象牙の鍵盤

Mが所有しているPleyelのピアノを買う決心はついたが、問題は山積していた。当初から鍵盤に使われている象牙のことが気になっていた。日本は過去に象牙を大量に輸入しており、それが国際的に問題視されて禁輸措置がとられたことくらいは知っていた。象牙鍵盤のピアノを輸入するのが大変だということも何となく知っていた。Mにそのことを言ったが、「そうなのか、そんなことがあるのか?」と驚くだけで何も知らなかった。客観的に見れば呑気というか、なんとも無謀な二人である。

問題となった象牙の鍵盤

問題となった象牙の鍵盤

いろいろネットで調べた結果、ワシントン条約以前に作られたピアノであれば例外として扱われ、輸出入が認められることがわかった。しかしそれが具体的に何年何月何日なのかがわからない。ワシントン条約が発効された1973年3月3日より前だという人もいれば、1976年6月14日、1977年2月4日、1984年、1989年など様々な説明があった。アジア象とアフリカ象では違うという話もあってややこしい。最近調べたところでは1947年のようである。それについても1947年3月3日と1947年6月1日という異なる説明がある。

1947年というもの

1947年3月3日というもの

1947年6月1日というもの

件のPleyelは1884年製造だからいずれの条件も満たしている。問題はそれをどのようにして担当事務官に認めてもらうかである。130年前の古いピアノだから製造証明書がない。製造番号はピアノに書かれていて、それをもとに製造年がわかるので、然るべき人に証言してもらえばよいのではないか。Mはマルタ大学音楽学部の教員だから、ピアノを専門とする同僚に製造年を説明する手紙を書いてもらったらどうかと提案した。

製造番号 85003

製造番号 85003

ところでワシントン条約というのは通称で、正式には Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora (CITES)といい、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」と訳される。一般にはCITESは「サイテス」と発音するようである。以下ではこの条約に則って象牙鍵盤を日本に持ってくる手続きを「CITESの手続き」と略記することとする。

CITESの手続きは少なくとも4週間を要すると書かれていたので、私はかなり焦っていた。マルタを発つ前夜、手続きを詳しくMに書き送っている。マルタではMalta Environment &Planning Authority (MEPA) というところが窓口となっており、メールで申請できることがわかった。Mは「今週中に連絡をとるよ」と請け負ってくれたが、その週末の7月19日時点でまだ実行されていなかった。狭い島だから何事もコネで動く。Mは何か伝手がないか探っていた。

Mとその家族は9月3日にマルタを発ち、イギリスへ向かう。彼らの荷物の運び出しが9月2日に予定されていた。ゆえにピアノはそれ以前、8月26日の週に運び出さなければならない。そのためにはCITESの審査を8月23日までに通過している必要がある。その日まで7月19日から数えて5週間しかない。懇意にしているピアノ技術者に二ヶ月はかかるでしょうと言われていたので、7月26日時点で申請されていなかったら絶対間に合わないと思った。

最後に会って詳細を詰めたとき、Mは「仮に9月3日までにピアノを運び出せなかったら」、大家に頼んでしばらくの間、この家にピアノを置かせてもらうと言っていた。できるだけピアノを動かしたくないから、それがよいように思われたが、誰もいなくなった家にピアノだけ残されている図を想像すると心が張り裂けそうだった。「もし大家が駄目だと言っても」大丈夫だ、会社を興そうとしている友達がいて、そいつがオフィス用に借りた部屋がまだ使われていない。すぐに運べない荷物があったら預かってくれるそうだから彼に頼んでみる。というのが第二案だった。もちろん期日までに日本に送るよう頑張るよ、と不安げな私の表情をみて彼が締めくくった。

彼には言わなかったが、間に合わないようであれば早めに、私の他に買い手として名乗りを上げたフランス人にピアノを譲る方がよいのではないかと苦悶していた。CITESの手続きや日本までピアノを運ぶ手続きが煩雑であろうことは明らかだった。移動先がフランスならCITESの手続きは不要だし、輸送も容易だ。ピアノが誰にも世話されず放置されるようなことがあってはならないから、間に合わないなら他の人に譲る方がよいと考えていた。

7月22日の週も申請されなかった。しかしMに非があるわけではない。Mも私も日本へピアノを運んでくれる輸送業者を(それぞれの国で)手当たり次第探していた。マルタの業者についていえば5つの会社に連絡をとっていた。Mがこれらの業者にCITES手続きのことを尋ねたところ、それも仕事の一部だから任せろと答えたらしい。それを聞いてMは自分でCITESの手続きをするのをやめてしまった。

しかし日本にピアノを運んでくれる輸送業者がなかなかみつからなかった。(輸送業者の話は次回以降に述べる。)5つもの会社に依頼して何が駄目だったのか想像するのは難しいだろうが、いずれの会社も日本までピアノを運ぶ方法がわからなかったらしい(!)。ある会社は船で運ぶことを前提に、日本へ運ばれる荷物は少ないからコンテナが埋まるのに時間がかかる、だからコンテナを1つ借り切ってはどうかと言ってきた。それは悪くない方法のように思えたが、それ以上進展しなかった。

実のところ、Mはマルタの輸送業者を快く思っていなかった。反応が悪いからである。「何度か利用した運送業者があるんだが」、荷物のことを尋ねると調子よく『一週間以内に返答する』という。ところが二週間たっても連絡がない。仕方なく電話すると『お前は誰だ』なんて言う。わけがわからない、信用できないよ。というのがMの評価であった。島の人らしいのんびりした対応だが、すべてがその調子で状況はいっこうに動かなかった。ヴァカンスのシーズンだったことも災いしたのだろう。悪意のない不作為が状況を悪くしていった。

結局、日本からの伝手で連絡をとったマルタの会社がピアノの輸送を引き受けると表明してくれたのが7月26日だった。自らCITESの申請期限と設定していた日だ。翌週7月31日に見積書が出てくる。しかし、その会社(C社と呼ぶ)はCITESの手続きは業務に含まれていないから送り主が自分で申請してくれと宣った。それを聞いて私は、ここまで辛抱強く待ったけれども、すべてが「終わった」と感じた。そこでピアノは日本に持ってこられないからフランス人に売ってやってくれとMに伝えた。8月1日のことである。

8月2日にCITESの申請をしたならば、認可が下りる(かもしれない)4週間後は8月30日だ。それから梱包と輸送を調整して、9月2日にほかの荷物と一緒にピアノが運べたら、それは奇跡である。マルタの人たちの働きぶりをみれば、しかも真夏であることも考慮すると、その可能性は限りなくゼロに近い。ものごとは私が願ったように素早く動かなかった。仕方がない。これも運命だとあきらめることにした。Pleyelのピアノは私の視界からいったん消えた。

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