自己決定の危うさ

「認知症になる前にどんな介護を受けたいか、意思を表明しておけばよい」という案に対して問題点を指摘していくのはそれほど容易ではない。その時になれば人はまた変わる、気持ちが変わるというのはわかりやすい回答だが、本題はそこではないと思う。本心はそう思っていなくても周りに遠慮して、自分の意思を曲げてしまうことがあり得る。時には周りに影響されていることさえ自覚せずに、「仕方がない」と考え、自らの意思として(本来望んでいないことを)表明することがあり得る。

同じような問題を孕んだものとして安楽死が挙げられる。安楽死のことが気になるのは、「元気なうちに認知症になったらどのような介護を受けたいか決めておきましょう」運動をしたら、「認知症になったら私は生きていたくない、むしろ死を選ぶ」という言い出す人が必ずや出てくると思われるからである。

この点について、「尊厳死。安楽死を選んだ男、最期のとき(60分)」という番組は示唆に富む。アンカーマンを務めるプラチェット氏はアルツハイマーを発症し、記憶障害に悩んでいる。安楽死を選ぶ人たち(選ばない人たちも含む)に会い、自らの境遇と照らし合わせて思い悩む様を(も)描いている。プラチェット氏自身はアルツハイマーが進んだら安楽死を選ぶことに傾いている。彼にとっての問題は「まだ頭がはっきりしているうちに」決断を下さなければならないということ、いったんアルツハイマーが彼の心を奪ったら決断を下せなくなるという心配である。

番組には数名の、不治の病に苦しむ人たちが登場する。そのなかでもSmedley夫妻について詳報される。病に苦しむのは夫であり、進行性の神経の病のためいずれ身動きできなくなり、心臓が止まって亡くなることがわかっている。そこで安楽死を選択するわけであるが、まだ比較的うごけるのに死を選ぶには理由がある。それは一旦、自ら死ぬことができなくなったら誰かに殺してくれるよう頼まなければならない。頼めるのは妻くらいだが、そんなことになれば妻が殺人罪に問われてしまう。ゆえに自分が元気なうちに死にたい、という理屈である。

番組のクライマックスは氏が毒をあおって自死するところであるが、そこに至る過程を見ていて感じるのは、この方は結局妻のことを慮って、死を早めているのではないかという懸念である。皮肉にも殺人幇助を禁じる法律が人を死に駆り立てているわけだが、問題の本質は氏の決定が他者への配慮に影響されている点にある。

人に迷惑をかけたくないから早く逝きたいという気持ちは理解できる。自立心の強い人であればなおさらであろう。しかし、そのような決定を「自己決定」といえるだろうか。私の目には、それは「強いられた」死であるように映る。彼の妻は介護を拒否したわけではない。むしろ生きてほしいと願っている。にもかかわらず、自ら死を選ぶ。そのこと自体は尊厳死として受け止めるべきかもしれないが、その時期を早めなければならないと焦るのは、それに駆り立てる周りの何かがいけないのではないかと考えさせられる。

こういった事例をみていると、自己決定が正しく機能するには、選択肢が複数あり、いずれを選んでも周りの人(関係者)が受ける影響は変わらないことが保証されるべきと思われる。早めに安楽死した方が妻が助かるという状況に於いて、それでもなお生き延びることを選択するというのは相当の勇気を要する。利己的とさえ言われるかもしれない。周りの雰囲気に流されて自死を選択することが多発するのではないかと推察される。それを防ぐには、どんな状況になっても延命してほしい、とにかく生きたいと希望したときに、そのことによって本人および周りが罰せられない(罰せられたように感じないですむ)状況を保証することである。

残念ながら今の状況は不治の病(認知症を含む)を得た老人を社会的に抹消していこうという方向に進んでいる。「自己決定」をその免罪符として使うことにはなんとしても反対しなければならない。この点について、児玉真美氏の主張に同意する。(たとえば「安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること」を参照のこと。)同じく(「尊厳死法制化」は周囲の人間から”自殺を止める権利”を奪う―「尊厳死の法制化を認めない市民の会」呼びかけ人・川口有美子氏インタビュー)

翻って自分の関わっている研究が、自己決定が機能する前提を満たしているのかというと反省すべき点がある。情報器機を使った介護と、器機を使わない人手による介護という二つの選択肢があったとして、どちらを選んでも周囲に与える影響は変わらないという状況を確保しなければならない。仮に、前者の方が「介護費用が安くなりますよ」みたいな状況になると、それは事実上、前者を選択することを強いることになる。そうなると本当は人手による介護を望んでいる人でも、機械を使った介護を選ばざるを得ない状況となる。これは公正ではない。情報器機の導入が、経済効率の向上と絡めて論じられることが多いが、そのような論旨とは一線を画すべきと考える。

理想は以上の通り。現実はまた難しい。ただ言えるのは、介護を受ける個人に焦点をあて、そこに責任を集中させるのはある意味、周りの人が責任を放棄することだということ。人と人とのつながりの中での意思決定というとらえ方が必要であるように思う。しかしこの点を論じるのはなかなか難しい。「自己」とか「自律」を重視する文化の人たちとの対話は特に。

暑くなってきたので散歩するのは日が暮れてから

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夕日を浴びる猫。一日を愛おしむようには見えないが。

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