Nです。

> 先週、ようやく『科学の終焉』を読み終えたので
> 宿題となっていた、その感想などを。

ありがとう。
じっくりと読ませてもらったよ。

実際、その本を読んで見たいな。

> 大きな科学的発見はもうなく、現在のそしてこれからの研究は
> 細かいところを詰める、パラダイムを補強するようなものだけだ。

この様な主張は、歴史的にいつでもされているものですよね。
文学批判でも、音楽評論でも同様の話題で議論され続けてるし。

でも、次の

> 著者は、物理学、宇宙論、進化生物学、複雑系、科学哲学

は、本当かな?と思ってしまいます。
後のハッシーの

> 津田、池上、郡司といった人たちの複雑系、

については、僕も状況を認識しているつもりだし
その通りだと思うけど、

> 「客観的な真実が存在し、科学を続けていくと、
> 漸進的にそこへ到達する(あるいは、すべき)」というわけだ。

という科学認識においても、宇宙論とか経済学とかを考えると
まだまだ沢山の知見が堀おこされてない様な感じがします。

実際、経済学のゲーム理論の隆盛は80年代に起きた事ですし
それも静学的(ナッシュ均衡の研究)分析が主流ですから、
ここから、動学的分析を進める事で
「客観的真理」を求めるという方向性で研究を続けても
人間社会への新たな知見
(狭い形でパラダイムの変化と言っても言いような進展)
が、期待されているのではないでしょうか?

これは、僕が経済学上で何を主張して行くのか?
を考える際に思う感想です。

(もっと、みんなが徹底的に絶望している=わくわくしていない
なら、やりやすいだろうなとおもうってしまうのです。)

> たしかに今世紀前半の物理学は、すごい精度で
> 実験に合う理論を作り上げ、予測し、
> またそれが工学的応用をももたらすという「成功」を納めた。
> しかし、それは非常に狭い科学観ではないだろうか。

そういう成功を社会科学では「まだ」納めていないと言う
印象をみんながもっているのではないでしょうか?

(そういう形で成功を納める事は出来ないと考えるのではなく、
「まだ」できていないと考えている事が「恐い」のですよ。)

> また、一部非常に極端というか誤った議論を展開している
> 部分もある。研究者の話のちょっとした部分の拡大解釈
> といった、ジャーナリズム、マスコミがよく批判される
> ような点も見受けられる。ま、それはそれでいいのだが。

これは、ちょっと気になります。

僕達が読んでも面白いレベルでの議論がなされているのでしょうか?
(つまり、おすすめですか?)

昔、ワインバーグの「究極理論の夢」という本を読んだ事があります。
彼は、徹底した素朴実在論&要素還元主義者ですが
さすがに、一流の科学者だけの事がありものすごく面白かったのです。
別に、自分と同じ問題意識を持っていなくても、
単純な思い違いや知識不足によって議論が展開されていないならば
読むべき価値はあるでしょう。

(批判的に読める本も貴重ですよね。)

> しかし、客観的な真実なんてあるのか?
> 科学的活動とはそんな真実を発見するものではなく、
> 世界の、ものの、ことの見方を作ってきたのではないか。
> それは、実は主観的で、客観的と思えるところまで
> 受け入れられた部分も、実は
> 社会的政治的に成立しているということさえある。

その辺は、humanMLやevolveで議論されてますよね。

> 冒頭には、ある会議のテーマが書かれている。
> 「統一的、普遍的、客観的な努力としての科学は終わった」
>
> そうであろう。しかしそれは科学が終わったのではなく、
> そういった科学観が再考を迫られているのである。

会議のテーマを、そのまま読めばハッシーの言う通りです。
ちゃんと、「としての」と書いてますし。
(実際、僕も科学が終ったとは思えません。)

それを、「科学は終った」という風に解釈する事は
僕も、飛躍だと思います。
(会議の内容から、作者が「科学は終った」という
所だけどとりだしても違和感がないと判断したとしても
おかしくはないですけどね。)

> だからこその、複雑系でしょう。
> 津田、池上、郡司といった人たちの複雑系、
> 認識の根本を問い、それを数理科学として実践する
> ということをきちんと考えないといけないのですよ。

わざわざ書く必要もないけど、その通りだと思う。

> 実は、最後の章は、著者自身が彼の科学観の揺らぐような...

僕達も、そういう自由さを持って置かないとね。

(さしあたって、素朴実在論&要素還元主義の立場から
自分を再批判できるような心を持って置きたいと言う感じかな?)

> ○ファイヤーアーベント (科学哲学)
> コイサンマンが幸せだが無知だということにたいして、
> 「知識のどこがいったいそんなにえらいんだい?」

僕もいつもそう思ってる。
もちろん、科学という狭い世界は
知識&アイデアによって評価される訳だけど
基本的には「馬鹿な考え休むに似たり」だと思ってるよ。

ただ、そういう文明のおかげで馬鹿な事をしているだけで
一生を送れるような余裕が社会にはある訳で、
そういう事には感謝をしないといけないと思ってる。

> ○ギアーツ (文化人類学)
> 著書"After the Fact"の意味について
> 「経験的実在論に対するポスト実証主義的な批判。
> すなわち、単純な真実と知識の一致理論からの脱却が、
> まさに<事実>という意味を微妙なものにしている。
> 無限の探究のすえ、多種多様な人々に囲まれて、
> 多様な時代を経た後に、いったい正確には何を
> 追い求めていたのかさえ判然とせず、確信もなく、終わりもない。
> しかし、時に興味深く、時に幻滅し、有益で、
> しかも楽しい人生を過ごすのは、素晴らしいことだと思う。」

これは、科学のあり方というよりは、
人生のあり方を言っているね。
含蓄の深い言葉です。

> ○チャイティン (計算論)
> ステントの科学の終焉の論旨を聞いて
> 「そいつも肝臓を患ってたんじゃないの」

僕も肝臓を患ってる(笑)
↑この前健康診断をしたら、肝臓機能障害って言われたんだ。

> そして、もっとも素晴らしいのは、レスラーである
> ランダウアが、人間がもっと多くの知識をえるために
> 自分たちの頭脳を変えることができると思うか、
> と尋ねたのに対して、
> 「それは、正気を失うことです」
> > やっぱりレスラー、悟ってる!
> いや、やっぱり狂ってるのかなー?

悟ってるんじゃない?

一回やって見たいけどね〜。
(正気を失って見たい!
どんなお薬よりも凄い世界が見えたりして?)


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