel Clarkeが、Pendryの目的にそぐう装置を組み上げ、Pendryの計算コードを使って解析に着手している。

07/教育上の変革(1):科学の社会的責任


1960年代になると科学者の置かれる社会的立場が大きく変わってきた。それまでのように、表には出てこなくても、其の専門性が無批判に受け入れられるというような状況でなくなった。原子爆弾の問題は、科学者の社会的責任について大きな焦点となった。1960年代中盤には、環境問題に関連して、Rachel Carson著「Silent Spring(邦題;沈黙の春)」や、ローマクラブ(NGO団体)の「Limits to Growth(邦題;成長の限界)」といった著作が現れ、こうした問題への認識も高まってきた。

そういう訳で、AndersonとHeineで(Andersonの着想であったが)、「科学、技術、そして社会」という講義を開講し、約10年、 Martin Richardsや、後には、Malcolm Ruelとの共同で此のコースを運営した。Sir Eric Ashby(後にLord)の助力もあり大変助けられたものである。この課程は、8から12項目の独立した講義からなっていて、若干の重複をしながらも、毎年、内容の異なる講義を行った。殆ど全てケンブリッジの人間で、科学哲学から、エネルギー政策、環境、「緑の革命」、原子力兵器政策、人口問題、医療倫理の分野からの専門家が講義を担当した。例えば、体外受精技術で著名なBob Edwardsなども其の一人である。Andersonは2つから3つ、Heineは1つの講義を、科学マネジメントという内容で担当した。この課程には、150人からの聴衆が、学部生からビジターに至るまで広い分野に亘って参加した。

キャベンディッシュ研究所内では、此の受講を「物理学及理論物理学第二(Pt II Physics and Theoretical Physics)」の単位として認めたが、他のいかなる学士コース、例えば、歴史専修コースや、科学哲学専修コースであっても、このコースの受講は単位としては認められなかった。

08/教育上の変革(2):理論物理学


1950年代、自然科学学士コースの内容は、数学や理論に関して非常に整合性の悪い状況であった。数学は、他の自然科学科目とは「異なる」扱いになっていたのである。例えば、当時の学生は、初年度に必修四科目とは別に、数学では必ず優をとらなければならなかった。そうしないと何と次年度に「自然科学の数学」という科目を履修する事が出来なかったのである。当然、数学は必修ではなかったので、履修状況も悪く、物理関連の全ての講義は、高校以上の数学知識は前提せずに準備しなければならず、随分、骨の折れる講義内容になった。一方、数学の講師陣も、自分たちが相手にしている学生達が物理、あるいは、場合によっては化学や生物を履修している事など前提としなかったので、講義の内容は無味乾燥な純粋数学、つまり、具体的イメージを欠いたような内容となり、自然科学方面への数学教育としてはふさわしくない内容になっていた。1960年代中盤までには、物理の学生は事実上全員、初年度に数学を履修していて、学則上も、彼らが次年度に「自然科学の数学」を履修可能とする条件が優から良に引き下げられた。2年次にも続けて数学を履修する学生の割合も向上し、状況は若干は改善された。正式には、正規の講義を編成出来るのは「学科」のみで、また、全てのインフォーマルな「監督」教育は「カレッジ」の裁量であったが、Heineは純粋にボランティアで(キャベンディッシュ研究所という一部局の非正規の立場から)、学科講義の演習枠を、理論物理の教育内容に充てた。此は、2年生を対象に、物理の講義内容から題材を採り、より数理的にスッキリした形で扱い直すという内容であり、学生が初年次に履修した数学を「実際に使って」物理の問題を扱う事で、物理・数学共に、もっと血の通ったものに感じてもらうという事を目的に据えた。このクラスは相当評判が良かったので、現在に至るまで存続している。

当時、「正規の」理論物理学教育は全て、「応用数学及び理論物理学科」で、数学学士コースとして編成されていた。ただ其れは理論物理学というよりは物理数学と呼ぶべき代物であった。そこで、1950年代に、かのHartreeが、物理3年次の物理学第二の実験実習の時間枠から、選択題材として理論演習的なコースを開設して、熱伝導方程式など古典論における偏微分方程式の解法や、あるいは、量子力学でのシュレーディンガ方程式の解法などを講じた。1960年代には、このコースは、Richard Edenに引き継がれたのだが、ある日、彼がHeineの所を訪ねて来て、「若干の例外はあるかもしれないが、我々の手で、より質の良い理論物理学の教育課程を設置出来るんじゃないだろうか」と提案し、実際、これは実現の運びとなった。この理論教育課程は、其れまでの実験実習の全ての時間枠を引き継いで、通常の3年次の物理の講義内容全てに置き替えて、さらに3回分を、解説付きの例題演習に時間に充てた。開講の主眼としたのは、学生が「一応、一度は聞いたことのあるという事項」に対して更に理解を深め、実際に手を動かして問題を解けるレベルにもっていくという事である。この課程に関して、唯一問題があったといえば、それが随分ポピュラーになりすぎて、学科の実験家達の鼻をあかす事になってしまった事である。当然のことながら、HeineとTCMは、このコースの教育担当とコースの運営保守に指導的役割を果たした。

09/Sam Edwardsの参加と「高分子・統計グループ」、1972年


Sam Edwardsは、1972年に「Humphry Plummer教授職」として着任した。彼の研究対象である高分子物理学は、色々な意味で従来の固体物理学とは異なるため、高分子物理にも収まりが良いように、其れまでの「固体理論部門(SST; Solid State Theory)」という名称が「凝縮系理論部門(TCM; Theory of Condensed Matter)」と改められた。

ほどなくEdwardsは英国科学研究委員会(Science Research Council、現EPSRC)の委員長となったため、ロンドンに張り付かねばならなくなった。それで列車での移動中に学生を指導したり、あるいは会議の議長を務めながら多重積分に取り組んだりという生活となったが、此の時期が最も業績の上がった時期でもあった。彼は、P.W. Andersonと共にレプリカ法を開発し、スピングラスの問題に適用した。其処では秩序パラメタを如何に定義するかという事が問題となったが、此に解答を与える形でスピングラス転移の平均場理論を構築した。これは後にスピングラス関連の産業や、あるいはニューラルネットワークに関する分野の勃興をもたらした。ポリマーの運動は、蛇が這うような蛇行運動であることが明らかにされた。即ち、絡み合った長鎖の分子が、まるで筒の中にあるが如く、くねくねと這い登り、一方の端を伸ばしながら、他方の端を縮み上げて進む(Masao Doi/土井正男)との共同研究)。また、束縛緩和と此に起因する分子歪は、理論的に明快に説明され、レオロジーという、産業的にも巨大で重要な一分野の基礎を築く事になった。「Doi and Edwards」の標準的教科書も著された。

統計物理学分野のポストに、新しいスタッフメンバーとして、Robin Ball、Mark Warner、Mike Catesが着任した。Robin Ballは、DLA問題(diffusion limited aggregation;拡散に支配された凝集)の創始者となる。此は、例えば雪や煤といったフワフワした物体がどうやって形成されるかを扱う問題である:小さな凝集核が一旦生成されてしまえば、これを中心に、個々の分子なり煤煙微粒子なりが、その核に次々とくっついて成長する。こうやって形成されたクラスタ表面に、次々と分子が付着して、それで、フワフワした物質が成長するというのが尤もらしい説明ではあるが、雪や煤にも様々な形態があるので、多様な説が存在する。此等を系統的に分類するという仕事を80年代から90年代にかけて手掛けたのがRobin Ballである。具体的には、高速で高効率なシミュレーションプログラムを開発し、様々な仮説から出発して、実際に何が起こるのかシミュレーションする事で、考察・説明を与えた。Robin Ballは、1998年にWarwick大学の教授職に栄転した。

Mark Warnerは液晶弾性体に関する初の理論を構築し、次いで準結晶に関する数多くの現象を発見した。例えば、少しの熱や光照射で長さが5〜6倍にも変化するような固体の存在を予見したり、エネルギーを要さずに形状を変える奇妙な固体、あるいは右手と左手のような違いを持つ固体、更には、ちょっと励起すればレーザ発振する物質や、伸張を与えると発光色を変化させる物質などである。Mike Catesは、多数の石鹸分子からなる分子鎖を考え、この系が「分子鎖の絡み合った状態から互いに這い出す方」を採るか、あるいは、「この状態自体を廃して再構成する方」のどちらを採るかといった問題に取り組んだ。彼は、タマネギ構造、ワーム構造、あるいはシート構造を形成する両親媒性分子について、その複雑相一般についての専門家となる。彼は、1994年にエジンバラ大学の教授職に就任する。この分野で記憶に残る学生としては、豪州からMark Warnerのグループに参加していたDavid Williamsがいる。かれは鐵脚の士として知られており、休暇には、数千キロもの距離を2、3週間もかけて自転車で走破するような事をしていた。午後から自転車でマンチェスターに出掛けていったこともある。山岳マラソンやトライアスロンも得意であった。研究にかけても疲れ知らずで、現在はキャンベラ大学で応用数学科の学科長を務めている。

Sam Edwardsは、産業界にも非常に太いパイプを持っていた。Mark Warnerの教職ポストの初期資金も産業界から持ってきたし、後には、ポリマー・コロイドグループ(P&Cグループ)での実験・理論の巨大プロジェクトを、Unilever(英国の企業)から資金調達で実現したりした。このP&Cグループは、長年TCMのメンバーであったAthene Donaldを長として創設された。Sam Edwardsは退官に伴ってP&Cグループに移り、また、Robin Ball、Mike Cates、Mark Warnerは、P&Cグループで理論のポスドクを指導した。1984年から1995年の引退まで、Sam Edwardsはキャベンディッシュ教授職を務めた。また学科長を7年間を務めた。退任後も主に粒状物質を対象とした先駆的研究を続けている。Sam Edwardsが主催するキース・カレッジの貴賓向けディナーは大変有名で、Doreen Aldertonが此を取り仕切った。このディナーには産業界の大物が招かれることもあったし(誰が言ったか忘れたが、「研究資金の呼び水」として機能した)、また例えば、Pierre-Gilles de Gennes(※後のノーベル賞物理学者)といった研究上のゲストが招かれることもあった。

10/Brian Josephson


Brian Josephsonの初期の業績については、第4節に述べた通りである。1970年代以降は、理論物理学の視点から、脳の機能とか、あるいは何か他の自然のプロセスと関連づけて、自然界に於ける知的プロセスをざっと特徴づけるといったような問題に取り組んでいる。彼はまた、量子力学の基礎的問題、特に観測問題と心理プロセスとの関連についても取り込んでいる。彼はまた、何年にも亘って、「Journal Club」を主催している。此は、物理全般の分野で、面白い着想やちょっとした業績についての論文紹介を行うものであり、大学院生やTCMメンバーが参加している。

11/電子構造理論と第一原理計算の始まり/1975~1990年代まで


1975年にPhil Andersonが転出すると、Volker Heineが後任の教授に昇任した。グループの旅費や招聘に関する出費は永年、Andersonがとってくる米国空軍絡みの研究資金で賄われてきたので、彼の抜けた穴は大きかった。そこで、Heineのやるべき最初の仕事は、英国科学研究委員会(EPSRC)に掛け合って、これら資金を確保するという事であった。当時、実験家は、シンクロトロン実験施設とかILL(フランスにある中性子散乱研究所)に行くための旅費を、寄り道も認めて補助されていたが、理論家には「旅費は必要ないもの」とされていた。当時の科学研究委員会の資金給付の構造は、少なくとも物理分野に関しては、実験家により実験家のために運営されている観があった。しかしながら、新しい概念というのは実際、殆ど理論家によってもたらされるのだから、理論家が最先端を走るためには、出張・招聘というのは致命的に重要な事項なのである。いずれにしてもHeineは、旅費・招聘こそが理論家の一流と二流を分かつ要素であるという議論を、詳細な例をあげて展開し、EPSRCを説得することに成功した。

もう一つの問題は、個人の研究奨励金の余剰を流用する事が認められていなかったという不都合である。研究奨励金をもらっている人間がカレッジのフェローに採用されたり、あるいは転出した場合には、研究を引き継いだ人間に、余った奨励金を引き継がせることが許されていなかった。研究奨励金は期間2年でキッチリ区切られていたという事情もある。一度など、John Pendryが、Daresbury大学に移る際、余剰資金が2つ生じたので此を一つにまとめようとすると、当局側は、大学を告訴すると脅して混乱を引き起こした(Heineが此の事に言及すると、当時の学科長だったPippardなどは「そんなのは告訴させたらよい。どうせかこっちが勝つ事だ」と言ったものである)。高エネルギー物理学のグループでは、この問題を上手いこと解消していて、グループ全体として奨励金を獲得し、此を流動的に運用することで問題を回避していた。ただ、此の扱いは別委員会の管理下で認められた特例であって、そのような「流動的奨励金」は、科学研究委員会の一般慣行としては許されていなかった。Heineは、此の事について再び説得を挑まねばならなかったが、物理委員会のRoger Elliot委員長は、Heineの主張の支持に回ってくれた。Elliot委員長自身も以前、同様の経験を持っていて、奨励金の流動性がオックスフォードの理論グループに多大な活性化をもたらしたという事実を肌身で感じていたからである。Sam EdwardsがEPSRCの委員長であった事も効いたのだろう、彼がTCMに戻った際にも、裁定が自身に反映するからである。そう言うわけで、流動的奨励金が実現の運びとなりグループ全体の旅費、招聘、また後述するようにコンピュータ周りの物品にも使えるようになった。此の資金は異なるプロジェクト間でも流動的に使えたし費目間流用も可能だったので、Richard Needsのために電算機室を開設するに当たっても大いに役にたった。

ger Haydockが準講師職に着任し、いよいよ彼とChris Nexのリカージョン法が本領発揮の時機となる。この手法では、アモルファス物質の電子状態や格子振動を計算することが出来、鉄中で局所磁気モーメントがランダムな方向に向く問題や磁気秩序のない状態なども扱う事も出来る。当時、このような計算は、他の誰も行うことは出来なかった。Roger Haydockは、オレゴン大学に移った後も、毎年夏にはTCMで数週間過ごす生活を続け、当然、サバティカルもTCMで過ごした。彼がオレゴン大学でグループを創設するにあたって、James AnnettとMatthew Foulkesを引き抜いた。彼らはTCMで1年間、HaydockがTCMを訪問して指導し、ケンブリッジで学位を取る様にし、その後、Oregonの所在地Eugeneで2年間研究を行ったが、これは結果として、彼らにとって素晴らしい経験となった。

70年代後期には、Richard MartinとMarvin Cohenによる平面波基底擬ポテンシャル計算が現れ、固体の諸過程や物性が驚くほど良く記述される事が示された。Heineはそれまで大規模計算を手掛ける経験はなかったが、Martinらの研究動向を受けて、こうした大規模計算が此までなかなか打開できなかった問題に新しい途を拓くであろうという認識を持つに至った。1980年辺りの話であるが、科学研究委員会(EPSRC)が、其の発足時点において電子状態計算の分野を考慮していなかった点について、Heineは苦言を呈した事がある。当時、物理学委員会委員長だったMike Hartは、此れに対し、ある大物に打診して此の件を優先的に扱ってもらえないかどうか訊いてみると答えた。翌年、ケンブリッジ大学の学科に、「若手新潮流ポスト」という新設ポストの予算が付いた。旧態化した学科に新しい講師陣に取り入れ、新しい血を吹き込もうというのがポスト新設の趣旨であった。Heineは此処に、誰か電子状態計算の研究者を配置する旨、提案したのだが、当時のキャベンディッシュの権力筋によって非常に低い優先順位に廻されてしまった。ところが、初年度は提案採択は大学ではなく科学研究委員会(EPSRC)が行うことになっていて、大学にとっては悔しいことに、此の委員会裁定は大学側の意図と完全に独立した意向で行われた(因みに、此の噛み合わせの悪さから、次年度以降は、委員会裁定が介入することは禁止となった)。結果、上記の大学権力筋の意向を排して、Heineの提案が採択される運びとなった。問題は適任者選定である。人を置こうにも、当時、電子状態計算に習熟した適任者が此といって居なかったのである。この話に興味を示したのが、当時、Sam Edwardsの下でポリマーのシミュレーションを手掛けていた大学院生Richard Needsで、新しい分野に鞍替えしたいと申し出た。そこで当時としては前代未聞の措置であったが、最初の1年、電子状態計算を習得すべく、(米国の)Richard Martinのもとに、Needsを特別に出張させるという措置をとった。1年後、Needsは米国から戻る際に、Karel Kuncの開発した実用コードを持ち帰り、これを土台に研究基盤を拡げていった。この基盤から輩出した人物としては、Neville Churcher、Dominic King-Smith、Ching Cheng、Abdallah Qteish、Jyh-Shin Linといった人物が続く。此を適用した研究としては、SiCの相図計算や、表面構造における表面応力の問題、電子放出、水分による水晶の劣化問題など多岐に及ぶ。

電子状態計算が大規模化するにつれ、必要となる計算機資源の問題が出てきた。これは、大学当局や国家機関、特に科学研究委員会(EPSRC)との闘いであった。当時、制度上の決まり事として、大学では7年程度毎にメインフレームの計算機が機種更新され、一方、大型スーパーコンピュータは科学研究委員会(EPSRC)が一台を集中的に管理し、研究者は、研究資金を投じて若干の計算時間をもらうという体制になっていた。つまり、EPSRCでは、小規模グループで手掛けるような科学計算には対応しないという体制をとっていた(但し、高エネルギー素粒子物理の連中は例によって特別優遇で例外である)。ところが、ワークステーションの出現で、こういう制度自体が、非常に非効率的で意味を持たなくなった。例えば、当時の大型計算機センターはラザフォード研究所にあり、100人程度が従事するような大きなものであったが、其処で我々に割り当てられた計算時間は全く不十分だった。そこで我々は、EPSRCの研究資金枠に応募し(一部、大学からの研究資金だったが)、1年のやりとりの後、研究資金を獲得して、VAXの浮動小数点計算ベクトル機を購入した。これは件のラザフォード研の大型計算機を大幅に上回る計算機能力をもっていた(まあ、殆ど一台分の値段で2台のベクトル機を得たという別の事情もあったのだが)。David Hartleyのチームによる計算機サービスは非常に質が高く、彼らこそは、英国の大学で最初に計算機のネットワーク化や資源分散化を牽引した集団といえる。

此の時期にも、物理として良質な研究が進行しており、代表人物としては、Kiyo Terakura(寺倉清之)、Bernard Buxton、Pedro Echenique、Angela Lahee、Mike Gunn、 Mathew Foulkes、James Annettといった面々がいる。Rex Godbyは米国より帰国して、GW法によるバンドギャップ記述の改良を手掛け、この分野に大きく貢献した。此の時期の秘書は、Celia Groomで、TCMの在籍メンバー(Dave Kingham)と結婚した唯一の秘書である。

12/最優先課題としての欧州内の共同研究


Richard Needsが米国から戻った頃(→§11)、彼と同じ計算手法を欧州内で手掛けている若手研究者は、Needsの他に僅か4名だけで、いずれも米国のMarvin Cohen、Richard Martin、Michael Schlueterらに師事した、Karel Kunc/パリ、Mathias Scheffler/ドイツ、Ole Nielsen/コペンハーゲン、Sverre Froyen/コペンハーゲンであった。Heineは「若手新潮流ポスト」創設の経緯(→§11)や、此の分野への期待といった事もあって、定例学会の最後に小さな研究会を主催した。此の席でHeineは、上記の若手総勢5名の相互協力こそが、米国に勝るような最先端研究の鍵である旨を主張した。Schefflerは此を受け、「Total Energy and Force Method (全エネルギーと力の計算手法に関する研究会)」と銘打たれた研究会を翌年開催する旨、引き受けた。此の研究会は、以降、毎年トリエステのICTPを中心に運営され、Needsは、其の指導的役割を担っている。此の会議は現在では世界的に重要な会合として、電子構造計算の最新の進展を議論する場を提供しており、米国からの参加をはじめ、日本からもKiyo Terakura(寺倉清之)の参加がある。

同じ頃「Britain CCP9」が発足した。CCPとは「Collaborative Computing Project(計算機共同プロジェクト)」の略称である。1978年にスーパーコンピュータ「Cray 1S」が欧州ではじめて学術研究に供され、英国Daresburyに設置された。この高価な研究資源を広く有効活用するために、Daresburyのスタッフ一名が世話人となって、学術研究者の参加を呼びかけて、CCPの会議が連年開催された(但し、化学分野は計算資源にも恵まれていたので、この動きには参入していない)。CCPでは、ポスドクが旗艦プロジェクトを立ち上げて大きな資源を享受するような事も可能であった。電子構造計算の主要事項については、数々の研究会が開催され、これによって重要な計算コードが開発・保守された。例えば、ドイツやオーストリアで精力的に研究開発されてきたCPA (コヒーレント・ポテンシャル近似。合金や磁気秩序の熱的非秩序に対する近似法)を用いたKKR法の計算コードも、CCPの様な活動を通じて保守されたコードの一つである。CCP9の理念は、したがって、当初から欧州一円を意識しており、英国一国だけの動きということではなかった。CCP9の主要活動メンバーの姓(Balazs Gyorffy、Walter Timmerman、Dzidka Szotek、Volker Heine)が欧州の典型的な姓である事実からも此の理念は明らかであろう。CCP9で支援されたもう一つの重要なコードが「CASTEP」である(→§15)。

上記二つの流れは、現在では、欧州連合ECに基盤を持つ「欧州トレーニングネットワーク」、及び、欧州科学財団(European Science Foundation)の傘下である「Psi-k」から、夫れ夫れの基金で支援されている。TCMグループは此の両方に積極的に関わっており、Richard Needs、Mike Payne、Volker Heineが、此らいずれかのネットワークには必ず参加している。また、Rex Godbyは現在、別の研究コミュニティ運営の委員長を務めている。このような研究ネットワークや共同関係が、第一原理シミュレーションにおける現在の欧州の地位の構築に大きく貢献したことは間違いない事実である。

13/鉱物学を石器時代から脱却させる:鉱物物理学の誕生


研究活動においては、既に開拓された領域で仕事をするよりも寧ろ、新しい研究領域を開拓する方が面白いものである。或る日、Des McConnellが、Heineの部屋にやってきて、ドア一杯の体躯で立ちはだかり、「あなたは多分、対称性の事をよく分かって居られるだろうから、ちょっと聞いて欲しいんだが…」と切り出した。彼は当時、ケンブリッジ大・地球科学鉱物学のReader(助教授相当職)で、長石やその他珪化鉱に見られる非整合周期構造の起源をめぐって、自身のアイデアで仕事を進めていた。こうした非整合周期構造というのは、金属においては、フェルミ面のもたらす効果としてよく知られており、TCMでも、此を扱った論文が数本が存在したが、彼の扱う問題は絶縁体であり、当時、その起源は完全に謎とされていた。いずれにしても、彼の訪問以降、パブでの昼食会合を何度か繰り返し、非整合周期構造を持つ絶縁体物質や此の手の問題に、固体物理学や計算機シミュレーションの手法で対処できないかどうかといった事が議論された。TCMにおけるその後の研究活動には、非整合周期構造の問題、SiCのポリタイプの問題(積層順序に見られる多様性)、水による水晶の劣化といった課題がお目見えするが、此等は全て、此の「パブランチ」に端を発しているのである。

かくして鉱物学は、物理学の着想と計算機シミュレーションの対象としての成熟果実的な分野となった。とある米国鉱物学の一流誌の副編集長は、数年後に以下のように述べている:「編集者の立場から見て、鉱物学は純粋な博物学としては末路を迎えた。今後はより定量的で、且つ、「何故?」を問う学問となるべきだろう、即ち、より物理学たるべきである」。そこで、HeineとDes McConnellは、オックスフォードのJulia Yeomans (統計力学)や、ロンドン大学のDavid Price (鉱物学, McConnellの高弟で、嘗てHeineの居たカレッジで研究員を務めていた)をセミナーに呼び、色々と交流を深めた。此の繋がりがきっかけを呼び、物理や化学から地球科学科のポジションに人が着任する事に結びついた。例えば、Martin Dove、Ekhard Salje (ドイツ出身で、既に物理学から鉱物学者に転身を遂げていた)、ケンブリッジ出身者としては、Emilio Artachoが其れにあたる。彼らのグループは、発足当初はTCMが此をサポートし、共同プロジェクト、あるいは、某かの共同研究名目で2-3名の研究学生ポジション確保した。共同研究名目には、例えば「分散プロセッサ型特殊計算機に関する研究」といった題目を据えたものである。此の分野は、今では鉱物物理学と呼ばれているが、ケンブリッジが主たる発信源であり、しかし決して排他的でない形で、英国中や、あるいは大なり小なり欧州大陸に拡がっていった。数年の間はTCMが英国におけるこうした動向の牽引役であった。

14/量子モンテカルロ法


今更説明する必要もないことではあるが、量子モンテカルロ法(QMC)は、§11、及び、§15で述べた第一原理手法を行う上で、ずっと精密で近似の少ない手法である(勿論、未だ排除できない「アキレス腱」たる近似も残るが)。量子モンテカルロ法は、大雑把にいって、1000倍は計算機パワーが必要になるので、1990年頃までは実用計算には程遠い手法と思われていた。しかしながら、新領域開拓的な魅力は同じくらいに大きく、Richard Needsが此に取り組みはじめた。彼は元々、密度汎関数法の研究者であるが、こちらは、CASTEPプログラム(→§15)を開発したMike Payneにバトンを引き継ぎ、Needs自身は量子モンテカルロ計算の世界的専門家となった。そうこうしているうちに、計算機パワーが、Mooreの法則にしたがって情け容赦なく伸びて、量子モンテカルロ計算で現実的な固体を扱う事すら「遠い望み」ではなくなり現実的に実効可能な課題となった。

NeedsグループによるQMCプログラム開発では、初期の段階で、Guna Rajagopalが重要な役割を担った。最近になって、Mike Towlerが精力的にこれを引き継ぎ、強力な「CASINO」プログラムへと成長させた。こうした大事業には、もちろんの事ながら数多くの大学院生、ポスドクの貢献がある。主な功労者としては、Steve Kenny、Andrew Williamson、Paul Kent、John Trail、Neil Drummond、Pablo Lopez Riosといった名前があがる。興味深い適用対象としては、炭素の各種形態の安定性、様々な系での交換相関孔の形状、半導体クラスタでのバンドギャップのバリエーション、あるいは半導体の欠陥に関するエネルギーなどがある。

Mike Towlerは、CASINOプログラム以外にも大きな貢献があって、特筆すべきなのは、彼が発案・導入から運営まで行っているコーヒー・マシンがある。これはプロ仕様・業務用の大型エスプレッソ・マシンで、イタリアの本格的なコーヒー豆を使用している。彼はポスドク時代の2年間をイタリアで過ごし、イタリアをこよなく愛する事が背景となっている。毎週行っている「Electronic Structure Discussion Group」(電子構造理論に関するセミナー)は、旧くはMichel Coteが創始したが、今ではMike Towlerが精力的に運営し、理論化学や、Emilio Artachoなど地球科学からも参加者がある。さらにTCMフィルムクラブ(映画鑑賞会)、「新コーヒー文庫」(文化的書物の撰集)の他、喫茶ラウンジにおけるアミューズメントも数多く運営している。じきに結婚し父親となる事で若干ペースが落ちると思われるが、今後のアクティビティが楽しみである。

15/Mike PayneとCASTEP/UKCP/ONETEP


Mike Payneは、1985年から1年間、MITのJohn Joannopoulos教授のグループで過ごした。Joannopoulosは、IBMのYorktown研究所で、Roberto Car自身から、カー・パリネロ法について最初に話を聞いた面々の一人である。Joannopoulosは、此の手法が第一原理計算の将来的な切り札になると直感し、Payneにコード開発をさせる事にした。Payneは、TCMに戻ってからも此の仕事を続け、研究グループには、優秀な学生やポスドクが集まり、動きは徐々に拡大していった。参加メンバーには、Allessandro De Vita、Ivan Stich、Victor Milman、Ruben Perez、Ian Robertson、Graham Francis、Guy Makov、Carla Molteniといった面々がいる。Heineは、CCP9に働きかけ、此の手法を同プロジェクトの旗艦として発展させるよう調整した。その成果が、CASTEPプログラム (CAmbridge Sequential Total Energy Package)であって、今では、広く英国や欧州の研究グループに普及している。

1991年には、研究プロジェクト「SERC initiative」によって、エジンバラに64ノードの「Meiko並列計算機」が導入された。主目的は素粒子分野(量子色力学;QCD)の計算であったが、研究経費をSERC内の他の分野にも分担してもらう事として、演算時間の25%が、カー・パリネロ法シミュレーションに割り当てられた。すぐに英国カー・パリネロ計算コンソーシアムが組織され、オックスフォード、エジンバラ、バース (David Birdのグループ)、ケンブリッジの各大学の研究グループが、共同で研究資金の提案書を書いた。ただ、この時、カー・パリネロ法が並列計算に乗るかどうかという事が大きな問題となった。電子状態計算においては「ブロッホ関数の展開係数を分散処理させる」という事に相当する訳であるが、当時、並列計算は極く萌芽期にあり、かつ波動関数は「分割できない一枚岩の量」だと考えられていたので、後に、Mike Payneが或る会議で表明する「k点毎に分割した分散処理」という着想などには、人々は中々至れなかったのである。その会議での人々の驚きも、今となっては昔話である。

さて、件のコンソーシアムは、並列計算機上で稼働する「CASTEPのパラレル版」の開発に成功し、Edinburgh Parallel Computing Centre (EPCC)の貢献に謝して「CETEP」(Cambridge-Edinburgh Total Energy Package)と名付けられた。CETEPは、DFTで数百もの原子を扱うという大規模計算の方向性で、真に世界をリードした計算コードである。

CASTEPは、1994年に、Molecular Simulations社 (後にAccelrysに改称)とライセンス契約を行い、無料頒布を終了した。この事については、電子構造理論のコミュニティから批判も上がったが、此の決断は不可避であった。というのは、研究委員会(文科省相当)が、ポスドクの資金を断った背景があり、ユーザ層を増しつつあるCASTEPの機能拡張や、新規計算機上での運用に関する取組みが、此の儘では継続出来なかったのである。CASTEPは、今では6百万ドルを超える売上げを達成し、AccelrysはTCM卒業生をかなりの数、雇用している。CASTEPは、1999-2002年の間にコードが整備されたが、これに貢献したのは、Matt Segall、Chris Pickard、Matt Probert、Phil Hasnip (以上TCMメンバー)、Stewart Clarke (Durham大学)、Keith Refson (Rutherford-Appleton研究所)、Philip Lindan (現Kent大学。コードの整備事業立上げに大きな役割を担った)といった面々である。新しいCASTEPは、PayneやHeineでも分かるよう、Fortranで記述されている。

CASTEPの計算コストは、通常の多くの電子構造理論法と同じく、系のサイズの3乗に比例する。Mike Payneにとっては、此のようなコスト・スケーリングは好ましくなく(それは、例えば再帰法よりもずっと悪い)、特に、彼が大きな興味を向けつつあった生体系への応用など、将来的に大きな系を扱う際の憂慮事項であった。此の課題には、Peter Haynesが10年近く取り組みを続け、系の原子数に線形にスケールするよう計算コストを改善した第一原理手法を開発しつつある。特に、此の4年間では、Arash MostofiとChris Kriton-Skylarisが、Haynesと協力して、ONETEPプログラム (Order N Electronic Total Energy Package)を開発し、数千原子の系を、CASTEPと同精度で計算出来るような実装を手掛けた。ONETEPプログラムは、TCMを、再び電子構造理論の未踏分野に推し進める役割を果たしている。

16/David Khmelnitskii


David Khmelnitskiiは、主にMike Pepperが尽力してケンブリッジに引っ張ってきた人物で、Trinityカレッジで名声高い「Title B Fellowship」に選出された。TCMは、此の畏れ多く文化の薫り高い物理学者を受け入れる特権を享受し続けており、近年のTCMの雰囲気は、より深い味わいを増したと言える。Khmelnitskiiは、Chernogolovkaにあるランダウ研究所に育った優秀な物理学者で、その最初の卒業生の一人である。彼の学位論文は、後に米国で、Wilsonの手によって著名となった繰り込み群の応用に先んじた草分け的な仕事であった。ランダウ研究所の常勤メンバーとして奉職し、局在、整数量子ホール効果からメゾスコピック物理といった分野で、幾つかの業績を以て、分野開拓に貢献した。JETP Lettersの編集者を努める事により、文献に関して卓越した知識を身につけた。現在も、その専門分野において清廉潔白な査読者として卓越した能力とバ イタリティを発揮し続けている。最近では、TCMでの素晴らしい講義で、その名が広く響いている。レギュラーな講義の他、「Fairy Tales」と銘打たれたオムニバス的な講義で、物理学の広い範囲に亘る話題をカバーしており、我々にとっての哲人・高僧といった言葉がふさわしい人物である。最近は、局在に関する話題をはじめ、多様な主題で、強相関電子系のグループに参画している(→§18)。

17/「若武者」らへの世代交代


1970年代から、グループは「流動的研究資金」を研究委員会から受けることが出来て、個々のプロジェクト資金をまとめたり再分割する事が可能となったが、これは資金の名称や形式は変化しながらも、今日までずっと続いている(→§11)。この研究資金は、他の著名な研究資金枠より、額面は若干劣るかもしれないが、費目間流動性など使い勝手の良さや、ずっと続いている事による頼りがいという点で多くの有り難みを享受出来るものである。例えば、80年代初頭には、ポスドク採用の計画人数を充足出来なかったために生じた余剰分の資金を流動させて、Richard Needsのための計算機と計算機室に充てたということなどがあった。

1990年あたりから、自身の勢いの落ちを感じたHeineは、グループ運営の殆どの仕事を「若武者達」に引き継いでもらうようになった。若手教員は、着任当初、講義や試験、大学院生指導の立ち上げに忙しいので、彼らをグループ運営管理的な仕事から護るという意図で、中堅教員たる「若武者達」がグループ運営を分担していたのだが、1990年も初頭になると、彼らも小慣れてきて、より責任ある仕事を担いたいと風になってきたので、管理運営の仕事は、よく分担され機能するようになった。

グループ秘書として、印象深く記憶に残る人物としては、Tracey Inghamと、Pam Hadderの名前があがる。グループが発足した頃は、秘書といえば若い人が多かった。当時は、女性が、看護婦とか教師になりたくない場合に、秘書になるという職業選択が割とあって、秘書コースの教育を終えて、我々のところに着任するというのが典型的なコースだった。今の御時世では、当然、大学に進むような優秀な人材で、実際、彼らが、その後、TCMを出てからの業績などを見ても、如何に優秀で可能性をもった人材であったかがわかる。英国内の高等教育も普及して、こういう秘書の供給源というのはなくなってしまい、1980年あたりからは、より年齢の高い、経験を積んだ、能力の高い女性に面倒を見てもらうことになった。

18/リトルウッドの世代/1997年以降


Peter Littlewoodは、Heineの後任として「Physics1966」のポストに着任した。このポストは名前こそ「1966」であるが、大なり小なり昔の格式を以て、TCMグループに付与されたポストで、要請があれば、先の世紀にも続いていくものである。国の制度(National Research Assessment Exercise)の関係で、Littlewoodの着任は、Heineの退任に一年先んじて行われたが、グループでは、新しい体制がどのようになるのかという漠然とした不安があった。Littlewoodは、此の時期、何度かTCMグループを訪れていた、ある日、彼がコーヒー・ラウンジで牛乳瓶を洗っていたのが目撃され、新体制も以前と変わらないようだという、安心のため息が廊下にこだましたものである。

Littlewoodは、TCMでの研究課題に新しい軸を加えた。特に強相関電子系とされる物質系や、半導体光学における凝縮現象といった分野での研究課題で、此の方面については、既に、Khmelnitskiiや、Ben Simonsといったメンバーがカバーする分野ではあったが、TCMグループとしての新機軸に据えられた。ポラリトン凝縮とのアナロジーが、此の成長しつつある分野、即ち、過冷却原子気体での強相関現象にLittlewoodの関心を導いたのであるが、この分野では、Simonsと、あと、1997年にスタッフとして着任した、Nigel Cooperの業績もあり、TCMグループは、現在、確立した関心を持って取り組みを続けている。

Ben Simonsは、形式的にはTCMのメンバーとして大学院時代を送ったが、その指導教員は、外部のMike Gunnが担当した。大学院後半は、ラザフォード・アプルトン研究所に在籍したが、その後、ゴンヴィル・アンド・キース・カレッジ(ケンブリッジ大学のカレッジの一つ)の研究員ポストに就いて、Mike Catesとの共同研究を進め、その後、米国MITの研究員として渡米し、1年後に王室協会のポストと、インペリアル・カレッジの教職ポストを得て帰国した。その後、TCMに講師職として着任し、現在に至っている。

TCMグループは、伝統的な凝縮系物理に強固な基盤を持つが、研究のスタイルや課題展開において、以前よりずっと、取扱いの範囲が広がりつつある。TCMでの支配的な研究領域である電子構造理論方面では、一方では生体系反応過程といった課題に、また他方では、量子モンテカルロ法といった課題に裾野が拡がりつつある。Mark Warnerは、ソフトマター分野の指導的研究者の一人である(2003年のAgilent賞受賞者として著名であろう)。Ben Simons、Nigel Cooper、David Khmelnitskii、Peter Littlewoodらは、所謂「量子凝縮系」、即ち、強相関系、メゾスコピック系、冷却原子といった研究分野で、活発な研究拠点を構成している。TCMグループは、キャベンディッシュ研究所内の実験グループと大きな協力関係にあり、これらは、低温物理グループ(LTPグループ、現在は「Quantum Matter」グループに改称)、半導体物理グループ、光エレクトロニクスグループ(含、導電体ポリマー)、また、材料学科や日立研究所とも協力関係にある。新たには、凝縮体理論をテーマとした「合弁予算」の獲得により、理論化学グループとも新しい連携が築かれつつある。

Tom Dukeは、研究員として、生物物理の研究をTCMにて着手し、音聴に関する重要な理論を構築した:例えば、かすかな物音にも聴覚の神経系が反応するなど、聴覚に限らず、こうした現象のメカニズムは長い間、謎とされてきた。Tom Dukeが提唱したのは、此れが物理で言うところの相転移に近いものであって、応答感受率が無限大に発散し、微少な入力に対しても増幅が無限大となるという事で捉えるという着想である。聴覚系が如何にして相転移点に近いところに自己を保つかという点に、きわめて説得力の高い議論を提供した。2002年には、キャベンディッシュの教職を得たが、TCMではなく、生物物理グループという新しいグループを立ち上げた(物理学者が他分野を開拓したり入植するという、また一つの例である。「物理学者は何でも出来る」)。

2003〜2004年の期間、Peter Littlewoodがサバティカルに出たので、Mike Payneが、グループの主任に取って代わったが、05年10月より、Peter Littlewoodが学科主任となるため、その準備もあってグループ主任に戻ることができなくなり、Payneが引き続き、2005までグループ主任を継続している。

19/エピローグ


TCMは、少なくとも私見では、2004年迄にはキャベンディッシュ研究所内で輝くべき確固たる地位を占めるに至っているものと思う。Nigel Cooperは、先般、准教授職(Reader)に昇任し、他の教員(Josephson, Khmelnitskii, Littlewood, Needs, Payne, Simons, Warner)は全員、教授となっている。Sir John Pendryがナイトに叙勲され、David Pettiforが勲爵士に叙された。KellyとWeaireは王室協会のメンバーに選出された。多くのメンバーがメダルや賞など英国内外で多くの栄誉に輝いている。米国では定例物理学会APSが開催される度に、インフォーマルな夕食会が開催されている。

TCMグループは、キャベンディシュ研究所内でも佳く受け入れられてきた。前述した事であるが、キャベンディッシュの理論スタッフというのは、理論物理学科(Department of Applied Mathematics and Theoretical Physics)とは別の「実験物理学科」にあって、実験家によって埋められていないポジションという立ち位置であった。この特異な立ち位置が肩を推すような貢献があるのは疑いのない事実である。キャベンディッシュ研究所自体への人材供給の一部となっているし、講師職の公募が出ると、TCMの学位取得予定者がよく応募した。TCMグループは学生から有り難がられるような理論コースも創設したし、此まで3名が、TCMから学科主任をつとめている(Mott, Edwards、そして2005年からはLittlewood。尚、物性理論以外では、放射天文学の理論家としてLongairが務めた事も記載しておく)。

しかしながら、より重要なのは、恐らく、物理全体において実験分野にまで、理論や計算機といったものがどんどんと喰い込んでいったという要因があるだろう。放射天文学や高エネルギー粒子物理学のグループでも、永く理論のサブグループを置いて、こうした趨勢に対処してきたし、現「ポリマーとコロイド」グループは、TCMでのEdwardsの理論研究を源流としている。TCMでの理論研究に、計算機実験といった性格が強かった事が、こうした流れに大きく関連するのであろう。昨今では実験家でさえも、多くの時間をコンピュータ画面の前で過ごす。以前なら、実験室でスパナを巧妙に扱うといった事が、今では、実験を監視・制御したり複雑なデータ解析をするのに、垢抜けた計算コードを走らせるのにPCを使うのである。

TCMグループが、今後も受容されるため続けるための活動内容は、現メンバーの肩にかかっている。TCMグループは、唯、此処にいつも有りつつける。

20/付録:教職スタッフの在籍期間リスト


※原文では順不同であったが、ここでは着任の古い順に直した。在籍期間は教職スタッフの地位にあった期間のみを示す。

Nevill Mott             ; 1954 - 1974
John Ziman              ; 1954 - 1964
Volker Heine            ; 1958 - 1997
-----
David Thouless          ; 1964 - 1966
Philip Anderson         ; 1967 - 1975
John Lekner             ; 1967 - 1973
Brian Josephson         ; 1969 - present
-----
Sam Edwards             ; 1972 - 1994
John Inkson             ; 1974 - 1984
Roger Haydock           ; 1977 - 1982
-----
Richard Needs           ; 1983 - present
Robin Ball              ; 1984 - 1998
Mark Warner             ; 1986 - present with short break in P&C
-----
Michael Cates           ; 1990 - 1994
Michael Payne           ; 1991 - present
David Khmelnitskii      ; 1991 - present
Ben Simons              ; 1996 - present
Guna Rajagopal (ADR)    ; 1996 - 2001
Philippe Monthoux (ADR) ; 1997 - 2002
Peter Littlewood        ; 1997 - present
-----
Nigel Cooper            ; 2000 - present
Tom Duke                ; 2002 - present in Biological Physics

以下は計算機管理職スタッフ。何人かは研究奨励金による雇用からキャリアをスタートさせているが、いずれにしても最終的には大学の職員として在籍した。

Chris Nex               ; 1969-1999
Ian Jones               ; 1986-1992
Martin Lally            ; 1993-1998
Michael Rutter          ; 1998-present