Title: motion capture のスリル
key words: motion capture, 研究現場の日常
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つくばの研究所で身に付けた技術は、モーションキャプチャーである。
モーションキャプチャーは、3次元座標計測を多くのポイントで同時に、一定の時間間隔で継続的に行うものである。だから、生データは点の軌跡にすぎない。それに、人の形を与えるためには、それらの点と体の部分を対応づける、ボディモデルを作らなくてはならない。 ボディモデルを作るためには、人間の体の構造を知らなくてはならない。人間の体の構造を知るためには、解剖学を知らなくてはならない。さらにそれだけでなくて、解剖学的に求められた点を、実際に被験者の体に見つけ出す方法を確立しなくてはならない。 というわけで、まずやったことは、解剖学の勉強であった。筑波大学の医学部の生協に行って、解剖学関係と整体の本を買い込んできたわけである。骨の名前をラテン語で覚え、前方後方側面近位遠位といった形容詞やらを覚え、大体の骨格構造を頭に入れた後は、マーカーの装着位置の検討である。 例えば、首の関節は2つに近似した。近位(体の中心に近い方)は第7頸椎で、遠位(体の中心から遠い方)は、顎があるために見えなくなっている。そういう場合は、その関節中心に最も近くて、見つけやすい点を見つける必要がある。たいがいは骨に関係する場所である。そういった場所も探して、覚える。定義したら、整体の本を参考にしてその点を被験者によらず決められるように方法を定義して、はじめてマーカーがつけられるのである。 最も苦労したのは胴体であった。胸と腹の境はどうやって決めるかというと、肋骨が有るかないかだけではうまく決まらず、結局背骨の突起をいちいち数えて、下から7番目と8番目の境である、とした。これが、とくに肉付きなどの体型によらずに見つけることが可能であれば、完成である。 では、どうやってそれが可能であることを検証するか。 痩せた人で可能であることは、ほぼ自明である。 太った人で可能であるかは、やってみないとわからない。 そのような体型の典型例は、という目で周囲を見回すと、おあつらえ向きの人を発見した。 で、下請けエンジニアの何でも屋である某氏を実験室に連れ込んで、シャツを脱いでもらって検証開始である。背骨の突起に注目すると、「背脂」は背骨の直上にはあまりないということに気づく。だから、視認は可能であり、Tシャツの上からかるく圧せば、突起に触れることが可能であることがわかった。 というようなことを、男同士で腰椎の部分に後ろからかがみ込んで撫でさすったりしているわけで、、しかもくすぐったいらしくて某氏は嬌声をあげたりするわけで、、 こういうときに限って、ボスがふらりと入ってきて、見つかるんである。モーションキャプチャーはスリリングだ。Title: ロボットの固さ
key words: robot, 研究現場の日常
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ロボットは固い、というイメージがあることは否定できない。なんか「ガシャンガシャン」と動くものがロボットである、という印象がある。産業用ロボットは、ずっと精密なのでそんな音はしないのだけども。
つくばの国立研究所にいたとき、自動車会社が開発したヒューマノイドロボットが別のグループに納入されていた。やはり固い。ちなみに、こういうロボットには運転中は絶対に人を近づけてはならない、という安全基準があるので、ある年の紅白歌合戦に、同じ会社のロボットが子供と同じステージに上がったときには、ひやりとしたものである。事故がなくてよかった。 また、この研究所が民間企業と共同で開発したロボットは人と共同作業が出来ることをデモンストレーションした。近づいてはいけないのに、どうして共同作業できるかというと、楯を使って安全を確保したのである。つまり、壁のパネルを、両側で持って運ぶのだが、腕や脚のリーチよりもパネルの長さがあれば、相手から身を守ることが出来るわけである。 さて、自分の所属しているグループでも、ヒューマノイドロボットが開発中であった。それは柔軟な運動を実現しようとしているため、関節のバックドライバビリティーが高く、電源がオフのときも結構簡単に関節を動かせてしまう(なお、研究用のロボットはデモのとき以外はほとんどオフであるといっても過言ではない)。とくに、腰がボールジョイントになっており、これが曲者であった。 あるとき、ハードウェア担当者が、ロボットを吊るハーネスの位置を変えようと思いついた。「ちょっとここ持って支えてて」といわれて、肩の部分を持った。しかし、形状が入り組んでるのと、表面を這っている配線があるので、指先でしか保持できない。ともあれ、剛体であれば、バランスを保持できさえすればいいわけである。 リフトを下ろし、床の上に敷いた柔らかいマットの上に着地。自立させたところで、ハーネスを外した。トルクが関節にかかり、直立姿勢にした膝はロックし、股関節は多少のギアの抵抗がある。 しかし、腰は、ボールジョイントである。 ロボットはおもむろに、腰のところで実にスムースに折れ曲がり、バランスを崩し始めた。前方に倒れかかる肩を押しとどめるだけでなく、腰が引けるから、肩をつり上げるか腰を戻す必要がある。しかし、2人の指先で両肩を支えていただけであるし、そのうち一人はハーネスの交換に入っていたので、悲鳴を上げたのは私であった。酔っぱらった人間を指先で支えるに等しいタスクであったわけである。なお、ヒューマノイドロボットの質量と身長は、人間とほぼ同じくらいであった。 幸いにも、実験室にはもう一人いたので、大声で助けを求め、なんとか支えきった。しばらくの間ボスには秘密にしていたのはいうまでもない。ボールジョイントが、バックドライバビリティーが非常に大きいと知ったのは、そのあとのことであった。 なお、制御でいわれる、外界の変化に追随するコンプライアンスという概念とバックドライブは別物である。前者の場合は、アクティブに制御をかけて追随を実行するわけで、電源を切ってしまえば固くても構わないわけである。持ち運びするには、固い方が便利であるし。 なお、よくロボットを吊ってある移動式の小型クレーンみたいなものは、ハーネスと呼ばれ、介護現場で使われているものを流用している。まだ、ロボットが介護されているのが現状なのである。Title: バカの壁を超えるもの
key words: 創造という行為について
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自分のいっていること、やっていることが相手に伝わらないということはよくあることだ。人には様々な立場がある。そしてその立場というものには、明示的非明示的な価値基準が絡んでくる。
人は往々にして価値基準を疑うことを忘れる。自分のことを考えてみてもそうだ。だから、人はものを知れば知るほど、自ら盲点を増やしていることになる。 あなたがどれだけ確信していても、新しいことはなかなか人に受け入れられない。とくに、「それは新しくない」といって頭ごなしに否定する人ほど本当の新しさがわからない。「新しさ」というものは、他のあらゆる判断基準をすり抜けた、最後に出てくるはずのものである。 バカの壁と呼びたくば呼べ。この壁を突破するのは並大抵のことではない。 いや、だからといって、あきらめてはならない。迎合とは、あなたの視野に自ら盲点を墨で塗って作ることに他ならない。そういう塗り絵は、たいがい線をはみ出すし、ほかの人にも塗ってあげたくなるものであるから。ホワイトなど何処にも売ってない。 唯一の方法はこれだ。価値判断を超越した驚異を与えるのだ。 バカの壁を超えられるのは超音速馬鹿だけである。衝撃波で芯から揺さぶってやるのだ。 いや、単なる馬鹿ではない。利口でも馬鹿でもない、超越した存在だ。賞賛すべき存在だ。 風力で動くオブジェに何の意味があろうか。(http://www.strandbeest.com/) 人力あるいはソフトウェアでも出来ることをわざわざメカを使って製作することに何の意味があろうか。 (http://www.maywadenki.com/top.html) 記憶を全てデジタル化することに何の意味があろうか。(http://homepage3.nifty.com/misaki_kaoru/) ラットの神経でアームを駆動して描かれた絵がどうしたとか問うな。(http://www.fishandchips.uwa.edu.au/) そして、バネとリンクで構成された創造物でとめどなく笑え!(http://www.sodaplay.com/) (なお、くれぐれも、上記リンク先を筆者は賞賛しているということを明記しておく。) 繰り返す。 バカの壁を超えられるのは超音速馬鹿だけである。衝撃波で芯から揺さぶってやるのだ。 なお、あなたが思いついたアイデアを実行に移してあなたがいかなる人的物的損害を受けようとも(あるいはもたらそうとも)、当方は一切関知しないので覚悟を決めてから行うように。Title: どうでもいいことを変えること
key words: 創造という行為について
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どうでもいいこと、今までもうまく行っていることを変えること。これには心理的に拒否反応が起きることが多い。 例えば、ゴミを細かく分別しなくてはいけなくなったこと。引っ越しして区分が細かくなった(私の居住地では、粗大ゴミを除き6分類)とき、なんて面倒くさいんだと嫌な気分になったものである。2週間もすると慣れて苦にならないのであるが(瓶の回収が月1回しかないのは困る)。
また、暗証番号やパスワードを変えることも同様である。忘れてトラブルになったときのペナルティーが、実際やってみるとたいしたことではないのに拘らず、非常に大きいようである。もちろん、うまく動いているシステムにいたずらに手を加えることは慎むべき、というシステム運用の鉄則もあるので、保守的であるのは決して悪いことではない。 どんなにバラ色に見える技術であっても、不連続を使用者に強いるのは、それがどんなに些細なものであっても大きな障害である。飲料缶のプルタブがステイオンになると知ったとき、抵抗を感じて さて、このようなことを考えたきっかけは、本学で4月から駐車場に固有番号制が敷かれたことである。場所は抽選で決まり、その場所以外に駐車したらペナルティーが課されることになった。いままで勝手な場所に止めることが出来たのに、それでたいした問題も起きてなかったのに、何故こんなことになるのかと、多少なりとも嫌な気分になったことは否定しない。しかしそれも、最初の数日だけであった。構内の無法な駐車は激減し、常に満車であった来客用駐車スペースも空いた。それでも見慣れた車が止まっているのは、もちろん長期間出入りしている業者に他ならない(筈である)。 なお蛇足であるが、この件に関しては、構内駐車問題以外にも理由がもう一つ判明した。「例年に比べて、駐車場使用申請者が激増しており・・・・」というアナウンスがあり、これは自主的に来客と化していた関係者がかなり多かったことを示唆していると考えられる。Title: 抽象化の罠
key words: 創造という行為について
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抽象化せずに物事を理解することは難しい。必ずしも表象を持つことは可能でないにしても、何らかの抽象化(と呼ぶべき)プロセスは存在すると考える。ものに名前がつけられるのも同様な理由であると思うし、ものづくりにはコンセプトが必要となる。
研究にもコンセプトは必要である。もちろんコンセプト優位であっては自然科学の研究たり得ないのであるが、言葉を抜きにして考えることは難しい。数式による表現は、むしろ言葉を尽くした果ての果実であると考える(注)。 ここでいうところのコンセプトとは、単に方向性を決めるだけではなく、この言葉があることでプロジェクトの様々なパラメータを煮詰めることが出来る指針となる言葉のことである。論文を書くときには大概切り落とされる部分でもある。 例えば、 「複雑なものを複雑なまま理解する」 「一本のカオス軌道を追って紐解くように理解したい」 なんてことが、10年ほど前の研究会「複雑系」で口に出されていたのであった。 コンセプトを口に出すことは重要である。それにより研究や思考の軸が決まるからである。しかし、それだけは充分ではない。コンセプトをもとに発展ができないと、それは軸ではなく足枷となるからである。 思考というのは濁った液体のようなもので、上澄み(つまり抽象化に成功した)の部分しか言語化して伝えることは出来ない。濁ったままの状態で発表などすると、わかりづらいものになってしまい、たいがいフィードバックがない。じっくり考えて、澄んでくるまで待つ作業は、時間が読めないために結構しんどいものである。これは、往々にして年単位の問題である。少しでも油断すると、世界は矛盾に満ちたものにしか見えなくなる。 さらにもっと難しいのは、澄みすぎてもいけないということである。つまり、一言で表してしまえるほど抽象度が高いと、往々にして汎用性が高くなり過ぎ、元の現象を忘れてしまうことにつながる。例えば、「あの人は何でも・・・で片付けてしまう」となったら、その危険がある。これは罠である。 だから、バランスよく発展を進めるためには、適度な時点でいちど混ぜっ返すか、沈殿物を捨て新たな材料を追加して「植え次ぐ」ことが必要となる。なかなか上手くいかないので、例えば議論を適当な間隔で続けることが結構役に立つようである。 いや、話が抽象的になってしまった。さて、コンセプトから結果まで筋が通っているということは、それぞれの部分にコンセプトからくる必然性が見られるということである。 「複雑系」での話に戻すと、前者では「複雑」という言葉を2度使ってしまったのが問題であったわけである。これにより、「複雑」の意味を2つが干渉し合ってオープンにしてしまっている。後者では、動詞=「理解する」に対応する目的=(何を)が欠けている。コンセプトの意味をオープンにしてはいけない。一見抽象化されたように思えるものが、実はそうでないということも、罠である。これは混ぜっ返す方にしか役立たない。(注2) 科学の進歩は、往々にして表現形式の進化によって達成される。教科書ではその形式自体の解説と、つまりは上澄みの最も透明な部分しか記述していないために、その形式の成立に至ったコンセプトというものは、語り継ぐ人がいなくなったと同時に消滅する運命にある。ただし、そちらの方は単なる間違いであるということも多いという罠もある。抽象化されたものは、独自の発展を遂げるということも往々にしてあるのである。しかし、それを信じすぎると、世界は整然としたものとしか考えられなくなる。 ともかく、抽象化という作業はスリリングである。これを楽しむのは、研究の楽しみの一つでもある。とくに科学の場合は、将来的にせよ検証可能であるという点がである。 (注)言葉にせよ数式にせよ、しばらく経つとその解釈を巡って議論や対立が起きるのは同じである。 (注2)最近は自分では力学系の制御のための「ツボ」を探すこととして定義しようとしている。もとのテーマの部分集合に思えて萎えることもあるが、これも罠にはまっている証拠である。Title: 世渡りが全てコネならば
key words: 組織論
date: 2006.4
Scale-free network という話は思い出したようにはやるものらしい。
オランダにいたときの話であるが、同じ研究室のポルトガル人が、「この日本人を知らないか?」と、ある論文を示してきた。共著者には、出身の研究室の助手の元指導教官があったので、電子メールで問い合わせると、すぐに「知っている」との答えが返ってきた。そのポルトガル人とは研究分野が違ったので、まさかこんなに簡単に答えが出るとは思わなかったのだった。 共通の友人にぶちあたる確率は、同じ業界ではあるものの、そうでないときには驚きである。ただ、業界別に人付き合いを替えたいと思うときには、ちょっと気まずいのではある。いや、もちろん人付き合いを変えるために分野を移っている訳ではない。 さて、しばらくして本学に着任し、grid computingのプロジェクトに参加しているとき、 google search で偶然引っ掛けたのがNという男である。たまたま、日本で開催された国際会議のあと私の研究室を訪れて、そのとき大学近辺のお好み焼き屋でごちそうしたことののある、という程度の関係である。彼は、MITで学位を取ったばかりだった筈だ。彼の名前でgoogle searchをかけると、何と彼はその後 google の社員となり、いくつかAPIを作っていた。しまった、お好み焼きよりももっと高いメシをおごっておくんだった。 教訓:おごるメシはケチるな とはいえ。もし世界中の人が短いリンク数でつながっているとして、世渡りで「コネ」が重要なのは何故だろうか。リンク3で大抵の人はつながっていて、ちょっと動けば狭い業界などすぐに全員知り合いになっていそうなものだが、 a)こいつだけは君に絶対に紹介してはいけない b)こいつを君に紹介するのはもったいない c)こいつは知っているけど君には誰であっても紹介しない とかいう理由で、知っているのと情報が流れるのは別物なのかもしれない。有向グラフで解析すれば、おおいに実りある結果が生まれるだろう。日本人は派閥が大好きなので、派閥力学の解析も進むはずだ。ただし、グラフの向きを当人に直接聞いて調べるのは最大の注意を払うように。もちろんこの作業の結果あなたがいかなる不利益を被ろうとも当方はいっさい関知しない。Title: Bioinformaticsの起源
key words: bioinformatics
date: 2006.5.22
Bioinformatics という言葉を初めて目にしたのは、93年に国際会議で Paulien Hogeweg の講演を聞いたときである。当時、これは彼女の研究グループの名前でしかなかった。このグループは、配列解析だけでなく人工生命・理論生物的な領域を含んでいた。生物に現れる情報的な現象を扱うというものであった。ちなみに、彼女はオランダ人なので Hogeweg という名前は日本人にはほぼ発音不能で、強いていえば"ホーホウェーフ"という音になる。
当時は修士課程の学生で、生物の授業に顔を出したりしていたのであるが、そのときは生物学の研究者もヒトゲノム計画には懐疑的な印象を持っていたように思う。それが、気がつくと配列解析の意味だけで bioinformatics という言葉が使われ、気がつくと完全に流れはそちらの方に向かってしまっていた。 彼女自身は、配列解析は static bioinformatics、理論生物は dynamic bioinformatics と呼んでいる。前者はいいとして、後者は、多岐にわたる。80年代のモデルでも、エージェントモデルがあったりするので油断出来ない。これは、Xerox の Interlisp-D を使ったもので、エージェントの動きがグラフィックで表示されるというものであった。何故lispなのかというと、MITのAIラボに滞在したことがあり、人工知能の研究に触発されたのだという。さらに今となっては実感するのが難しいが、グラフィックの使えるワークステーションは、非常に高価だったのである。 というわけで、bioinformaticsの起源は、多様な研究の集合体であった。進化の過程において、枝の太さは一定でなく、行き止まりも多いが、今のところ幹になっているのは配列解析である。しかし、今後はどのように進むかはわからない。「情報」が遺伝子のような1次元のものから、複数の要素の組み合わせが本質的な場合や時間依存性が強い場合、どう表現されるかは自明ではない。 なお、OED(Oxford English Dictionary)の最新版には、Hogewegらの造語が語源であると記されているとのことである。Title: Google以前の情報
key words: 情報爆発
date: 2006.5.22
己の不明を恥じたことは山のようにあるのだが、blogの興隆はまさしくその一つである。
<<1997年に友人に書いたメールの一部>> インターネットを通じて誰もが情報を発信できるようになったら、みんなが日記を公開しはじめたっていうのが、世紀末日本の電脳網文化的特徴になるとおもうけども、trainspotter watching と同じのりで 日記読書日記なんて作る人がいれば、日本人も少し大人になったかなという気がするのだけども、知らない? <<引用終わり>> 断っておくが、この時点ではかなりの人がHTML手書きで「日記」を公開しており、 MovableType などのツールもなく、それどころか Google ですらサービスを開始していなかった。 そのあたりは、個人が発信する情報よりも、HDDメーカーのドキュメントをダウンロードして規格やサイズを確認出来て便利になった、なんて時代であった。 なお、2001年秋に MovableType 1.0 リリース、ということは、blog文化はネットバブルの後なのである。ブームの後が本当の勝負だ、というのはだいたい正しいがここでは深入りしない。 Googleを代表する全文検索エンジンのおかげで、昔の「日記」の時代の情報にもアクセスができるようになった。中には自分の大昔の文章がヒットして読み返して赤面した人も多いだろう。しかし、忘れてはならないのは、「日記」以前の情報は急速に忘れ去られてゆくということである。 つい最近、ひっかっかってた刺がやっととれたかのように、ふとした偶然から発見した情報がある。それは Robert Miles というミュージシャンの曲 "Freedom" のミュージックビデオでであった。97年末にヨーロッパのMTVでは結構繰り返し流されていたものであるが、その後見かけなくなり、しかもリファレンスもうろ覚えだったので探すことが出来なかったのであった。 このビデオ、押井守の映像モチーフを相当深く取り込んでいるというもので、どれくらい深いかというと、その後マトリクスでも引用された「攻殻機動隊」のみならず、マイナーな「天使のたまご」や、さらに彼がインタビューで繰り返し触れていた「タルコフスキーの引用」、押井が好んで使った「逆光で顔の見えない少年」まで取り込んである。当時、本人が撮ったのではないかと疑っていたくらいだ。 今なら blogger 好みの題材といえよう。しかし、時々思い出したように日英両方で検索したものの、一度もあたらなかったのである。それは何故か? R.Miles を調べてみると、大ヒットした前作のアルバムに収められた "Children" をうけて、この曲はアルバム "23AM" に収録された。が、プロモーション不調によりヒットせず。しばらく本人はその後自分でレーベルを立ち上げたため、しばらくメジャーシーンから遠ざかっていた。Alexander Hemming ビデオの監督。これ以降特に同様な作品を製作した形跡なし。 ということで、97年末でイベントとしては終了していたことになる。Googleで引っかかる情報の記憶は増強されるが、そうでない情報は急速に忘れ去られるようである。過去の情報を、いかにして自動ないし低コストでタグ付けして検索にかかるようにするか、が情報爆発時代への鍵となるであろう。もとになる情報が多い方が、整理が簡単になった時代、であると考えるからである。 同様に、論文も電子出版以前に話題にならなかった論文が、検索で本文にたどり着けないのはなんとかしてほしいものである。このまえ、どうしても発見出来ずに、10年以上前に紹介してくれた人に直接メールで紹介した論文は、90年の出版であった。本学開設以前の論文で、タイトルがうろ覚えで、話題にならなかったものは、もう探しようがないのである。要するに先史時代と変わらないということだ。Title: ゲームの先にあるもの
key words: human movement, interface
date: 2006.5.22
ゲーム業界が、そのハードウェアの販売量が増加しているにもかかわらず不調である。もちろん、ゲームコンソールのように、専用機ビジネスはプラットフォームの生き残りのために賭け金が年々つり上がってくる(注1)ため、その回収のためにメガヒットが要求され、思い切ったタイトルが作られにくいことも一因である。
しかし、主なターゲットである子供のゲーム購買量が減っている傾向にあるのだろうか?少なくともソフトウェアの総売上本数は伸びているもののハードウェアの売り上げの伸びほどではない。子供向けのゲームを中心に出していたN社は次世代機では過去のゲーム、それも80年代末-90年代初頭のゲームをエミュレーター上で提供するという。これは、少年漫画雑誌の読者層が上にシフトしていったのと同様(注2)の現象であると考える。 どうも、新たなヘビーユーザーが獲得出来ていないようである(ヘビーユーザーの中には、ネットワークゲームに流れてゆく向きもあるようだが、これに関してはここでは触れない)。そのため、N社もS社も新たな形態のゲームを模索している。両者が2006年のE3で発表した次世代機は、どちらもコントローラー自体を動かすゲームを想定し、それぞれ位置センサーをコントローラーに仕込んでいる。 多分コントローラーを傾けるくらいの使い方では、新しいゲームは出てこない。振り回すなどして激しく使って、初めて大ヒットタイトルが生まれるのではないかと思う。もしそうなった場合、問題が生じる。今の日本の家庭での使用状況としては、TV画面の前に座り込んで操作するというのが一般的であろう。しかし、その状況でコントローラーを振り回すことが可能だろうか?腕の力は決して強くない。楽に、あるいは素早く振ろうと思ったら、全身の力をうまく使う方がいい。つまり、立ち上がってゲームすることになる筈だ。 立ち上がって体をうまく動かすことが楽しいと思ったら、ゲームよりもスポーツの方が面白いことに気づくのは時間の問題である。ただ、遊び場の確保や安全性といった問題があるが、実はゲーム業界にとってはチャンスである。それらの問題を解決するために、デバイスを使うのである。リアリティの拡張から始まり、ゲームの審判役や居場所の通知、「ご飯だから帰ってきなさい」コールまで、ネタはいくらでもある。ゲームセンターをスポーツセンターに改装することもできる。 大人向けのスポーツジムにしても同様である。同じ走るのでも、目の前の小さなディスプレイの風景が変わってゆくよりももっと面白い情報の与え方がある筈だし、ハンディキャップを動的に与えることで、自分の子供と同じスポーツで遊べることだってある。キラーアプリを作るのは、今である。 ゲームの先には、スポーツがある。一段と進んだ。 (注1)それが資本主義の本質である。国境を越えるとグローバリズムと呼ばれる。 (注2)昔は田宮のプラモデルの自動車の広告が載っていたものが,本物の自動車の広告が載っていたりする。Title: 誰も知らないかとるに足らない情報
key words: 情報爆発
date: 2007.6.13
多分これはとるに足らない情報である。なにしろ、この状況に出くわす人はほとんどいないであろうから。 普段使用している MacBookをリセットしたとき、Mail.app (Mac OSX 10.4 のデフォルトのメールアプリ) の 左側のペイン(正しい呼び方がわからないので、サイドバー、カラム、サブウィンドウ、サブビューとも書いておく)が消えて、メールボックス(メールのフォルダ)のリストが消えてしまった。これがないと、例えば下書きのメールにアクセスできないなど非常に不便なのである。
しばらく時間をかけて、様々な検索語でもって、その解決法を探したが、ついに発見することができなかった。 仕方なく、別のマシンの plist をもってきて、エディタ (PropertyListEditor) で開いて比較し、やっとのところ問題を解決することができた。 Root/ActiveViewers/0/MailboxesAreOpen というキーが "No" になっていたのであった。 (なお、開いている受信ウィンドウの数により、”0”のところには、別の整数が入る。) これをYesにすることで、見事にそのペインが表示された。 手順は以下の通り。 0. あくまでも自分の責任において実行すること 1. Mail.app を終了する 2. ~/Library/Preferences/com.apple.mail.plist をバックアップコピーを取ってから開く(デフォルトの PropertyListEditorが、ダブルクリックで立ち上がるはず) 3. Root を展開 (右向き三角形をクリックする) 4. "ActiveViewers" を探して展開 5. アクティブになっているウィンドウが数字で表されているので、まず "0"を展開 6. MailboxesAreOpen を探して値が "No" になっていることを確認し、"Yes"に変更する。 6.1 もとから"Yes"だった場合は原因が異なるので、残念ながらこの方法では解決できない。 7. 0以外にもウィンドウがある場合、同様に MailboxesAreOpen を変更 8.ファイルを保存して、 Mail.app を起動する。 英語でも書いておいてみよう。 Recently, I got presumably rare problem with my MacBook. This was not searchable in Google, so I note this information for those who encountered the same problem in the future, possibly nobody. The problem is, list of mailboxes on the left column of the Mail.app disappear (MacBook, Mac OSX 10.4). I donot know how it is called, so I call it sidebar, pain, vertical list of mail folders. If it disappear, lost, not found, or not shown, try following workaround. (redundant expression is due to SEO reason) Here is a suggested workaround. 0 Do following procedures at your own risk. 1 Quit Mail.app 2 Open ~/Library/Preferences/com.apple.mail.plist (taking a backup is highly recommended) using Propety List Editor (default application). 3 Extend "Root" by clicking a triangle. 4 Look for "ActiveViewers" and extend. 5 Look for "0" and extend. 6 Look for "MailboxesAreOpen" and set value to "Yes" 6.1 (if the value is already "Yes", sorry, I cannot help you). 7 If there are other windows (i.e., ActiveViewers/1,2,..... ), repeat procedure 6. 8 Save the file and launch Mail.app. 現在に至るも、Google検索を、情報の囲い込みの道具だと思っている向きもあるが、それは、検索語の働きを過小に評価している。人と同じ検索語しか思いつけない人は、人と同じ情報しか入手できない。というだけのことである。人の興味のランク分布もlongtailというのであれば、tailの方にある興味でも、情報はゼロではないのである。