Daily Archives: 2016年2月22日

あかるいもの、すみきった、純粋なもの

貴兄はいつも帰宅するなり何も言わずにピアノに向かって2時間、3時間と弾き続ける。聴かされている者の身になって欲しい。なぜ今その曲を弾くのか。こんな思い出があるから弾きたいとか、そういう説明はないのか。わけのわからないまま下手な演奏を延々と聴かされるのは苦痛である。まず弾く前に説明せよ。そうすれば演奏もよくなるはずだ。なぜその曲を弾くのか理由を考えるべきである。

と言われてもっともだ、と思った。「では今からモーツアルトのPraeludium und Fuge C-Dur, KV 394を弾く。モーツアルトが対位法をどう消化したのか知りたいから。」と説明したが、そういう説明では駄目らしい。あきれられたようだ。「芸術家は孤独なものね」

ポイントを外した。しかし、それでも今なぜこの曲を弾くのかを考えるのは重要な気がする。説明を試みる。

Mozart, W. A.
Praeludium und Fuge C-Dur, KV 394
モーツアルトはどのくらい対位法に依拠したのだろうか。最近、「クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり! 」を読んだ。非常に面白かったし、参考になる話もたくさんあったが、全体を貫く主張が「バッハが一番、対位法万歳」なので、違和感が残った。そんなところで「音楽と感情」(チャールズ・ローゼン)を読んだら、もう少しバランスがとれた見方をしていて、いろいろ試してみたいことが出てきたのである。モーツアルトのこの曲はフーガがついているが、JSBに比べたらずいぶんと自由にやっていると思う。ショスタコービッチが書いたものと言われても違和感がないくらい。形式よりは情感が前に出ている気がする。

Mozart, W. A.
Piano Sonata No. 8 in A minor, KV 310
過去の思い出、という言葉に触発されて弾いてみたくなった。モーツアルトにしてはめずらしく悲愴的だが、母を失った直後に作られたと聞けば納得する。この曲を練習していたときは(さて、小学生だったか)テンポが早くて難しいなぁとしか思わなかったが、今は曲が表している感情に触れることが出来る。

Mozart, W. A.
Sonata 14b Koehel 457.
「音楽と感情」でこの曲と交響曲第41番《ジュピター》との類似性が指摘されていたので確認してみたかった。どうなんだろう、ジュピターの明るさの前では曲想の暗さが際立つ。しかし勇壮さという共通点はあるかもしれない。曲の書き方がピアノのためというより、オーケストラを意識したのかなということは感じ取れた。簡潔だけど構造的、ということだろう。

Rachmaninoff, S.
Etude-Tableaux Op. 33 No.3
これも「クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり! 」に刺激されて。ラフマニノフに対するブラームスの影響が指摘されており、感心したから。言われてみればその通りだと思う。それを確認するために弾いた。気分的に、くらい情感に支配されていたからでもある。情景:冬の日本海、浜辺をゆっくり歩く。途中から雲が割れて陽が差し込んでくる(2分45秒あたりから)。(直前の曲と同じC-minorであったことに後で気づいた。)

Faure, G.
Pieces breves pour piano, Op. 84-I (E-flat major)
頭に浮かんだ旋律からこのフォーレの小品を探り当てた。連続する三連符が海の波を思い起こさせる。

Faure, G.
2e Barcarolle Op. 41. G mojor
頭に浮かんだものを弾いたまで。舟歌と訳される。海のことばかり考えていたから船に乗って漕ぎ出したくなったのだろう。もとはベネチアを描いたものと思われる。明るい気分となり解放される。地中海の潮風を受ける。

Chopin, F.
Sonate No.3 h-moll Op. 58
ショパンを何か。。「クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり! 」ではショパンがバッハをよく研究したと強調されていたので。バラード4番の方が相応しいかと思ったが気分が暗くなるのでこちらを選択。ソナタ3番はベートーヴェンへの回答と思っていたが、少し前に弾いた Mozart のSonata 14b Koehel 457.との共通点もみえた。(ような気がする。)最終楽章を弾かずに中断。

シューマンのことが気になって謝肉祭と道化について調べる。『ロベルト・シューマン』 高橋悠治をみつけて面白く読む。

このクララはだれだろう? シューマンの1830年代後半のピアノ作品は、愛人とあうことのできないいらだちのなかで、「はるかな恋人」への愛は純化され、その絶望と愛とを反映している、というのは本当か? どんなロマン主義だろうと、そんな私的な動機から作品が成立するわけはない。芸術活動は、まさにこの時代に非日常化した。現実の事件や感情は、非日常世界の光をあびて、はじめて意味をになう。(フロレスタンとクレールヒェン

などなど。「現実の事件や感情は、非日常世界の光をあびて、はじめて意味をになう」と書くあたり、シューマンをよく理解しているなと感心する。また以下のように、クララ・シューマンを堂々と批判するものは少ないから興味深く読んだ。

かれは自分のしかけたワナにかかった。ロマン主義的原則が遠ざかる女をもとめ、秘教としての古典さを設定していたのに、おもいがけず実現した結婚は生活も芸術も牢獄に変えてしまった。ブルジョワ家庭の安定をもとめる妻であり、子供製造器であり、アカデミックなピアニストであったクララに強制されて対位法の勉強にはげみ、シンフォニーや弦楽四重奏曲のような古典形式をムリしてつかい、夫婦交代でつける日記を通じて監視されていたのだから、しかも内省的になるのと平行して、教師や指揮者のように性格的にあわない職業で家計を支えなければならなくなったのだから、気ちがいになってあたりまえだ。(「シューマン論の計画」)

「クララに強制されて対位法の勉強にはげみ」というのはどうなのだろう。結婚前のシューマンは確かに独創的だったが、結婚後も成熟したのではないかと思うし。。

Schumann, R.
Fantasie C-Dur Opus 17
音楽と感情」(チャールズ・ローゼン)に冒頭の左手の弾き方について書いてあって、それを確かめたかった。Debussy の曲を弾くように柔らかなタッチで、曖昧に、ぼかして弾いてみた。確かにその方がいい気がする。この曲がよく言われるようにクララを失うかもしれない焦りを描いているのか、あるいは高橋が主張するように「非日常世界の光」を発しているのか。(最初の Mozart, Praeludium und Fuge C-Dur, KV 394 に呼応していることに気づいた。)

クララ=クレールヒェンの名は、あかるいもの、すみきった、純粋なものを意味する。シュレーゲルの「ひとつのかすかな音」、はるかな希望であり、五音の下行する線がそうであるように、かなたからやってくるものだ。それは、かならずおとずれる解放のイメージだ。(「フロレスタンとクレールヒェン」)

Fantasie C-Dur Opus 17で表現されているものがクレールヒェンだとしたら、その気持ちは以下のようなものであろう:

喜びでいっぱい
そして悲しみでいっぱい
思いでいっぱいなのです
あこがれ
そして不安になる
絶え間ない痛みの中で
天高く歓呼し
死ぬほどに心沈む
幸いなるはただ
恋する魂だけなのです
(Johann Wolfgang von Goethe「エグモントからのクレールヒェンの歌」)

こちらの解釈の方がいいなぁ。。(中断)

Schumann, R.
Arabeske C-dur Opus 18
引き続きシューマンの世界に浸りたいから。(これも C-dur だな、、、)

Schumann, R.
Faschingsschwank aus Wien Opus 26
楽譜を買ってきたばかりなのでしばらくは真面目に弾いてみる。ちなみにこのビデオ、すごいです、衣装が。演奏よりそちらに注意が向いてしまう。。(曲は第4曲で、これもクララへの思いが隠されているといわれている。)

Schumann, R.
Klaviersonate Nr.1 fis-Moll, op.11
これもクララへの、、と言われているが、クレールヒェンの歌とした方がよいと思う。冒頭3連符が続く辺り、今日のフォーレ Pieces breves pour piano, Op. 84-I に共通するなぁと気づいた。それからモーツアルトのPraeludium und Fuge C-Dur, KV 394とも。

なんとかフォーレからシューマンへ遡れた。鍵になるのが「クレールヒェン」ということに気づいた。「あかるいもの、すみきった、純粋なもの」(高橋悠治)。そこへ通奏低音のように Mozart の Praeludium und Fuge C-Dur, KV 394 が流れている。シューマンやフォーレの霊感は Mozart からきている。この曲は妻 Constanze の求めに応じて書き、姉 Maria に弾いてもらったという。クレールヒェン的なものへの憧憬を以て形式を乗り越えることが共通するのか。そこに Goethe の影響もみえる。

無計画に弾いているようで一貫性がある。最初に答がある。その問いは何かを述べよ、と。フォーレとシューマンは誰から霊感を得たのか? 演奏を以て応えた。(Rachmaninoff がなぜ出てきたのかはわからない。)

ちなみに家人は「わたしはそういう理屈っぽい話には興味がない」とのことでした。(全部は聞いてもらえてない。)まぁ一日でこんなにあれこれ弾いていたら側に居る人は大変だろうなぁと反省した。行動は改まらないと思うけど。