進化言語学と進化経済学 橋本敬 概要: 進化言語学とは言語の起源と進化を明らかにしようと試みる、新しい学問分野 である[1]。まずこの学問が扱う問題を明確にするため、 進化について考察し よう[2]。 生物学的な進化は「遺伝する変異」と定義されている。この定義を 言語に適用するためには遺伝を明確にしなくてはならないが、言語について世 代や遺伝を定義することは困難である。よって、生物学的進化概念を言語に適 用することは不可能であるように思える。ここではこの困難を回避する二つの 方法を提示する。一つは、「言語の進化」ではなく「言語能力の進化」を考え る、もう一方は、進化概念を変更する、というものである。 前者の方法を採った場合、人間が言語を使用することに関連した、様々な認知 的・身体的能力の生物学的な進化を問題とすることになる。これはすなわち、 「人間言語の起源」の問題である。後者に対して、ここでは進化概念を「経路 依存性や不可逆性を伴って伝達される変化」として考えよう。すると、最初に できた言語からいかにして現在のような構造を持つに至ったのか、という「人 間言語の進化」を問うことになる。 この言語の起源と進化という問題は、生物進化、個体の学習、そして、文化進 化が関連する進化現象であり、さらには、学習と文化の間にも相互作用フィー ドバックがある。筆者は、この二つの相互作用ループが同時に働くという意味 で、 「言語進化のダブルループ」と呼んでいる[2]。これが「ループ」である ことから示唆されるように、 進化現象を規定する上で便宜的に分けた「起源」 と「進化」は、連続的なものである。 このダブルループ・ダイナミクスは、言語の起源と進化が持つ複雑性を如実に 表している。生物進化は、直接的には遺伝子に働き、それが地質学的な時間ス ケールで形態や行動を変えていく。個体の学習は脳神経系で働き、長くても個 体の生涯における変化である。そして、文化進化は個体の集団において働き、 個体の一生よりも短い変化もあれば長い変化もある。すなわち、言語の起源と 進化という問題は、このような異なる時空間スケールで働く適応ダイナミクス が相互作用するという複雑性を持つ。これは、複雑系が対象とする多くの問題 が持つ「スケールの分離不可能性」という性質である[3]。 一方、学習と文化の間のフィードバックループは、「ルールダイナミクス」と いう複雑さを表す。ルールダイナミクスとは、あるシステムにおけるルールが、 そのルールに基づいたシステムの作動によって変化するというものである。個 体は、属する文化共同体で使われている言語的ルールを学習能力を通じて獲得 し、それに制約された言語使用を行う。それと同時に、このルールを生成し変 化させていくのも、言語を使用する個体達なのである。このような複雑さは、 「オペレータとオペランドの分離不可能性」として、多くの複雑系に見いだせ るであろう[3]。 次に、進化言語学の中で扱われる言語の起源と進化という進化現象の捉え方を 経済学に適用してみることで、「進化経済」という問題について考えてみよう。 すなわち、「経済の起源」と「経済の進化」の問題を見い出す。「経済の起源」 とは、経済にまつわる様々な認知能力や社会構造の生物学的なタイムスケール での進化を扱うことになる。たとえば、貨幣を扱う能力、制度や規範を構築す る能力が、どのように進化して我々ヒトが手にするに至ったのか、ということ が問題となる。一方、「経済の進化」とは、言語の進化と同様に文化進化の問 題でり、交換方法、貨幣形態、制度や規範自体、あるいは、それらを構築する 方法の変化を対象とすることになる。 前者は生物経済学(bioeconomics)とい う、これも新しい学問において興味を持たれている。そして、おそらく後者が、 進化経済学という学問分野が扱おうとする問題だろう。 上記のような複雑さを持った進化現象に関して理解を進めるためのアプローチ として「構成論的手法」[4,5]がある。 これは、理解したい対象を「作って動 かす」ことを通して理解しようとする方法論である。講演では、この方法論を 制度形成の問題に適用した実際例を紹介するとともに、言語進化ダブルループ・ ダイナミクスを進化的制度設計の計算アルゴリズムへ拡張する可能性について 議論する。 [1] Christiansen, M. H., Kirby, S., (Eds.) Language Evolution: The States of the Art, Oxford University Press (2003). [2] 橋本敬,「言語進化とはどのような問題か?〜構成論的な立場から」, 第 18回人工知能学会予稿集(CD=ROM) (1999). [3] 橋本敬, 「複雑系」, In: 杉山公造, 他 (編), ナレッジサイエンス -- 知を再編する64のキーワード, 紀伊国屋書店 (2002) pp.126--131. [4] 金子邦彦・津田一朗, 複雑系のカオス的シナリオ, 朝倉書店 (1996). [5] 橋本敬, 「構成論的手法」, In: 杉山公造, 他 (編), ナレッジサイエン ス -- 知を再編する64のキーワード, 紀伊国屋書店 (2002) pp.132--135.