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意で指を動かすこと

先日、悪友Yが拙宅に来てピアノの弾き方について助言してくれた。Y氏はアレクサンダーテクニークのマスター(師)である。演奏の改善に有効な工夫をいろいろ教えて貰ったので忘れないようにメモしておく。

自分の動きの問題点は頭を振ってリズムをとること、上半身の動きが平泳ぎ筋肉群に偏っていること、前腕の外転に右手小指がブレーキをかけている(手前方向に鍵盤を押している)ことである。これらの問題は互いに関係しあっており、子供の頃の癖が固定されたものであろう。小さなからだで大きな音を出そうとしたり、小さな手でオクターブを押さえようとして無理をした。体が成長した今はもっと楽に(自然に)できるのに依然として子供の頃の弾き方に固執しているのが問題である。

リズムは足でとることにし、頭は振らないように気をつける。平泳ぎ問題はとりあえず脇の下のこわばった筋肉群をほぐして貰って改善した。根本的に直すには肩胛骨が背中に引き寄せられた状態に戻す努力をすべきだろう。そうすれば背筋も伸びる。このことは自分でも気をつけていたのだがまだ注意が足りなかった。自分の言葉で言えば「体の裏側も使う」ということになるのだが、それがまだ出来ていなかった。鍵盤に覆い被さるように弾かなくとも手を伸ばすだけで鍵盤の端から端まで触れられるのだが、ついつい子供の頃の弾き方が出てしまう。

こういう弾き方をする人は多い(http://www.diana.dti.ne.jp/~tmcjapan/Pastactivities51.htm)

こういう弾き方をする人は多い(http://www.diana.dti.ne.jp/~tmcjapan/Pastactivities51.htm)

子供が真似するからよくない(https://www.youtube.com/watch?v=9Ql1wH3Io9I)

子供が真似するからよくない(https://www.youtube.com/watch?v=9Ql1wH3Io9I)

右手小指の動きが手首の旋回を妨げていることは指摘されて初めて気づいた。小指に関して言えば手前から奥の方へ、指の背の方で鍵盤をはじく奏法を意識的に取り入れてはいた。この奏法がリストの超越技巧練習曲第4曲「マゼッパ」を弾くためには必須だと思うから。しかし徹底していなかった。右手首で空気を追い払う動きと右手小指を瞬時に反らせて弾く(はじく)動作が気持ちの上で同時なので、結果、右小指が動いていない。手首を外旋させたら一旦止めて、それから小指を弾くというように二段構えで制御すると指を動かす支点ができて発音がしっかりした。

この間、試験用に使っていた曲はJ.S.バッハのパルティータ5番だが、この曲は冒頭、右手と左手が切れ目無く連係するところがあり、苦手な箇所であった。ここをどう滑らかに弾くか。要点は、弾きながら指使いやアーティキュレーションを考えるのを止めることである。邪念が指の動きを邪魔する。Y氏の助言は指の動きを視覚的にイメージすることであった。視覚的なイメージを明瞭にすることで指の動きがそれに従うようになる。鍵盤上で指を動かす前に動きを何度も繰り返し視覚的にイメージし、明確にそのイメージがみえるまでイメージトレーニングを繰り返す。動きをしっかりとイメージできた後で弾くと演奏がずっと良くなった。

これって太極拳でいう「用意不用力」だなと思った。力を用いるのではなく意を以てからだを動かすという意味である。ピアノを弾く指の動きは細かくて速いから、視覚的イメージで動きを先導することは思いつかなかった。しかし指示されてやってみたら、できた(!)。余計な力も入らず、無駄な動きが取れるので動作が楽になり、体が軽く感じる。テンポも制御しやすい。前は頭の中で鳴る音楽に合わせて指を動かしていたが、視覚的イメージが加わることで、暗黒の世界に急に明かりが灯ったようだ。今まで目をつぶって弾いていたような気さえする。暗譜も楽になった気がするし。。結構良い。Thank you, DJ!

少し残念なのは、音楽に没頭できなくなったこと。でもこれはいずれ慣れるだろう。それよりも音がよくなったのがありがたい。結局、他人(ひと)に聴いてもらう意識が必要なのだろう。いつまでも自分の世界にこもって弾いていないで、人に聴いてもらえるようになりたい。ようやくそう思えるようになった。

あかるいもの、すみきった、純粋なもの

貴兄はいつも帰宅するなり何も言わずにピアノに向かって2時間、3時間と弾き続ける。聴かされている者の身になって欲しい。なぜ今その曲を弾くのか。こんな思い出があるから弾きたいとか、そういう説明はないのか。わけのわからないまま下手な演奏を延々と聴かされるのは苦痛である。まず弾く前に説明せよ。そうすれば演奏もよくなるはずだ。なぜその曲を弾くのか理由を考えるべきである。

と言われてもっともだ、と思った。「では今からモーツアルトのPraeludium und Fuge C-Dur, KV 394を弾く。モーツアルトが対位法をどう消化したのか知りたいから。」と説明したが、そういう説明では駄目らしい。あきれられたようだ。「芸術家は孤独なものね」

ポイントを外した。しかし、それでも今なぜこの曲を弾くのかを考えるのは重要な気がする。説明を試みる。

Mozart, W. A.
Praeludium und Fuge C-Dur, KV 394
モーツアルトはどのくらい対位法に依拠したのだろうか。最近、「クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり! 」を読んだ。非常に面白かったし、参考になる話もたくさんあったが、全体を貫く主張が「バッハが一番、対位法万歳」なので、違和感が残った。そんなところで「音楽と感情」(チャールズ・ローゼン)を読んだら、もう少しバランスがとれた見方をしていて、いろいろ試してみたいことが出てきたのである。モーツアルトのこの曲はフーガがついているが、JSBに比べたらずいぶんと自由にやっていると思う。ショスタコービッチが書いたものと言われても違和感がないくらい。形式よりは情感が前に出ている気がする。

Mozart, W. A.
Piano Sonata No. 8 in A minor, KV 310
過去の思い出、という言葉に触発されて弾いてみたくなった。モーツアルトにしてはめずらしく悲愴的だが、母を失った直後に作られたと聞けば納得する。この曲を練習していたときは(さて、小学生だったか)テンポが早くて難しいなぁとしか思わなかったが、今は曲が表している感情に触れることが出来る。

Mozart, W. A.
Sonata 14b Koehel 457.
「音楽と感情」でこの曲と交響曲第41番《ジュピター》との類似性が指摘されていたので確認してみたかった。どうなんだろう、ジュピターの明るさの前では曲想の暗さが際立つ。しかし勇壮さという共通点はあるかもしれない。曲の書き方がピアノのためというより、オーケストラを意識したのかなということは感じ取れた。簡潔だけど構造的、ということだろう。

Rachmaninoff, S.
Etude-Tableaux Op. 33 No.3
これも「クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり! 」に刺激されて。ラフマニノフに対するブラームスの影響が指摘されており、感心したから。言われてみればその通りだと思う。それを確認するために弾いた。気分的に、くらい情感に支配されていたからでもある。情景:冬の日本海、浜辺をゆっくり歩く。途中から雲が割れて陽が差し込んでくる(2分45秒あたりから)。(直前の曲と同じC-minorであったことに後で気づいた。)

Faure, G.
Pieces breves pour piano, Op. 84-I (E-flat major)
頭に浮かんだ旋律からこのフォーレの小品を探り当てた。連続する三連符が海の波を思い起こさせる。

Faure, G.
2e Barcarolle Op. 41. G mojor
頭に浮かんだものを弾いたまで。舟歌と訳される。海のことばかり考えていたから船に乗って漕ぎ出したくなったのだろう。もとはベネチアを描いたものと思われる。明るい気分となり解放される。地中海の潮風を受ける。

Chopin, F.
Sonate No.3 h-moll Op. 58
ショパンを何か。。「クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり! 」ではショパンがバッハをよく研究したと強調されていたので。バラード4番の方が相応しいかと思ったが気分が暗くなるのでこちらを選択。ソナタ3番はベートーヴェンへの回答と思っていたが、少し前に弾いた Mozart のSonata 14b Koehel 457.との共通点もみえた。(ような気がする。)最終楽章を弾かずに中断。

シューマンのことが気になって謝肉祭と道化について調べる。『ロベルト・シューマン』 高橋悠治をみつけて面白く読む。

このクララはだれだろう? シューマンの1830年代後半のピアノ作品は、愛人とあうことのできないいらだちのなかで、「はるかな恋人」への愛は純化され、その絶望と愛とを反映している、というのは本当か? どんなロマン主義だろうと、そんな私的な動機から作品が成立するわけはない。芸術活動は、まさにこの時代に非日常化した。現実の事件や感情は、非日常世界の光をあびて、はじめて意味をになう。(フロレスタンとクレールヒェン

などなど。「現実の事件や感情は、非日常世界の光をあびて、はじめて意味をになう」と書くあたり、シューマンをよく理解しているなと感心する。また以下のように、クララ・シューマンを堂々と批判するものは少ないから興味深く読んだ。

かれは自分のしかけたワナにかかった。ロマン主義的原則が遠ざかる女をもとめ、秘教としての古典さを設定していたのに、おもいがけず実現した結婚は生活も芸術も牢獄に変えてしまった。ブルジョワ家庭の安定をもとめる妻であり、子供製造器であり、アカデミックなピアニストであったクララに強制されて対位法の勉強にはげみ、シンフォニーや弦楽四重奏曲のような古典形式をムリしてつかい、夫婦交代でつける日記を通じて監視されていたのだから、しかも内省的になるのと平行して、教師や指揮者のように性格的にあわない職業で家計を支えなければならなくなったのだから、気ちがいになってあたりまえだ。(「シューマン論の計画」)

「クララに強制されて対位法の勉強にはげみ」というのはどうなのだろう。結婚前のシューマンは確かに独創的だったが、結婚後も成熟したのではないかと思うし。。

Schumann, R.
Fantasie C-Dur Opus 17
音楽と感情」(チャールズ・ローゼン)に冒頭の左手の弾き方について書いてあって、それを確かめたかった。Debussy の曲を弾くように柔らかなタッチで、曖昧に、ぼかして弾いてみた。確かにその方がいい気がする。この曲がよく言われるようにクララを失うかもしれない焦りを描いているのか、あるいは高橋が主張するように「非日常世界の光」を発しているのか。(最初の Mozart, Praeludium und Fuge C-Dur, KV 394 に呼応していることに気づいた。)

クララ=クレールヒェンの名は、あかるいもの、すみきった、純粋なものを意味する。シュレーゲルの「ひとつのかすかな音」、はるかな希望であり、五音の下行する線がそうであるように、かなたからやってくるものだ。それは、かならずおとずれる解放のイメージだ。(「フロレスタンとクレールヒェン」)

Fantasie C-Dur Opus 17で表現されているものがクレールヒェンだとしたら、その気持ちは以下のようなものであろう:

喜びでいっぱい
そして悲しみでいっぱい
思いでいっぱいなのです
あこがれ
そして不安になる
絶え間ない痛みの中で
天高く歓呼し
死ぬほどに心沈む
幸いなるはただ
恋する魂だけなのです
(Johann Wolfgang von Goethe「エグモントからのクレールヒェンの歌」)

こちらの解釈の方がいいなぁ。。(中断)

Schumann, R.
Arabeske C-dur Opus 18
引き続きシューマンの世界に浸りたいから。(これも C-dur だな、、、)

Schumann, R.
Faschingsschwank aus Wien Opus 26
楽譜を買ってきたばかりなのでしばらくは真面目に弾いてみる。ちなみにこのビデオ、すごいです、衣装が。演奏よりそちらに注意が向いてしまう。。(曲は第4曲で、これもクララへの思いが隠されているといわれている。)

Schumann, R.
Klaviersonate Nr.1 fis-Moll, op.11
これもクララへの、、と言われているが、クレールヒェンの歌とした方がよいと思う。冒頭3連符が続く辺り、今日のフォーレ Pieces breves pour piano, Op. 84-I に共通するなぁと気づいた。それからモーツアルトのPraeludium und Fuge C-Dur, KV 394とも。

なんとかフォーレからシューマンへ遡れた。鍵になるのが「クレールヒェン」ということに気づいた。「あかるいもの、すみきった、純粋なもの」(高橋悠治)。そこへ通奏低音のように Mozart の Praeludium und Fuge C-Dur, KV 394 が流れている。シューマンやフォーレの霊感は Mozart からきている。この曲は妻 Constanze の求めに応じて書き、姉 Maria に弾いてもらったという。クレールヒェン的なものへの憧憬を以て形式を乗り越えることが共通するのか。そこに Goethe の影響もみえる。

無計画に弾いているようで一貫性がある。最初に答がある。その問いは何かを述べよ、と。フォーレとシューマンは誰から霊感を得たのか? 演奏を以て応えた。(Rachmaninoff がなぜ出てきたのかはわからない。)

ちなみに家人は「わたしはそういう理屈っぽい話には興味がない」とのことでした。(全部は聞いてもらえてない。)まぁ一日でこんなにあれこれ弾いていたら側に居る人は大変だろうなぁと反省した。行動は改まらないと思うけど。

ピアノの園

浜松での仕事は某Y社さんとですが、それぞれの用件が飛び飛びに設定されたので(私が強引に入り込もうとしたせいです)、間間が結構長くなってしまいました。なので「仕方なく」浜松楽器博物館に行って「時間を潰しました。」「あまり期待していなかったのですが」予想に反して素晴らしい楽器がたくさん並んでいて「思いがけず」楽しめました。

入館したとき、「今、階下でプレイエルのデモ演奏をしていますからどうぞ」と言われ(これは本当の偶然)下りていったところ、係員の方がショパンの曲を演奏していました。

Pleyelピアノ(1860年頃?)

Pleyelピアノ(1860年頃?)

別の資料では1830年製造としているものもありますが、説明を受けた限りでは1860年とのことでした。製造番号を探したのですがはっきりと書かれていなくて(消えかかっているようにみえた)製造年を特定しにくいもののようです。説明してくださった方にいろいろ質問してみましたが、「由来がはっきりせずわからない点が多い」とのことで謎の多い楽器のようです。音は演奏例もありますが、聞き慣れた音でした。全体の構造も自分が使っているものとよく似ています。

(自分のものとの)タッチの違いをみたかったので弾かせてくださいと頼んでみましたが断られました。ま、仕方がありません。並行弦、シングルエスケープメントというので、是非とも触ってみたかったのですが。。。 今度は事前に別経路で連絡とって入り込むことにします。今回は「時間調整のため」に立ち寄っただけですから。

官能的な空間

官能的な空間

他にも美しいピアノがたくさん並んでいて、わくわくしました。美しい装飾を施すことに対してあまり肯定的ではなかったのですが、楽器は音が出ていない時間が長い(のに大きな空間を占める)ので、見て美しいというのは重要なことなのかも、、と考えを改めた次第です。そもそも自分のピアノだって象眼細工が施されていますからね。

何気なく立ち寄ったコーナーに「エオリアンハープ」を見つけました。ショパンの練習曲の俗称にもなっていますが、現物を見たのは初めてです。原型は不明なのだろうと思っていましたが、誰かが力業で再現した模様です。(19世紀頃の作製と書いてあったような。)どんな音がするのだろうと思って探してみたところ、いくらか演奏例(?)を見つけられました。面白い。自作したい。現代音楽風のものもありました。リゲティみたい。

エオリアンハープ

エオリアンハープ

Schumannの夢見る狂気

クラシックの音楽は大作曲家の自筆譜にあり!」(中村洋子著)を読んでいたら、Schumann のフーガ(Op.72)をフォーレが校訂したという記述があって、いろんな物事が腑に落ちた。

フォーレは好きな作曲家の一人で、何というか肌に馴染む。元々はラヴェルの先生ということで興味を持ったのだが、今はフォーレの方に自分の気質に合うものを見出している。ただこの人、一体誰の影響を受けてあのような狂気じみた、夢見るような和声進行を書いているのかよくわかっていなかった。ここしばらくリストに取り組んでいて、確かにその影響はいくらか感じられるのだがどうもそれとは違うと思っていた。

そこで上の記述である。今更ながらwikiでフォーレの項目を読んでみると(読み返してみると)シューマンに影響を受けたと書いてある。特にピアノ曲は全曲自分で改訂しているとか。。(すごい熱の入れようだ。)それを読んでようやくフォーレの音楽に感じられる夢見るような狂気の源を突き止めた気がした。

Schumann に対して非常に割り切れないというか、好きだけど嫌いという気持ちを抱く。CDで他人の演奏を聴くと「ついて行けない狂気の世界」と感じるのだが、自分で弾くと入り込んでしまうのである。Kreisleriana(op.16)は有名で自分も好きだが、引きこまれるのは Sonata No.1 (op.11)の方である。ほとんど形式を破壊しそうなくらいの感情の爆発と、そこで踏みとどまって形式に則る理性のあやういバランスが、おそらく魅了されている点だろう。

それと自分のフォーレ好きが関係しているとは思わなかった。自分がよく弾くのはノクターンで時間があれば全曲やる。第6曲も好きだ。しかしこれもよく聴くと、情感と理性のせめぎ合いの音楽である。そういうものが好きなのだという自覚ができてよかった。

そういう目で(耳で?)見る(聴く?)と晩年のシューマンの面白さが少し理解出来た気がした。たとえば Waldszenen 森の情景 (op.82) はどちらかというと変化の少ない音楽で面白みがないと思っていたが、フォーレへの影響を考え出した瞬間に奥行きが感じられた。特に面白いと思ったのは7曲目の Vogel als Prophetだ。(「予言の鳥」と訳したりするらしい。)フォーレの音楽に見出される「とりとめのなさ」を発見して何だかうれしくなった。

Durand社からフォーレが校訂した Waldszenen が出版されていたので購入しました。どんな楽譜なのか楽しみです。

ベーゼンドルファーを弾く

野々市文化ホールフォルテに行ってベーゼンドルファーを弾いてきた。一時間1000円で弾かせてくれるのだからありがたい。指定された時間の15分くらい前に会場に行ったら、高校生(か大学生くらい)の女性が(母親らしき人を同伴で)テンペスト(ベートーヴェン)を弾いていた。上手だったが(暗譜だったし)、音が前に出てこなくて、ホールの音響のせいなのかと気になった。自分で弾いたときも同じ印象で、、おそらくはあまり弾かれていないせいだろう。特に低音をきれいに鳴らすのが難しい。もちろん自分の技量不足もある。技量がないのが主たる原因なのはあきらかだが。。うちのピアノはもっと良く鳴りますから。。(これが言いたかった)

ベーゼンドルファーを弾いてみた

ベーゼンドルファーを弾いてみた

プログラム
Schubert, Franz: 4 Impromptus D899−2 Op.90 (1827)
Chopin, Frederic: Ballade No.1 g-moll Op.23 (1831-35)
Schumann, Robert: Kinderszenen Op.15 1-7 (1838)
Liszt, Franz: Etudes d’exécution transcendante S.139 (1851)

Schubertの曲はきれいに鳴った。もともときらびやかに鳴らすことを求めない曲だから問題ない。Chopinはちょっとつらい。中音域が豊かに鳴る分だけ低音が聞こえてこないのが気になる。これはでも演奏者が楽器に近すぎるせいかもしれない。ホールで弾くことに慣れていないから、観客席で音がどう鳴っているのか想像できない。大ホールなので部屋の大きさに負けまいとして音が大きくなるきらいがある。小さな音(p, mp)がうまく作れなかったのも反省点。ダイナミックレンジが狭くなってしまった。

Schumannはそれなりに弾けた。ただ、やはり部屋の大きさに負けてしまう。負けるというか、広さを意識してついつい音が大きくなり、雑な音作りになる。最後の方で少し慣れてきたけど。。こういうのは経験を積まないと無理だなぁと思った。これで聴衆が座るとまた音響が変わるわけで、プロの演奏者は大変だなぁと同情。

以下は「子どもの情景」からトロイメライ+最後2曲。終曲は気分よく弾けた。

予定通りのペースで進んだので Liszt も弾いたが、鳴らすのがとても難しい。体重を載せてみたり、アタックを強くしてみたり、いろいろ工夫したがきれいに鳴ってくれない。タッチが自分の楽器より重いので、いろいろ工夫しているうちに息が切れてきた。「夕べの調べ」くらいは大音響でホールを満たしたいと思ったが、、、苦戦。推測だが、低音は和音を鳴らしたとき音がぶつかって打ち消し合うような気がする。リストが使っていた当時の楽器と現代の楽器の違いだろう。楽譜の指定通り弾いたら音が多すぎて鳴りきらない。昔の楽器はあまり鳴らなかったから音数を増やして重厚感を出したのだと思うが現代の楽器でそれをやるとうるさい感じになるなぁと(改めて)思った。

途中で録画が切れてしまいましたが、f-moll の冒頭部分をご紹介。

最後の最後でブラームス(op.117)を少し弾いてみたところ、これが良い感じに鳴った。さすがブラームスと思ったが、彼は現代のものと同じようなコンサートホールで演奏していたから大きなホールでピアノがどのように響くのか熟知していたのだろう。ひとつひとつの音がくっきりと聞こえて美しかった。やはり楽器の特性やホールの音響特性に合わせて曲を選ぶべきなのだろう。今度、ここでまたベーゼンドルファーを弾く機会があったら、ブラームスにしよう。。と思った。

しかしこんないいピアノがほとんどお蔵入り状態なのは残念至極だ。料金表をみたところ、平日午前中に三時間大ホールを借りると17,000円。付属施設利用料のなかでピアノ(外国製)の料金をみると10,000円。つまり27,000円だせば3時間、好きなようにベーゼンドドルファーを弾けることになる。これを個人利用客向けに10,000円のパッケージにしてくれたら、利用者が増えて、ピアノがもっと弾かれると思うんだけどなぁ。。もっと弾いてやればよく鳴るようになると思う。とてもいい楽器だから。しっかり弾かれていない(ように思えて)そこのところが残念。