Daily Archives: 2017年10月29日

皇帝にもらった花のたね

シャンティ国際ボランティア会というところが海外のこどもたちに絵本を送る運動をしており、依頼があったのでカレン族の子どもたちに本を送ることにした。今回送るのは「皇帝にもらった花のたね」という本である。皇帝が子どもたちに花の種を配り、育てさせて、その結果(花)を見せに来させるという話で、実はその種は芽が出ないように細工されているのだが、一人(主人公)だけ正直に芽が出なかった鉢を持参したため誠実さを褒められるという話。皇帝も意地が悪いなと思った。人を試してはいけない。

カレン文字で自分の名前を書くようになっており、表から自分の名前の字を拾って写した。なかなか変わっている。

皇帝にもらった花のたね(カレン族の言葉に翻訳されたものがシールになっており、それらを貼って提出する)

皇帝にもらった花のたね(カレン族の言葉に翻訳されたものがシールになっており、それらを貼って提出する)

カレン族の文字で「つとむ」と書いた。文字はタイ語から借用しているらしい。

カレン族の文字で「つとむ」と書いた。文字はタイ語から借用しているらしい。

記憶の運河

小山景子さんのCD「記憶の運河」が届いた。2012年12月の発売だが、元のアナログLPが出たのが1994年。さらに録音は主として1980年代だから30年くらい前の作品である。なぜこれをみつけたかというと、GravenhurstというグループのCDが聴きたいと思い、最近はどのような作品を出したのか調べたことがきっかけである。Gravenhurstの第一作(FlashlightSeasons)が2004年に発売され、その頃よく聴いていた。その後、ビートの効いた音楽を聴かなくなったが、彼の曲は独特の雰囲気があったので耳に残り、また聴きたくなったのである。結果として作詞・作曲を務めていた人(N. J. Talbot, 1977年生まれ)が2014年に亡くなっており、「最新作」はないことがわかった。死因などは明らかではないが自殺だろう。彼が書き続けてきた曲の歌詞からそう思う。

届いたCDと映画館でもらった絵はがき

届いたCDと映画館でもらった絵はがき

自分よりも若い人がよい曲を作っていて一時よく聴いていたから、10年くらい経った時にまた聴きたいなと思い、探したらすでに亡くなっていた、なんていうのは自分が無駄に生きてきたみたいで侘びしい。何が起きたのか調べているうちに上述の小山景子さんがGravenhurstのThe Diverを訳していたのを見つけたのである。

小山景子さんのことは存じ上げていなかったが、興味深いことを書いていたので調べてみたところ上述のCD「記憶の運河」を見つけた。Amazonの紹介には共演者について書かれており、その中に知っている人を見つけ、その頃の記憶が蘇ってきた。知っている人とは、松井亜由美さん(violin)である。知っているといっても一度、一緒に演奏したことがあるだけで、しかも演奏といってもお互いの音楽性を探り合うような、オーディションのような場だった。

なぜそんなことになったかというと、カトゥラ・トゥラーナ(Katra Turana)というバンドがピアニストを探しているから一度、彼らと演奏してみないかと勧められたのである。おぼろげな記憶では、勧めてくれたのは水木さんで、彼は後に青土社に入って編集の仕事についた。大塚駅から歩いてスタジオに行き、彼らと一緒に演奏した。松井さんは即興で無調の前衛的なフレーズを弾いた。リーダー&ボーカルだった人の下宿を訪ねていった記憶もあるが、それはスタジオ入りする前だろう。女装してステージに立ち、何語かわからない歌詞で歌うという強烈な個性の人だった。何だかよく分からないままにリハーサルが終わった。

説明が遅れたが、大学生となって上京したばかり、19歳のときの話である。リーダーの人がずいぶん年上に見え、松井さんもおそらく20代半ばであり、ある程度キャリアを積み、上り調子にあるバンドに無知な19歳の少年が加わるのは無理があった。前のピアニストが芸大の人で、メシアンに傾倒していて、その人がフランスに留学していなくなるので新しい人を捜しているという説明にも面食らった(その頃世に出た1stアルバム)。演奏自体はそれほど悪くなかったと思うが、ぶっ飛んだ人達だったので怖じ気づいて早々に断りの電話を入れてしまった。今になって思えば、これらの人達に比べて自分が未熟で若すぎた。

そんなことを思い出し、懐かしかった。CDの最初三曲にviolinが入っているが、音を聴いて記憶を辿った。堅い、厳格な演奏だったようだ。このCDが出るまで紆余曲折があったのだと小川さんのページに書いてあった。

ここに出てくる竹田賢一氏とは(在学中)後々、演奏会で一緒になった。大正琴にディレイをかけて即興演奏するという独創的なスタイルで印象に残っている。今も変わらぬスタイルで音楽に取り組んでいるようだ。

その演奏会には工藤冬里さんも参加していて、待ち時間に包丁で自分の手首をマッサージしており、自殺願望の強い人だなぁと思った。小川さんは工藤さんとも共演している。

上述のページに小川さんが書いているが、パンクでもなくプログレでもない、ジャズなのかフォークなのか、ロックなのか、分類できない人達に自分も紛れていた。そういう人が多くいたように思う。大学にあった練習場にはそういう人達が出入りしていて影響を受けた。現状からは想像しにくいが、学生でない人も出入りして輪講などに参加していたのである。面白いことがあるから観に行こうと友達に誘われて教室に行ったら(まだ学生だった)「いとうせいこう」が芸を披露していたこともあった。感度の高い学生にしかわからないギャグを連発しており、その後の彼よりも尖っていた。第三舞台もまだキャンパス内で公演していた。キャンパス内に創作の熱気があった。

水木さんのとは別のバンドで(ピアノでなく)ギターを弾いていたが、そちらでは弦に釘などを差し込んでプリペイドピアノみたいに音を変え、エフェクターを深くかけて騒音をまき散らしていた。そちらのバンドで演奏するときはコンサートで一緒になる人達も危ない感じで、演奏前に聴衆に睡眠薬を配ったりするなど無茶苦茶だった。聴きに来てくれていたIくんが、これはいい薬ですよというので自分の分をあげた。

そんなことも思い出しながら小山景子さんのCD「記憶の運河」を聴いた。近そうなのに演奏を聴いた記憶がないのは、微妙に異なったサークルにいたからなのだろう。とはいえ、演奏からはあの時代の空気を濃厚に感じる。インターネットも、携帯電話さえもなかったあの時代の空気を。

夜、ブレードランナー2049を観に行った。小山景子さんのCDを聴きながら、金沢駅前の渋滞を抜け、開始時間を数分すぎた頃にようやく映画館に到着した。最初の方は宣伝なので、見逃す部分もなく本編を最初から見た。映画は素晴らしかった。第一作のストーリーを上手に取り込んでいて、テーマを深めていた。AI(人工知能)や仮想現実、アンドロイド、斬新なテクノロジー、インタフェース、憂鬱な天気。しかし第一作を見たときほどの感動がない。帰り道、ずっと考えていて、現実が映画の世界に近づいたせいだと気づいた。

私が第一作をみたのは1983年で、公開の翌年である。公開時は無視された形だったのが少しずつ評判を呼び、再上映されたところを見た。その時も一部の人の間でのみ評判となっているカルトムービー的な扱いだった。しかしその世界観は圧倒的で、想像力を刺激された。インターネットも携帯電話もスマートフォンもiPadもなかったのである。人工知能のこともその頃は知らなかった。それから34年が過ぎた。現実はブレードランナーの世界にかなり近づいた。

素晴らしい映画なのに、それほど感動できないのは残念だ。自分と社会が変わったせいだ。1982年が懐かしかった。音楽も変わった。