哲学カフェ「竜宮城」に参加してくださった皆様へ

10日(土曜日)午後の二時間、時間を都合してご来場くださり、ありがとうございました。初めての試みなのでどうなるやら、、と気を揉んでおりましたが、多くの方にご参加いただき、また活発にご議論いただき、うれしく思います。ご記入いただいたアンケートを拝見読しましたが、概ね好意的に受け止めて頂いたとわかり、安心致しました。

哲学カフェではそれぞれの人が何を受け取るのか、どう変わるのかが重要ということですので、ここで全体の議論をまとめたりはしませんが、首謀者ですので混乱した頭の整理も兼ねて自分自身がどう感じたかを述べます。

二時間いろいろご議論いただいて、自分が何にひっかかっていたのかがわかった気がします。最後の方で私が「弱みにつけ込むこと」に何度も言及したので失笑(顰蹙?)買いましたが、仕事とはいえ人の弱みにつけ込んでいる感じが罪悪感につながっていたと思います。いくつか挙げた例のひとつに介護がありますが、困っている人を助けてお金をもらうことに対して抵抗があったと気づきました。

「弱み」を穏当に言い換えれば「ニーズ」なのですが、「健常者 vs. 認知症の人」の場合など提供者と顧客の立場が対等でない場合、相手のニーズを満たすことはその人のプライド等を損なうことでもあります。介護の場合は相手のプライバシーを侵害するわけです。それでも介護が成り立つのは失うものと得られるものを比べたとき、得られるものの方が多いからでしょう。しかし、引き算するとプラスだからといって侵害したことが正当化されるものでもなかろうと思うのです。そこは本来、引いたり足したりできるものではないから。(失うものと得られるものはまったく違うものだから。)

実際に介護する人はまだいいと思うのですが、我々研究者は介護する人を支援するという名目で間接的に関わるので、表現は悪いですが、やはり「弱みにつけこんでいる」気がします。現場か研究か、どちらが大事なのかと問われれば(研究者は)論文書くことが第一なので、言葉は悪いけど「利用している」んですよね。私はできるだけそういうことにならないよう、出入りしている施設では時々歌の伴奏を務めたり、三味線弾いたりして受けた恩を返そうとしていますが、そういうことを差し引いても、結果として搾取している感は否めません。

今回の哲学カフェに参加したことで、サービスでお金をもらえる方法を見つけたかと問われれば、なかなか難しい。値段の付け方が重要ということはわかりました。航空業界でLCCがやっていることを教えてもらいましたが、その話に示唆を受けました。細かい値段設定と多くの選択肢があること。一方、提供する側からみれば安定供給や品質保証が難しくなるという点。そうなるとそれはメニューに含めないで、提供できるときに時価で売るほかない。「時価」のなかには無償も含まれる。たとえば受付カウンターでにっこり微笑むことなど。投げ銭を受ける大道芸人もそれに近い状況にある。

メニューにないものを売ったり買ったりするのは難しいとわかりました。同じく話し合いの中で、買い手が値段を決めてミュージシャンのアルバムを買う話を教えてもらいましたが(それから新人発掘を専門とする画廊とか)、そういうのはかなり創造的なことで、市場価値を創っていくことなのでしょう。こういう場合にお金を払うのは、応援する意味合いが強く、ニーズを満たしてもらった見返りに(お礼として)払う場合とはかなり異なる。介護と比べると立場が逆転して、お金を払う人の方が強い。払う人が価格決定権を持っているということですね。

関連する話題として、チップを期待されて何か(よいことを)してもらってもありがたくないという指摘がありました。それからチップをもらっているうちに当初価格がなかったものに価格がついてしまうこともあるという指摘も印象的でした。(発展途上国でときどき見られる)靴磨きの押し売りとか交差点の強制窓磨きも、最初は誰かが報酬を期待せず善意で始めたのかもしれません。しかしチップをもらっているうちにもらって当たり前と思うようになり、それからは代金を最初から請求するようになったという説。

これには思い当たることがあります。かれこれ30年ほど前、バリ島に(一年おいて)二度行ったのですが、最初の訪問の際、村の広場で行われている影絵を見に行ったときは入場料は紹介者へのお礼みたいなものでした。紹介者に心付けを渡しておくと、開演時間(?)が来たときにホテルに訪ねてきて会場まで連れて行ってくれました。それが二年後には入り口で入場料を徴収するようになっていました。しかも出演者が演奏終了時にカーテンコールまでするようになっていて。(お辞儀までした。)前はそんなことをする人はいなくて、演目が終わったら静かに三々五々散って帰る感じだったのですが。

価格決定のメカニズムは経済学の領分なので深入りしません。自分としては単に「お金のもらえるサービス」を問題にしたかったのではなくて、「喜んでお金を払ってもらえるサービス」が気になっていたようです。弱みにつけ込んでお金をもらっても(罪悪感なしに)受け取れる気がしませんから。「ありがとう」と言ってもらえて、その上お金も頂ける。自分もうれしい。そういう風にするには(なるには)どうしたらよいのかが知りたかったのだと思います。

今回の話を通してお金が欲しそうな態度で「善いこと」をしても駄目だということはわかりました。金銭を超えた価値があって、その部分に価格をつけられない。だから払わないこともあるし、逆にとんでもない額でも喜んで払うことがある。(払うというよりは、差し上げる。)そういうことがあることもわかりました。うまく価格を付けられないから、(提供者と受け手の)関係性で値段が変わったり、受け手の感受性で変わったりする。そういうことが何度も、人を変え、場所を変え、続くうちに価格が形成されていくということなのでしょう。

巷でいう win-win の関係というのはそういうことだろうと思うのですが、自分にとってはその意味づけが濃くなった気がします。単に用語としてのみ知っていたことが、血肉をもって存在するようになりました。先日の哲学カフェに参加して私が得たものはそういう変化でしょう。ひらたく言えば理解が深まった。まぁそれだけだと、あまり有り難みがないですが、その場にいて体験を共有した人にしかわからないことはあるでしょう。

さて、次回は何を話題にするかですが。。立場を変えて、払う側の視点で「喜んでお金を払いたいサービス」を考えることも続編としてはよいかと思うのですが、会場で参加者に尋ねた限りでは日本に住んでいてチップを払ったことがないという方が大半なので、これを考えるのは無理かもしれません。金銭のやりとりを越えた、その先にあるものを考えるところが哲学的であり、哲学カフェに相応しいテーマであると思うのですが。。

次回は3月14日を予定しております。開催場所、時間等は今回と同様の予定です。今後ともご支援のほど、よろしくお願いいたします。

哲学カフェの様子

哲学カフェの様子

ひとこま

ひとこま

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