まえがき ベトナムの子供たちのための勉強励ます基金の奨学金は山の奥の子供たちの手に 届いた! 以下は国内管理グループのメンバーの一人であるNgo Haさんのメールで, 奨学金を渡しにいったときのことについて書いたものである。 年末,奨学金を渡しにいって 1998年1月19日(月曜日),ちょうど午後20時,統一鉄道の列車がハノイ駅 を出た。 一日中あっちこっち動いていたので,列車に乗るときは私はすでに疲れはてていた。 それに加え,寒かったので私は上着を着たまま,寝台に登って,布団に潜り込み,いつ の間にか,眠りについた。 私は,奨学金をベトナムドンに両替すると荷物になるし,安全ではないので, ハノイからはドルを持っていくことにした。年末の帰省ラッシュのため, 列車は混んでいたが,皆規律正しく,座席番号が守れていたし, 切符なしで乗車する人はいなかった。翌日の午前8時ごろ,列車の乗組員が朝食 ということで起こしてくれた。朝食はとても大きいな肉まんじゅうで,2人に一本の 「鉄道会社」製のミネラルワーターが配れられた。午前,ちょうど9時30分, 列車がフエ駅に到着した。駅を出ると,たくさんのシークロ,ホンダ,自転車が 「乗らないか」と誘ってくる。私はフエの教育委員会のアドバイスで,駅近くの レロイ通りにあるホテルに泊まることにした。ホテルに入ってみると,かなり 内装がきれいだった。受け付けの女性たちも親切に部屋を紹介してくれた。 私は一人で出張で来ていると言っておいたので,彼女たちは一泊70000ドンの 安くて,快適な部屋を紹介してくれた。彼女たちによると,このクラスの部屋の 方が一番良く,高い部屋とはあまり変わらないそうだ。冗談半分で「じゃ,何が 違うの?」と聞いてみたら,派手な絵がかけてあるだけのところが違うという答えが 帰ってきた。もっと安い部屋はテレビが付いていないし,夏はクーラ がないので借りない方が良いとアドバイスしてくれた。値段は40000ドン/ベッドと いうだが,たぶん同じ部屋には何台かのベッドが置いてあるのだろう。私はすぐに 勧められた部屋を気に入った。洋服ダンスがあり,かわいい浴室あり,テレビが小さい 机に置いてあった。ベッドも清潔に手入れされていた。 シャワーを浴びた後,私は散歩することにした。ホテルの門まで行っていない 間にガードマンさんが私を呼び止めて,バイクを1日70000ドンで借りないかと 勧めてきた。私は借りることにすると彼の顔は嬉しそうだった。ホテルの外 に出るとバイクタクシーの人たちも寄ってきた。相場は1時間15,000ドン(約 150円)でレンタルだと1日60,000ドン(600円)/日だそうだ。教育委員会の話しでは 明日の午後向かえが来るということなので,それまでには時間がある。 私は安心して,「フエの探索」をはじめた。まず,私は観光局に勤めているナムさん の知合いを訪ねることにした。彼といっぱいのビールを飲んだ後,街を観光するため に私は早めに観光局を出た。私は何回か出張でフエに来たことはあるが,遺跡ぐらい しか見られず,実際のフエを見る時間がなかった。今回私はフエの風景, 通り,庭,そして,フエ市民の生活を見ることにした。間もなく,私はフエの道を 覚えてしまった。ホテルに帰ったあと,私はフオング(香)川上でのフエ民謡を聞きに いきたかったので,ホテルの受け付けの女の子に聞いてみると団体でないと350,000ドン (3500円)もかかるということで,街をぶらぶらすることにした。 次の晩,ホテルの前にいつもいる中年のバイクタクシー運転手に乗せてもらい, ナムさんのお勧めの「Com hen」を食べに行った。「Com hen」を食べ終って,次に 「hen」のそばを注文した。(となりに座るフエの女の子をまねして)。私がそばを食べていると,となりの女の子がたくさんチリソースを注文しはじめた。。。 食事した後,私は教育委員会に挨拶した方が良いと思い,教育委員会に向かった。 私は教育委員会は3ヶ所にあるとは知らなかったので,事務室のあるところに行った。 そこにいる事務員たちは私と連絡をとっているBAさんは他の場所で働いていると教えてくれた。私はBAさんに電話するとスケジュールをちゃんと組んであるので,ホテルで 待っていれば人が向かえに行くとのことだった。私はホテルに戻り,カフェに 寄ったが,マスコミの手配は気になったので,BAさんに電話をすると教育委員会はまだ新聞には連絡していないことがわかった。私はさっそく電話帳を調べて,Thua Thien-Hue紙とThua Thien-Hueテレビに連絡した。その後,私はバイクタクシーを呼んで,フエ特産の飴を買いに行って,ドルをベトナムドンに両替した。それらが終ると,バイクタクシー運転手が私にあっちこっち案内してくれた。きれいな家,庭がたくさんある Kim Long,Vi Daや岸のThuan Anなど。帰り,彼は私にある占師の家につれていった。 占師のいうことはかなり当たっていた。というのは,そのとき,2人の女の子が占って もらっていた。一人は旦那さんが浮気しているがきっと戻ってくるといわれ,「あいつ はお父さんのところに行くといっている」と泣きだした。2人めはこの3月に外国にいけ るが,夫と子供と一緒にはいけないといわれるとすぐに出国手続きしており,彼女だけ が出国を認められているとこぼした。私の番になると占い師は私は2人の娘がいて,外国 で暮らせない定めであると言ったが,彼のいうことは他の占い師ほど間違っていなかっ た。 帰りの途中,私はバイクタクシー運転手を「カム マム チュア」(フエの一種のご飯)を食べに誘った。素場らしい食事だった。フエの「カム マム チュア」は本当においしかった。気分が良くなって,飴を買うとき私は5箱も買った。 ちょうど13時30分,教育委員会の一人の男性と一人の女性記者がやってきた。女性記者は外見と同じように,名前もとても美しい: HUONG GIANG (香りの川)。彼らはDuong Hoa君に奨学金を渡すために,私を向かえに来てくれた。教育委員会の車は全部出勤中なため,私たちはバイクで HUONG THUY区の教育委員会に向かった。そこの人たちに よると,そこでは戦争中空港だったため,現在まだ地雷で死ね人がいるそうだ。 HUONG THUY地区の教育委員会は3人の子供が奨学金を頂けることは地区にとってとても大きな誇りだと発表した。新聞記者のHUONG GIANGさんも,この奨学金を渡す会を記録 できるのはとてもうれしいと語ってくれて,よりたくさんの子供に奨学金が渡るように,一人分の奨学金の額を半分した方が良いという意見をくれた。 夜,ホテルに戻ると,今朝のバイクタクシー運転手が待っていた。彼はHuong川上の フエ民謡を見に行くためのチケットが手に入るところを知っているとといった。 私は急いでチケットを買うために彼について行った。チケットを買った後私は軽い食事して,舟に乗れるのを待った。舟の上には4つのグループがいた。ベト橋のカップル, フランスの男性とベトナム女性のカップル,2人男性のカップルがいた。フエの女性は とてもかわいく,やさしそうだった。フエの女性はハノイやサイゴンの女性と違って, 太る人が少ないと思う。面白い1時間半の演奏だった。私はさっそく演奏を記録するカッセトテープとビデオテープを買った。演奏会に満足した。 次の日,教育委員会のUWAT車で私はA LUOIに向かった。同じ車に教育委員会の3人と 新聞記者の男性が乗っていた。川を越えると道が悪くなりはじめた。誰もこの道を直そうと思わなかったのか,道に穴がいっぱいできていた。特に車が険しい"Me oi"(お母さん!)峠を通ったとき,私は一番良い席に座っていたにも関わらず,体を上下に激しく揺らされていた。この峠は山と深い谷の間に通っており,私は車に乗りながら,「死ぬかも」と思った瞬間もあった。しかし,同じ車に乗っている新聞記者さんは彼は毎月2回この道を通らないといけないと語った。峠の所々に「Me oi峠」と書くつもりの標識が立てられているが,誰のいたずらか知らないが,「dd.Me oi」と略字で書かれていた。(ベトナム語ではdd.Me oiというのはかなり汚い言葉に連想させる)。私はおかしくて笑いたかったが皆が真面目そうな表情をしていたので,笑うのをためらった。が,一番年配の人が「なぜそういう無学な略字のしかたをするのかな?」といい出すと他の人もそれに続いてそれぞれ自分の意見を述べはじめた。 A Luoi町に着くと49号線がホーチミンルートに交わる。この辺の道は広く,アスファルトなので,国道1号線に乗っているよう感じだ。Quang Tri,LaoからDa Nangまでの道 もアスファルト化されたそうだ。 A Luoi村は平いな谷の中にあり,山で囲まれている。 枯葉剤の影響でここの山はほとんど緑がない。私は枯葉剤の影響だと断言できるのは 緑のあるところとないところの間にはっきりした境界があるからである。同じ山なのに ,半分は森林が豊で,半分緑が死んでいる。この辺に住んでいる人は肉桂樹を植えることにしたが、1ー2年間経って木が大きくなると突然死んでしまう。恐らく木が根を下ろした際に土壌の下にまだあった枯葉剤に出会ってしまったのだろう。 A Luoi町の教育委員会では教師,生徒,PTAの皆さんは私たちのグループを待っていた。そして,奨学金会授与式が厳粛に行なわれた。7人の奨学生の中に足が不自由な 子がひとりいた。先生たちによると彼は枯葉剤の影響を受けたということだった。 奨学金会授与式後,私たちは先生たちの案内で小数民族の学校を訪ねた。校長先生も 小数民族だ。彼は私たちに学校の設備を紹介した。私たちが帰ろうとするころ,一人の 教師が慌てて走ってきて,ある生徒が不発爆弾を遊び,爆弾が爆発し,頭の半分を 飛ばされ死亡したと校長先生に報告した。頭の半分は見つかっていないそうだ。 先生たちがお葬式の準備をするため,私たちは早めに学校を出た。 帰りに,奨学金授与グループのメンバーの全員は奨学金の額を2つに分けた方が良いと 基金に希望した。遠い山の中では今の額はあまりにも大き過ぎるからである。 ホテルにつくときはもう日が暮れていた。大変で暑い冬の日だった。冬なのに 暑い日があることは何とも不思議な現象だ。 次の朝,私はバスでQUANG BINH省に向かった。バスの中は人でいっぱいだった。 行きは客が多く,帰りは客がいないということで切符の値段が普段の2倍に はね上がった。 バスに乗ると小雨が降りはじめた。バスは適当に泊まり,人も適当に口喧嘩する。 バスのオーナーと客の間の喧嘩だ。乗せる側はたくさんお金をとりたい,乗る側は できるだけ安く乗りたい,値段表なんかない。Dong Hoiに着いたのはちょうど 正午で,Dong Hoiの教育委員会に着くのは午後のはじまりだった。ある人は私のこと を待っていてくれて,ホテルまで案内してくれた。ここのホテルはひどかった。 ものは壊れ,古びれ,部屋は清潔とはいえなかった。ホテルについて間もない, 私と電話で話しているHaさんはすぐBO TRACHに行くと伝えてくれた。私たちはまず 教育委員会に寄って,それから教育委員会の人と一緒に奨学金受与対象校に 向かった。 私たちは車で川まで行って,渡り舟に乗って学校に行った。この学校はかなり大きな 学校だった。この学校はフランスに住んでいるあるフエ出身の人の寄付で建てられた そうだ。学校側が奨学金受与式のために校庭にステージまで用意したが,学校には 校長先生と一人の生徒しかいなかった。校長先生によると,生徒たちは(私たちを)待っ てもこなかったので,お正月ということで実家に帰ってしまったそうだ。皆で奨学生たちを探しに行って,やっとの思いで奨学金受与式が行なわれた。 帰りに教育委員会の副会長は海外にいるベトナム人留学生が自分の奨学金が少ないの にも関わらず,子供たちにとても大切な励ましをくれたこと,また,子供たちに 感動的な手紙を送ったことに感謝の意を表した。教育委員会の皆は私が時間がなくて行けなかった地方までいって奨学金を渡すと約束してくれた。彼らは新たに発見された小 数民族の部族のための教育環境作りに努力しているそうだ。その小数民族は軍事部隊に 発見された以前は他の人間(人種)と接触した経験がなく,布も使わず,言葉も独特な言 語を使っていた。発見されたときは彼らの人口は98人だったが,現在100人に増えた。教 育委員会は10歳から18歳までの子供を学校に送ってみたたが,まもなく彼らすぐ洞窟の 家へ逃げて帰ってしまうという。 教育委員会の皆さんの希望はやはり奨学金の額を小さくして,奨学金の人数分を 増やしてほしいということだ。この地方の子供はとてもかわいく,義正しい。 私が通りかかると子供たちがちゃんと挨拶する。ここの人は100%が宗教を持っている そうだ。人々は貧しいがいい人たちばかりだという。渡り舟のオーナーの老人は 私が奨学金を渡すために来たと知ると熱心になって,回りの人に「ハノイから ここの子供に奨学金を渡しに来た人たちを乗せる」と自慢していた。 ホテルに帰ったのは夜で,教育委員会の副会長のHONGさんが「奨学金団」に 晩御飯をご馳走してくれた。次の朝,Haさんは私を朝食につれていってくれて,Nhat Le川を 案内してくれた。Haさんは若く,きれいな女性でハノイ教育大学の卒業性だそうだ。 教育委員会の他の一人が私のために列車の切符を買いにいってくれた。もう一人が 昼ご飯をおごってくれた。みなはとても良くしてくれた。 昨日,Tien Phong新聞のHo Thuさんから電話があって,Dong Locの3人の子供の応募者 の書類が揃ったことと,Quang Binh での奨学金受与式の模様がTien Phong新聞に載ったとのことだった。 今回,私は奨学金受与式や枯葉剤の影響の写真をとった。それらの写真は貴重なものだが,一番貴重なのは,今回のことに通して,私たちは基金の運営について経験を積めたことだと思う。 皆さんにとって健康で,勉強や研究に成果のある一年となりますように。 Ngo Ha