Thomas Aquinasについて考えていた。たぶん法律家や警察関連の人たちと話したせいだ。Justice(正義)という観点からものをみるように視点が動いた。はたして正義があれば人は幸せになれるのか、というのが気になっていることだ。
アリストテレスは徳および幸福について考えた。徳とは人間の善き性質であり、それを獲得することで幸福になれる。重要な徳として、思慮、正義、勇気、節度が挙げられる。正義はこの中でも他に対して特異な位置を占め、思慮、勇気、節度が保たれて始めて実現する。(この点はアリストテレスは言っていないかもしれない。)我々が思慮深く、勇気があり、節度をもって暮らしていれば正義が実現する。ある種の教育や習慣づけは必要であるが。
施設などで介護を受けつつ暮らしている人たちのことを考えてみる。徳が実践され、正義が為されれば、公平に扱われる。人権は保たれる。しかしそれで幸せになれるのだろうか。
おそらく徳を幸福と結びつけるときに抜け落ちているのは、人が生まれ、老い、病を得、死に至る過程を肯定的に捉える態度ではなかろうか。それら一連の流れを発達や成長とは見ないこと、そのような過程を生ききることの重要性をあまり重視しない点が物足りなさの原因かと思われる。
アリストテレスは中庸を重んじる人だったから、調和を保って生きることを重視したのだろう。それは均衡点へ至る過程に興味を持つことにつながる。静かで穏やかに暮らせればいい、ということだ。確かにそれも我々が目標として生きるに値する状態なのかもしれない。戦争や飢餓など極限状態を体験した後であれば、そういう考えに至るのも無理はない。
アクィナスは神の恩寵を強調した。宗教的脚色を払拭すれば、彼の言うのは、人は自分の力を越えたものによって導かれるということだ。このような考え方は謙虚な姿勢から生まれる。(ちなみに謙遜とか謙虚さはギリシア時代は徳と見なされていなかった。)
私が「自己決定」という概念に一抹の不安を感じるのはたぶんそこから来ているのだろう。人間の行為が法廷で裁かれるとき、それが自ら意図したことなのかが重視される。しかし自分でも決められないことはいろいろある。認知症になったらカメラを使って監視して欲しいというのもその一つであろう。そんなのはそういう状態になってみないとわからない。
当事者が「自分で決められないこと」を決めていく際に、どのようにしたら正義を実現できるのか。アクィナスは同じような問題に直面していたように思われる。そのような過程が均衡点への収束やよき行為の習慣化というやり方でいけるのかという疑問。なんらかの超越的介入により関係者が皆、変容しなければならないのではないか。
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