夏なのか

これまでも暑かったが一段と暑さが増してきている気がする。腕の日焼けがひどくて皮がむけ始めた。外では長袖を着るようにしていてもこの有様。昨日Johnと話していて、そろそろ暑くなってきたから練習を休みにするとのこと。午後9時半過ぎにならないと体を動かすエクスサイズはできないよ、と。帰国が迫っている身としては、そんなものかという程度だが、これより暑くなるとどうなってしまうのだ!! と心配ではある。

一日こもってスライドを作っていた。監視カメラ関係の学会に来週出席するので。プライバシー侵害はしばしば問題にされるが、監視する側からみればそれは他者を観ることに伴う「責任をどうとるか」という問題となる。情報通信技術を使うことによって新たに負うことになる責任とはいかなるものか、というようなことを少しまとめた。Hans Jonasという哲学者がいて(ハイデガーの弟子であるが、戦争責任を追及して離別)、Ethics of nearness, Ethics of distance といった面白い概念を提示している。(テクノロジーを介して)離れたところから人と関わる際の倫理をどう考えるかといった問題提起なのだが、これは実は遠くに見えていたものが近づいてくるまでに何をすべきなのかという問題提起だと理解した。距離があるということは近づくのに時間がかかる(時間がある)ということだから。それは結局、相手の人の未来に対してどう責任を負うのかということだと思う。近くにいる限りは「今・ここ」しかないから、即応しかない。そうではない事態、「もうすぐ・あそこで」という出来事に対してどのような態度をとるべきなのか。ということを考えなければならない。

こんなことをわざわざ整理するのは、介護の現場に行くと、「カメラは昔使っていたが今は撤去した」という話を聞かされるから。その理由というのが「遠くから見えていても、転びそうなときにすぐにかけつけられない。だからカメラをつけても意味がない。」というもので、異なった場所、異なった人から少なくとも3度、そういう意見を聞いた。それは結局、技術の導入によってもたらされる可能性が見えていないか、見えているけれどもその責任を引き受けたくないのではないか、と考えている。まぁ世間だって何か事故が起きたら、「どうして見えていたのに対応しなかったのだ!」と怒るだろうから気持ちはわかる。見えなければ責任を取らなくても良い。だからカメラなんかつけて仕事を増やさないでくれ、ということだ。責任を押しつけるなら先に給料上げてくれ!と言いたくなるだろう。それも同感。ま、いろいろあるがそれは置いておいて、本質はそこだと思った。しかし無知は無罪の言い訳にはならない。そこははっきり書くべきだろうと思う。テクノロジーの可能性を摘むのは倫理的に誤りではないか。そう思っていて口をつぐむのはもっと罪が重い。だから言うべきことは言わなければならない。

夕方散歩した。最近はこのあたりを潜っている。魚の群れを追いかけていると時間を忘れる。

夕方散歩した。最近はこのあたりを潜っている。魚の群れを追いかけていると時間を忘れる。

Sliema Street Festival なるものが始まった。街角に絵を描いたり、DJが音楽を流したり。賑やかだ。

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めずらしく夕焼けとなった。海がチョコレート色になった。

めずらしく夕焼けとなった。海がチョコレート色になった。

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