サンバで結ぶ福祉のこころ

辰口健康福祉センターにて表題の集まりがあった。正確にはそれは副題で本題は「あなたはどんな時、孤独を感じますか?」だったんだけど。久しぶりに安野さんに会った。安野さんがこの日のインストラクターで、ガンザの振り方から簡単な踊り方まで指導した。時間も短いし、サンバもちょっと手軽に演奏できるとは言い難いがどうだろうか、、と思っていたが何のことはない、みんなのりのりで演奏&踊ってくれて、サンバはいいなぁと改めて思った。ただ自分自身はまだこういう音楽をやるほど元気ではないと自覚した。いや、単に体力が衰えただけか。。

みんなでサンバ演奏

休憩後、グループに分かれて話し合った後、原田正樹さん(日本福祉大学)のお話を聴いた。今日のテーマは地域における人と人とのつながりを大切にするということだったので、最後の方はそういうお話に。そこで考えさせられたのは Normalization(ノーマライゼイション)を日本語に翻訳するときに「共に生きる」という表現になったという話。

原田正樹さんの講演を拝聴

共に生きるとか、共感するといったことはいいことなんだけど、どうもひっかかるなぁとその後ずっと考えていた。それで気づいたのは、「となりの人の気持ちが大切」というある種、相対主義的なものの考え方だなとということ。お互い助け合って生きていこうというのはいいことなんだけど、その根本が「共感」だけというのは厳しい気がした。Normalization というのはやはり正規化だろう。わかりにくい訳だから「普通にする」とってもいいのだけど、根本にあるのは平等とか、正義の概念だと思う。そこを「気持ちが大事だよね」「一緒に頑張ろう」みたいなので流していくのは危ういところもある。

ちょっと間違えば、「家族の者が大変だからわしは早く死んだ方がいい」気にさせられてしまうおじいさんを生み出してしまうのではないか。「みんな大変なんだからさ、あんたも我慢しなよ」みたいな説得を受けるのではないか。そういうのと、「一緒に頑張ろう」っていうのはほとんど変わりないように思う。コインの裏表という意味で。

このあたりの違和感はたぶん「倫理」というのが日本に根付いていないせいだ。サンデル教授の白熱教室でも最後の方でなかなか話が倫理のことにならなかったので教授がイライラしたみたいな挿話が番組で紹介されていたが、絶対的な尺度とか価値基準で物事の善悪を判断するという訓練をほとんどの者が受けていないし、文化的にもないから仕方がない。倫理と道徳は違うということも、たぶんほとんどの人がわからない。

なんていうことを珍しく長々と考えてしまうのは、制度とか法律といったものが気になっているせいだ。これらの基礎には倫理があるはずだが、そこが共有されていないと制度とか法律のことを議論しても話がかみあわない。ここでは認知症高齢者の介護に情報技術を取り入れていくことの是非を念頭においているわけだが。

あー、なんか頭が重い。気が重い。やはりここはしっかり議論しなければいけないところなんじゃないか。世界人権宣言をもう一度確認すればいいのではないか。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」

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