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19世紀のピアノ

1884年6月7日土曜日、そのPleyelピアノはパリ郊外の工場からロンドン支店へと出荷された。その頃、リストは72歳で演奏活動を続けていた。フランクは61歳で「前奏曲、コラールとフーガ」を書いていた。ブラームスは51歳でウィーン郊外にて4曲目の交響曲に取り組んでいた。フォーレは39歳でパリの教会にてオルガンを弾いていた。ゴッホは31歳でオランダにいて貧しい人々を描いていた。ドビュッシーは21歳で3度目のローマ賞に挑戦していた。ラフマニノフは11歳で母親とペテルスブルグに住み、ラヴェルは9歳でパリに住んでピアノを学んでいた。

フランスは1871年に終結した普仏戦争‎から復興し、政治的にも経済的にも安定した時期が続く黄金時代にあった。(それは1914年の第一次世界大戦勃発まで続く。)この頃のパリの街並みは今日とほとんど変わらない。自動車の代わりに馬車が走っているのが時代を感じさせるくらいである。ピアノの行く先であったロンドンも同様に活況を呈していた。

1884年は明治17年に相当する。日本は政府要人が視察のためヨーロッパへ派遣される時代であった。伊藤博文(42歳)が前年の1883年1月にヴァイマールでリストの演奏を聴き、感銘を受けている。岡倉天心が20歳、夏目漱石が17歳の青年であった。作曲家では滝廉太郎が4歳、山田耕筰が2歳の幼児であった。後にピアノを製造する山葉寅楠はこのとき31歳で、浜松にて機械を修理していた。東京・銀座には煉瓦造りの建物が造られていたが、人々の暮らしは江戸時代とあまり変わりがなかった。

その当時、音楽は貴族など一部の特権階級のもので、演奏家は主に貴族の邸宅で開かれる晩餐会などで演奏を披露していた。貴族のサロンから抜け出してピアノ単独でコンサートを開き始めたのはリストとされている。コンサート会場は現代の小ホール並みで、200人から300人の聴衆を収容できる程度であった。いわば人の声が無理なく届く広さに留められていた。(cf. “Concertgoers, Please Clap, Talk or Shout at Any Time” By BERNARD HOLLAND, Published: January 8, 2008)

この頃、ピアノ音楽は手を伸ばせば演奏家に触れられるくらいの距離で聴かれていた。蓄音機は7年前にエジソンが発明したばかりで普及していない。ラジオ放送は1906年まで22年間待たなければならない。人々は娯楽に飢えていたが、音楽を楽しむには生演奏しかなかった。演奏家に謝礼を払えるのは裕福な者に限られるから、音楽界は貴族ら特権階級の人々によって動かされていた。要するに彼らの社交の一部であった。

サロンでピアノを弾くLiszt 1840年.手前の女性はピアノに頭をつけて聴いている.

サロンでピアノを弾くLiszt 1840年.手前の女性はピアノに頭をつけて聴いている.

フォーレ(この時39歳)の作品を「サロンの音楽」と揶揄する向きもあるが、コンサートホールで演奏することの方が稀であったのだから的外れな指摘である。ルービンシュタインは20世紀初頭、パリに大きなコンサートホールがひとつしかなかったと書いている(Rubinstein. 1973. My young years)。大きなホールは専ら交響曲など大規模な作品を演奏するために用いられたから、規模の小さな器楽曲は貴族の邸宅や小ホールで演奏されるほかなかった。そういった事情からこの時代の欧州製ピアノは収容人数200人程度の小ホールを想定して作られている。

しかしながらアメリカでは事情が異なる。1866年ニューヨークに建てられたスタンウェイホールは2500人を収容できた。その後、カーネギーホールが1891年に建設され、2800人を収容した。アメリカでは鉄骨が豊富に使えたので巨大なコンサートホールが積極的に建設された。鉄はピアノと音楽の行方をも左右する。広大な空間でも響くようピアノが改変されていった。そこで使われたのも鉄であり、フレームが鉄で作られるようになった。減衰しやすい高音を遠くまで響かせるために、よく言えばクリスタル、悪くいえば金属的な音になっていった。

ニューヨークに拠点を置くスタンウェイ社がピアノ業界を席巻していったのはホール巨大化の波にうまく乗ったからである。スタンウェイホールやカーネギーホールで経験を積むことで、大きなホールに向いたピアノを開発していった。世界的にホールが巨大化していく中、先端を走っていたニューヨークのピアノが各国に広まっていったのは当然のことといえる。

同時に19世紀的音楽は絶えた。シューベルトの頃からピアノは歌を真似ようとした。ピアノは言葉を持ち、人々に語りかけたのである。ピアノは言葉では表現できないもの、すなわち人間の感情や風物から受けた印象をよく表現した。そのために歌うような、繊細な表現を必要とした。人々はささやくようなその声をピアノのすぐ側で聴いた。しかし、そうした情感の世界は失われていった。

スタンウェイは1867年のパリ万博で金賞を得た後、1880年にハンブルグに支社を置き、ヨーロッパに進出する。ホールで迫力ある音を響かせたいピアニストはスタンウェイを選んだ。大ホールで観衆を湧かせるなら音量があってホールの隅々まで響き渡るスタンウェイのピアノが向いている。Pleyelなど古くからあるヨーロッパのメーカーはスタンウェイに対抗する必要性を感じつつも、木の響きにこだわり、頑固に鉄の使用を拒んだ。1884年製造のPleyelはその時代の有様を証言している。

私のもとにやってくる1884年製造のPleyelは、交差弦を採用し、部分的に鉄フレームも導入している。その一方で鉄のフレームが木の筐体に直接触れないよう布をかませている。あくまでも音は木で響かせるぞという主張だ。音を大きくするよりは音質を選んだ。このような姿勢は後にPleyelが世界市場から閉め出されていく遠因となる。

私のPleyel.金属プレートt木枠と間に布が挟まっている.

私のPleyel.金属プレートと木の筐体との間に赤い布が挟まっている.

私にはヨーロッパ文化がその頂点で放った最後の光をこのピアノが映しているように思われる。それは貴族文化でしかなかったかもしれないが良質であった。大音量で聴衆を扇情するのではなく、美しい音で静かに耳を傾ける者を慰めた。そういった音楽の方が私には大切に思われる。

1928年に建て直されたSalle PleyelはCarnegie Hall並に広がった。ピアニストは聴衆から遠く離れてしまった。Pleyel社は国際競争に負け、国策で守られて生き延びるローカルな製造会社となっていた。

up the hill

I realised that the last Saturday off was four weeks before. I needed to go walk somewhere. We have been to a cafe up the hill for lunch. It was almost two years ago the last time we came here with my father in law, who shortly passed away after that. We ate light lunch and drank a cup of coffee. A piece of pear tart was delicious.

The view from the cafe, overlooking the city of Kanazawa

The view from the cafe, overlooking the city of Kanazawa

We have been to a Shinto shrine, then. We heard that there was a festival there, but it was almost over when we arrived. We pour the spring water into bottles to take them back. It makes beautiful tea when boiled.

The approach to the shrine, my favourite path.

The approach to the shrine, my favourite path.

Many families with small children were worshipping for their promising future

Many families with small children were worshipping for their promising future

ピアノは生きている

Mに招かれて中に入ると廊下は相変わらず段ボール箱が積み上がってごった返していた。引っ越しが始まる前はもっと雰囲気が良かったのよ、こんな状態でお迎えしなければならないなんて残念だわとBが詫びた。二階にソファがあって落ち着けるからそこでお茶にしましょうと促された。Mが台所の方へ向かう。それを呼び止めた。ピアノの写真を撮らせてもらえませんか、ピアノ技術者に頼まれたので。

Mが驚いて、「買うつもりなのか?」と聞く。どうも話が通じていなかったらしい。単にピアノを弾きたいから訪ねてくると思っていたようだ。なかなか返事が来なかったはずだ。それでも忙しい中、「ただピアノを弾きに来るだけ」の人をお茶に招いてくれるとは寛大な人である。お蔭でピアノに会えた。

思う存分弾いてくれ、とMが言う。お前がこのピアノの所有者になってくれたらうれしいよ、お前もYもきちんとした(decent)人だからね。このピアノに相応しい人に買ってもらいたいんだ、お前だったらいい。日本の人たちにはずいぶん世話になっているし、日本が大好きなんだ。友達もたくさんいる。このピアノが日本に行ってくれたらうれしいよ。

ピアノの周囲が綺麗に片付けられていた。椅子に座って楽譜を譜面台に置いた。まずはモーツァルトのソナタから。以前弾いたときと印象が違う。前は「半分壊れてる」ようだったが、今回はそんなことはなくてきちんと整備されているのがわかった。こちらの要求にすぐ応えてくれる。確かに鍵盤のタッチが独特ではあるが、慣れれば弾きこなせそうだ。続いてシューベルトのト長調ソナタを弾いてみる。和音の響きにハープの音が被ってくる豊かな響き。それでいて濁ることがない。

シューベルトの時代、ピアノはもっとハープシコードに近い音をしていた。彼は和音連打を多用したが、これはその時代のピアノから最大限の響きを引き出すための措置であって、同じことを現代ピアノでやると音が厚くて騒がしい音楽になってしまう。今のグランドピアノなら弱音(una corda)で演奏してちょうどいいくらい。しかしPleyelだと音がぶつかり合うことなく真っ直ぐ交差して和音の構造がくっきり見える。連打するとビート感がしっかり出る。滑舌のはっきりした楽器だ。

さらにラヴェル、ドビュッシーを流してみた。軽く触ったときは月から差す光のよう、しっかり押し込むと地面から沸き立つ土の香りがした。すぐには弾きこなせなかったが、素晴らしい可能性をもった楽器であることはわかった。鍵盤に触ると、このピアノを弾いた人たちの想いが伝わってきた。これはひとつの宇宙だ。響きから風景がみえる。

満足したので二階に上がり、皆でお茶を飲んだ。昔建てられた邸宅なので天井が非常に高い。窓から湾が遠望でき、行き交う船が眺められた。4人でアイスクリームを食べながら話した。私たちはお金はないけど持ち物を売って儲けたくはないのよ、ひとつひとつの物に思い出がある。安くてもいいから友達に譲りたいの、とBが言った。さすがアーティストだと感心した。価値観が特別だ。

荷造りの邪魔をしたくなかったので早々に辞去した。歩きながら考えた。想像していたより楽器の状態がよかった。日本へ持ち帰ったときに大々的に直す必要はなさそうだ。その一方で、これはおおきな買い物になりそうだ、お金が足りるだろうかと心配になった。時代物の楽器で状態がいいものは少ない。音がよい物はもっと少ない。コンサート用グランドピアノなのだ、奥行き180センチの家庭用とは質が違う。市場に出たら自分には到底買えない代物だ。

欲しい。しかし分不相応かもしれない。値段を聞いて買えない額ならあきらめる。買える額なら交渉せずに言い値で買う。文句の付けようがないから。そのようにMに伝えた。すぐに返事が来て彼の希望がわかった。自分としては最後が重要だから直接会って意思を伝えたい。Mも同意してくれて、翌日午後4時に会う約束をした。

マルタで過ごす最後の日はいつもと同じように晴れで暑かった。時間に少し遅れてMらがやってきて、友達と昼食をとっていたのだと詫びた。二人でピアノの前に行き、静かに話した。彼は喜んでくれた。素晴らしい、日本にこのピアノが行くんだな、と。そして真顔になり、時々このピアノが生きているような気がするんだと言った。誰がこのピアノを引き取るのだろうかと思っていたが、お前が現れた。自分がどこに行きたいのか知ってるんだな、このピアノは。

台所へ行ってお茶を飲んだ。Mから知らせを受けてBが喜んでくれた。あのピアノは私からMへのプレゼントなの。私は自分ではピアノを弾かないけれど、祖母はミケランジェリの生徒だった。母はローマの演奏家協会の会長よ。音楽は家族の歴史なの。あのピアノも家族の一部。それをあなたが受け継いでくれてとてもうれしい。

彼らがピアノを買ったときのことはMから聞いていた。このピアノをみて二人とも欲しいと思ったが高かった。Mはすぐにあきらめたが、Bは家族や友達に電話をかけまくって借金し、とうとう買い取ったのだ。そこからまた母親の伝手でイタリアで一番といわれるピアノ技術者に修理を託し、彼が一年以上かけて修復した。彼らはこのピアノに最大限の情熱を注ぎ込んだのだ。

あのピアノは生きている。ピアノのある部屋からマルタの海を眺めている女性が脳裏に浮かんだ。彼女が自分を選んだ。選ばれた以上は使命を全うしなければならない。それは彼女を日本へ連れていくことだ。自分にできるだろうか。うれしさよりも不安が先に立った。

 

a cold front

One good thing to be on top of the hill is that you can observe how a cold front approaches from north to south. Another good thing is that you can observe thunders. We are unlucky today as there is no thunderstorm.

a view from JAIST

a view from JAIST

出会い

最初にMに会ったのは2011年3月末、マルタ大学にて講義を担当した時だった。その時はサンバ演奏や陶芸の菊練りなど身体知の研究を概説した。Mは教室の隅に座って熱心に私の話を聴いており、講義終了後に近寄ってきてサンバの演奏分析についてコメントしてくれた。ジャズドラマーであること、音楽学部で講師を務めていることなどがわかった。リズム演奏の熟練者である彼の意見は非常に興味深く、ぜひまた会って話したいと思った。

次に彼に会ったのは、一年後の2012年3月末である。マルタ滞在中に少し時間がとれたので連絡を取ったところ、自宅に招いてくれた。訪ねたのは3月30日金曜日の午後だった。Mの家は築後100年ほど経っている邸宅で、湾が見える高台にあった。家の中に案内されて、入り口すぐ横の部屋にピアノがあった。

明るい色調で木目が綺麗なグランドピアノだったので興味を持ち、近づいてみるとかなり古いものであることがわかった。許可を得て鍵盤に触ってみるとタッチが独特で弾くのが難しい。試しにショパンのバラードを弾いてみたが、指が滑らかに動かず戸惑った。弾きこなすのが難しそうだったが、寄せ木細工の美しい筐体が印象に残った。

また一年後、2013年4月下旬から3ヶ月マルタに滞在することとなる。マルタ滞在中、何度かMに連絡をとったが、彼の授業を一度聴講できただけだった。そうこうするうちに引っ越しの予告と不要な家財を売る旨が彼のfacebookに掲示される。引っ越しの準備で忙しいとわかった。そうであれば彼が引っ越してしまう前に会っておきたい。

結局、Mの家を訪れたのは6月30日だった。マルタに来て既に二ヶ月が過ぎている。そして帰国まで一月を切っていた。娘の教育のため家族と共にイギリスに渡るのだという。引っ越し準備で家は入り口すぐのところから廊下に段ボールが積み上げられている。ピアノは同じところに置かれていた。ピアノの行く末が気になったので尋ねてみたところ、フランスの業者に連絡をとったとのこと。それ以上は聞かず、二時間ほど研究の話をして帰った。

その後7月初旬はスロヴェニアに行く用事があり、一週間ほどマルタを離れた。会議を終えてマルタに戻ったのは7月5日金曜日の夜だった。しばらくマルタを離れていたら海が恋しく、妻を誘って外に出た。自分たちのアパートから海岸まで徒歩で一分。週末の夜だからであろう、大勢の人が遊歩道を歩いている。アパートから表通りに出て左に折れ、右手に海を見ながら歩いていくと、どこかから誰かが喚いているのが聞こえた。「オーイ、ソコノニホンジン!オーイ」

振り返ってみるとMだった。奥様と二人で犬の散歩のようだ。「フジナミサン、オゲンキデスカ」と話しかけてきた。彼は日本を何度か訪れており、親日家である。家においでよ、ディナーを一緒にどうだと誘ってくれた。いつ日本に帰る?と聞かれて17日と答える。あと10日ほどだ。わかった、また連絡しあおう、良い夜を!と言葉を交わして別れた。(進行方向が逆だったので。)

そこから逡巡が始まる。ピアノはフランスに行くらしいが、まだ売るとは決めていない。としたらそれを手に入れられる可能性があるだろうか。しかし古いピアノだ、そう簡単には持ってこられない。少なくとも鍵盤に使われている象牙は輸入禁止のはず。そこのあたりの規制はどうなっているのか。それから輸送は?費用はどのくらいかかるのか。日本まで小包を送ろうとしたら航空便しか取り扱いがなかった。船便はない。ピアノも日本まで飛行機で運ぶことになるのか。とてつもない送料がかかるんじゃないか。

そんなことを土曜日、日曜日、月曜日、火曜日、水曜日と五日間考え続けた。調べてみたところ、象牙の方はなんとかなるらしい。ワシントン条約によって規制されているが、条約が施行される前に製造されたものは例外として扱われ、輸出入できるとわかった。ワシントン条約ができたのは1970年代からだから、1884年製造のピアノは何ら問題なく例外扱いだ。そこは問題ないとして、あとは。。。。

あとは現物に触って確かめてから考えることにした。もし年代物のピアノを手に入れるとしたら今がその機会だ。この機会を逃したら次はもうないだろう。そう思うと、是が非でもあのピアノに触れなければならないという思いが強くなった。気持ちはほぼ固まっている。あとは確認するだけだ。

10日水曜日夜にMに連絡をとり、ピアノを弾いてみたい旨伝えた。ところが引っ越し準備で忙しいようでなかなか会えない。スケジュール調整だけで無為に日が過ぎていった。もう機会はないかと諦めかけたが、15日月曜日にMから電話がかかってきてピアノに触れられることになった。マルタを発って帰国するまで、残り二日だった。