意図と道徳との関係は心理学的事実?言語学的事実?認知科学の研究に実験哲学者が一石 知識マネジメント領域の水本准教授の論文が掲載される
知識マネジメント領域の水本正晴准教授の論文がPhilosophical Studiesに掲載されました。
Philosophical Studiesは世界的に権威のあるオランダの哲学雑誌で、数ある国際的な哲学雑誌の中でもトップ10に入る(2015年の哲学者による投票で第7位)雑誌です。
■掲載紙
Philosophical Studies
https://link.springer.com/article/10.1007/s11098-017-0926-1
■論文タイトル
「A Simple Linguistic Approach to the Knobe Effect, or the Knobe Effect without any Vignette」
■論文概要
認知科学においては、誰かが意図的に何かを行ったのかどうか、という判断(他者への意図の帰属)がその行為の帰結の道徳的善悪に強く影響を受ける、という「ノーブ効果(Knobe effect)」が知られてきました。これは哲学者のJ・ノーブ教授(イエール大学)が2003年に初めて報告した現象ですが、これまでこの効果はもっぱら心理学的な現象として研究されてきました。ところが今回、この効果に言語的側面も大きく寄与していることが本学の水本准教授の研究で明らかになりました。
ノーブ効果の最も有名な例は、以下のようなものです。
ある会社の副社長が会長のところへ行き、「我々は新たなプロジェクトをスタートしようとしています。それは収益を増加させますが、環境に害を与えることにもなります。」
会長は答えて言いました。「環境に害を与えることなど知ったことじゃない。私はただ出来るだけ多くの利益を上げたいだけだ。その新しいプロジェクトを始めようじゃないか。」
彼らは新しいプロジェクトを始めた。当然ながら、環境は害された。
会長は意図的に環境に害を与えましたか?
はい いいえ
調査では、大多数(約80%)の人が「はい」と答えます。ところが、上の文の「環境に害を与える」だけを例えば「環境を改善する」に変更し、実際に環境が改善されたとした場合、「会長は意図的に環境を改善したか」という問いに、大多数の人が今度は「いいえ」と答えます。どちらも営利目的の活動の副次的な帰結(side-effect)なのですが、その道徳的評価の違いによって、意図的にそれをなしたかどうかの判断が全く逆になるわけです。
この「ノーブ効果」は哲学で議論されるだけでなく、認知科学の分野で関連する研究が盛んに行われてきましたが、もっぱらこの現象は心理学的なものと前提され、その言語的側面についてはほとんど注目されていませんでした。ところが、ここで用いてきた「意図的に」とは英語のintentionallyの訳であり、日常言語では日本人なら「わざと」と言う方が自然です。では、このintentionally と「意図的に」と「わざと」は果たして全く同じ意味でしょうか。もし違いがあれば、それはどのようにノーブ効果に影響を与えているのでしょうか。
そこで、言語的な側面のみの影響を取り出すために、上のようなストーリーを一切排除し、「彼は意図的に環境を害した」などの文のみを被験者に提示した上で、三つの副詞それぞれについて、その使用が「正しく自然」か、「正しいけど不自然」か、「間違い」であるか、を(intentionally は英語話者、「意図的に」と「わざと」は日本語の話者に)判断してもらいました。
結果、道徳的に良い行為の文、悪い行為の文、中立的な文、の判断は(ストーリーなしでも)すでに大きく異なることが判明しました。また三つの副詞の間にも、判断の程度に大きな違いがあることが明らかになりました。
(日本語の「意図的」の例)
行為が善な文:「太郎は意図的に花子の命を救った」、「太郎は意図的に環境を改善した」
行為が悪な文:「太郎は意図的に財布を盗んだ」、「太郎は意図的に花子を殺した」、etc.
中立な文:「太郎は意図的に転んだ」、「彼は意図的に花瓶を割った」、etc.
結果:
<"Intentionally" の結果>
<「意図的に」の結果>
<「わざと」の結果>
特に、オリジナルのノーブ効果の文(「環境を害した」、「環境を改善した」)をそれぞれの副詞について比較すると、それぞれ道徳的善悪が大きな違いをもたらしていますが、「正しさ」の割合が"intentionally" から「意図的に」、そして「わざと」へと徐々に減少し、「不自然」と「間違い」の割合が逆に増えていくのが分かりました。
ここからは、ノーブ効果というものが、問われた出来事が副次的な帰結であるかどうかとは全く独立に、言語使用の判断にすでに表れるものであり、しかも言語にどの程度道徳的善悪の判断が符号化され埋め込まれているかの程度は、言語によって異なる、ということが分かります。
よって例えばノーブ効果が完全に言語的に符号化されている言語も考えられ、そのような言語があれば、その話者にとってはノーブ効果というものは言語の使用規則にすぎないことになります。したがって、本研究の結果は、今後のノーブ効果の研究が言語的な側面のデータなしには成立しないことを意味し、ノーブ効果研究の一つの転換点となると予想されます。また、この研究の延長として、意図を表す語以外の語へ、また英語と日本語以外の語へ、調査を拡張することで、将来思考と言語との関係の研究一般に対しても、分かりやすい一つの研究プログラムを提供することで貢献することが期待されます。
平成29年5月31日