Daily Archives: 2016年3月29日

嫌われる勇気

ここ半年ほど当大学院にて進路指導なるものを担当してきており、これはこの先まだ半年ほど続くのだが、対象となる学生さんらと(自分にとって)厳しい交流をしつつ、自己発見のきっかけともなっている。特定の枠組みで人を見るのは危険も伴うが使い慣れているのはエニアグラムに基づいたタイポロジーで、心のスイッチを入れれば半自動的に目前の映像にラベル付けされる。必ずしも正解とは限らないが、何も無しに臨むよりは遙かによい、自分の精神衛生上。

エニアグラムのほかに Myers Briggs Type Indicator (MBTI) というものがあるのだが、10年以上前に指導していた学生さん(今は某大学の教員になっている)が企業調査のためのインタビュー内容をMBTI を使って決めていたので、頭の隅に残っている。MBTI の元になったのはユング派心理学とされているが、これもかれこれ10年くらい前に組織研究をしていたとき、チームワークやリーダーシップを分析するために思考−感情、感覚−直観というユング的枠組みに依拠していたので、幾分使い慣れた感じがある。

そうはいってもなかなか自分にそれらを適用するというのは厳しい話で、はっきりいってとてもしんどい。とはいえ、しばらく学生さんらと話していて自分の偏見(バイアス)がかかった助言をしている気がして、ここをもう少し中和したいと思った。なので(結構つらいのだけど)自己分析している。

その過程でいろんな情報をネットでも読んだが、まぁひどいなぁと思う書き物が多かった。我が師、吉福伸逸はタイポロジーが占いのように使われることを危惧して決して公にしなかったが、人を判断する枠組みは容易に占い、つまり自己弁護の道具となってしまう。「私はタイプXXだからYYで、だからZZなの」みたいな独白(?)を読む(読まされる)と、適切な指導なしにタイポロジーが使われるときの危険がありありと見えて、大変恐ろしい。タイポロジーは自分を正当化するためではなく、自分の欠点(影)に気付き、それとのつきあい方を考えるための道具である。嫌いな自分と向き合って、痛みと共に自分を改めることが目的なのに、変わらないための口実になってしまっている。

それはともかくとして自己分析はなかなか大変だ。信頼のおける人に分析を手伝ってもらったらよかったなぁと思ったが、こんな環境なので仕方がない。大変ではあったが(あるが:現在進行形)、自分について発見するのは感ずるところがある。

自分がどのタイプかとかそういったことを公言するつもりは毛頭無い。我が師も決してそういうことは言わなかった。あくまでも学習者が自分で苦労して見出すべきである。学びの機会なのだから、最初から答を言ってその機会を潰すことはない。なので、あれこれ書くつもりはないけれど、Alfred Adlerの性格をMBTIで診断するという試みが面白かった。要は自分に似ている。(ユング心理学はアドラーを分析するけど、その逆はないというのも面白いところ。)

Adlerは共同体感覚ということを重視するのだが、その点に共鳴する。共同体にどう貢献するのかというのが自分にとっては大切なことだが、同時にそれがバイアス(思い入れ)でもある。里山歩きを企画したのにどうして日本人学生が一人も来ないのかと不満に感じたり、大学の運営に理念も社会貢献の意欲も感じられなくて怒りを感じたりといったことも、あるいは近隣の高校をボランティア的に訪問して科学教育のお手伝いをしているのに教員の参加が少なくて不満に思うことなども、共同体への貢献を重視しがちな自分の姿勢から来ていると自覚した。他人にそんなことを期待するのが間違っている、ということだ。

恩義があるはずなのに自己憐憫と正当化のために組織を非難する者にも憤りを感じるが、それが普通の人間だとわかれば、いちいち目くじらを立てる必要もあるまい。人として最低と思っても、それがあくまでも自分の感じ方でしかないということだ。そういうことがわかって腑に落ちた。いちいち腹を立てる方が特別ということだ。見下げ果てた奴にも社会に居場所がある。よかったね、と思えばよい。

嫌われる勇気。これも他人にいい顔ばかりしようとして疲れてしまう自分への警句だ。相手が間違っていると心底思ったら、自分を曲げないで堂々と主張しよう。(まぁ、既にしているかもしれない。)「課題の分離」これは結構やれている気がする。深沢君がいろいろAdler心理学に関する自著を送ってくれたけど、意識的なのか無意識なのかわからないけど、いろいろ勉強になった。それらは自分が真剣に読むべきものだった。

社会や他者との関わりを重視するのが自分の姿勢だ。それを人に押しつけてはいけないけれど。そう考えると、マルタ大のJohn Schranz氏とか、今回インドから招いたDinesh Korjan 氏とか、こういったタイプの人たちに惹かれ、尊敬の念を抱くのは自分の理想を体現しているからだと思う。愛とか信頼といったことが堂々と言えるのがうらやましい。既に老境に足を踏み入れているが、これからの成長目的はそういうところにおくべきだろう。彼らは自分にとっての老賢人 Old Wise Manを象徴している。

その他の反省としては他人に対してあれこれ細かく指図してはいけないということだ。自分にとっては良いことと思えても、当人にとってはそうではないかもしれない。家では確かに「口うるさい」と煙たがれるので、自分の価値観を人に押しつけないように注意しよう。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」(アドラー)ということを徹底しなければならない。とりあえずここまでが自分の発見。(我慢して手を出さない、傾聴するといったことを心掛けているのですけれどね。他人の成長に立ち会うというのは大変な作業だなと、改めて思う今日この頃です。)