生命と数理〜暗黙知と形式知のはざま

理研ゲノム科学総合研究センター ゲノム情報先端技術研究グループ

小長谷 明彦

 「虹は何色ですか?」と尋ねられたら、大方の日本人は「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」の七色と 答えるであろう。虹色の数は、民族・文化により様々であり、シベリア エヴァンキ族の 「赤・青」の2色から、5色、6色、7色と様々な数え方がある。実際には、可視光の全て の波長が見えているわけであるから、各民族で定義された色の数だけ虹色があるともいえ なくもない。逆に言えば、「色」としてカテゴリー化された段階で、本来の色としてではな く、「記号化された色」とでしか認識できなくなっているのではないだろうか。

 同じような現象が、近年、生物学の分野で生じようとしている。ゲノムプロジェクトと共 に、様々な遺伝子やたんぱく質の情報が産出され、生命現象をネットワークやシステムと して理解しようという研究が注目を集めている。特に、遺伝子やタンパク質が織り成すネ ットワークの動的な振る舞い、すなわち、細胞内において生体分子や薬物が酵素により分 解・合成される過程を示す代謝パスウエイ、細胞膜表面で認識した分子情報を核に伝える ための一連のタンパク質の相互作用を示す情報伝達パスウエイ、遺伝子発現の活性化・抑 制化の関係を制御する遺伝子発現制御ネットワークなど、数理モデルを用いたシミュレー ションがポストゲノム研究として注目を集めている。

 連立微分方程式やペトリネットなどの数理モデルによる視覚化や数理シミュレーションは 遺伝子やタンパク質の相互作用を理解する上で極めて有用であり、従来、生物学者の暗黙 知として理解されてきた生命現象を形式化するための技法の一つとして、今後とも益々の 発展すると考えられる。しかしながら、一方で、数理モデルとして形式化された代謝パス ウエイや情報伝達パスウエイのグラフ構造が「知識」として理解してしまう危険性を呈し ている。

 一般に、教科書や論文で扱われている情報伝達パスウエイは数個、多くても数十個のタン パク質の相互作用として扱われているが、実際の細胞では、一つの刺激により数百以上の 遺伝子発現が変化する複雑な現象である。代謝パスウエイも電子回路とは異なり、一つの 遺伝子発現のオン・オフは代謝パスウエイ全体のトポロジーに大きく影響する。実際の細 胞内では、全てのタンパク質間相互作用は確率的な現象であり、様々な相互作用が同時多 発的に生じる。細胞内に、情報伝達パスウエイや代謝パスウエイなるものがアプリオリに 存在しているわけではない。生命現象を理解するためには、虹色と同様に、あらゆる相互 作用が起きていることを前提としたモデル構築が必要がある。