Daily Archives: 2013年5月25日

見るための場所

北の方の海岸を目指した。着いてみたらいつもJohnが自分の好きなところ、と言って連れてきてくれるところだった。(なんとなくそうじゃないかという気がしていた。)ゴールデンビーチというのが有名で、近くに来てみたので見に行ってみたが、幅50mくらいしかない砂浜に人々がひしめいていてびっくりした。マルタ島は花崗岩でできているので砂浜が少ない。そういう意味で貴重なビーチなので人々が集まるわけだが、あまりマルタらしくない場所のような気がした。

ビーチを離れて物見台の方へ歩いていった。これまでは3月とか10月にしか来たことが無く、いつも強い風が吹き荒れているところという印象だったが、この日は風も穏やかで静かだった。物見台は外からの侵入者を見張り、事あればのろしを上げてとなりの物見台の担当に伝えるという、警戒線の役割を果たしている。さすがに見晴らしのよいところにあり、遠方の岬がいくつも確認できた。

テオリアとは元来、ものをはっきりと見ることという意味であるが、それはギリシアの空気が澄んでいて遠くまで見通せるからだと教わった。マルタもこの日のように空気が澄んでいればかなり遠くまで見渡せる。もうひとつ気づいたのは、海の底もまたよく見通せることであった。岩の浜なので水が濁ることなく海底がみえる。澄んでいるのは空気だけでなく、水もまたそうだと気づいた。

さて水の中まで見通せるということは、どのような影響をテオリア概念の形成に与えたのであろうか。少なくともそういった影響は、北方ヨーロッパに伝えられていく過程で失われたであろう。なぜなら海がないから。ニーチェが南仏(エズ)滞在中に海を見ながらツァラストラを着想したと読んだ覚えがあるが、写真を検索してみると(エズとマルタ島では海岸沿いの)光景がよく似ていることに気づく。

としてみると、ツァラストラは古代ギリシア哲学の失われた側面を復活させたという一面もあるように思われる。もともとニーチェにはそういう傾向が強いが。(テオリアは観想と訳され、理論 theory の語源。)それ(海の底まで見通すこと)がどこまで意識されて現代に至るまで継承されているのかは知らない。西田幾多郎が鎌倉に移り住んだことを指して海の哲学、と形容している人がいることを知った。

物見台からはすべてがよく見通せる

物見台からはすべてがよく見通せる

海の中さえも

海の中さえも

高いところに上るのは気持ちがよい

高いところに上るのは気持ちがよい