連載 最先端の科学と人類の歴史を学び 社会の分断を防ぐには

第4話 今こそ報徳運動に学ぶべき
 日本を含むアジアを中心に中世の頃から, 生活が苦しい時に米などを持ち寄って融通することで自発的に助け合う 「講」 という仕組みがありました. もちろん, 借りたら返すのを原則として利子で儲ける訳ではないものの, タダ乗りを許すものではありません. 成果を独り占めにせずに地域で循環させるには, 信頼できる繋がり(すなわちネットワーク)があってこそ可能 と思われます. また第3話で紹介しましたが, 野生動物をはじめ人類も太古の昔から助け合って生きてきたのであり, そうした社会の仕組みが脈々と受け継がれ, 私たちの精神にも宿っていると考えられます.

「アジア以外では, 相互扶助組織は1930年代のジャマイカのように遠く離れた華僑コミュニティで確認することができるが, とりわけ目立っていたのはハワイやブラジルの日本人移民社会においてだった. (中略) 個人に利益をもたらす銀行とは異なり, 頼母子講は相互扶助(「共済」)という倫理的な思想によって, 地域社会のなかで資金を循環させた.(中略) ハワイの大農場や農業の町では, こうした相互扶助組織は病気などの緊急時の費用や, 結婚式や葬式, 進学のような節目の行事の費用をまかなう貴重な共済となっていた. また, 漁業やコーヒー生産事業を統合する支援もおこなった.(中略) 奴隷性が廃止された直後のブラジルに移民した日本人労働者は, その当時もなお過酷な環境で生活していたが, そこでも相互扶助組織を結成して農業界を一変させた. 」書籍[4-1]96頁引用.

「頼母子講と無尽講が具体的な枠組みとなり, それをつくり上げた一定の規則が経済的な実践に秩序をあたえた. 一定期間について, 数字によって詳細に定められたように行動すべしとする契約的な合意から, 私は民衆の知的生活に関する貴重なヒントを得た. これによって相互の信用と, 契約講におけるような「契約」の倫理, より広く, 現実生活のさまざまな状況においておたがいに助け合うという合意が存在したことが明らかになったのである. 私は地域社会, および「相互扶助」 という考えは単なる道徳的で抽象的なものではなく, 数字的な確実性をともなう具体的な考えであると確信するようになった. 」書籍[4-1]vi頁引用.

 戦乱の世が去り江戸幕府が出来て, 武士は城下街に集まり, 農村に共同体としての助け合いが根付いていったと考えられます. 他力本願ではなく, 自立して考え行動する村落共同体が, 助け合い社会の素地となっていきました.

「武士階級が村に存在しなくなったために, 村人は自分たちが自治的な存在になったと考えた. すなわち, 村内部の問題については武士階級の直接的な支配を受けないというだけでなく, 武士階級が村共同体の福利の決定に関与しないということでもあった. こうして, 条件さえ整えば, 村人は課税分を満たすレベル以上の取り組みを率先しておこなうことができた. (中略) 対応すべき緊急事態が火事や嵐, 飢饉, 伝染病であっても, 村を守るかどうかは村自身が決めることであった. 講が急増した主たる要因は, 災害は避けることができず必然であると村社会が認識したことにある.」 書籍[4-1]104頁引用.

 江戸末期, 多くの藩では財政危機に陥ってた中で, 噴火や天候異変等による大飢饉で多くの餓死者を出していました. そこで, 農民出身で小田原藩にも仕えた二宮尊徳は, 「報徳」 という考え方で, 灌漑事業や生産向上を実践して, また不慮の災害等に備えた計画的な備蓄も行い農村地域の復興や改革を行いました. それは, (識字率が高いゆえに可能な)記録や計算に基づいた「仕法」によるもので, 近代以前にそうした科学的に優れた方法や農業技術を実践普及させていたことも驚きではないでしょうか. 1969年にP.Druckerが著書 『断絶の時代』で指摘するまでは, 「真理の知」が重視されて「行為の知」 は軽視されていたことからも, 一般論でなく農業や農政を主としつつも 「報徳」は時代を大いに先取りした考え方だったと言えます.

「尊徳にとって, 言葉は現在の仕事を記録するためのものであり, 古代研究は的外れな術学趣味であった.(中略) かれは五年あるいは10年という労働のサイクルで時間を計っており, 熱心かつ勤勉に労働を継続すれば, 人間の生命や徳を失うことなく100年持続することができると考えていた. したがって尊徳にとって, 道徳は生命の源, 生まれながらに得た天の恵み, すなわち「天徳」として, 自然から切り離せないものだった. それはまた, 人間が農業によって守り, 養い, 維持しなくてはならないものでもあった. 「報徳」は勤労を道徳的に構築し, 自然による生命という恵みを維持した. 」書籍[4-1]156頁引用.

ここで, 「徳」とは, 物や人に備わる良さや持ち味(その労働行為または究極的には命)で, 「報」とは, それを社会に役立てることを意味します. その際, 「至誠」「勤労」「分度」「推譲」を改革の柱として, 人々の自立を奨励し, 相互扶助を求めていました. 自ら誠実で真面目に働き, 節度を持ち但し正当な分け前は受け取り, 分け前を超えたら家族や他に譲るということですね. また, 西洋の近代思想とは異なり, 個人の利益追求を優先して人間が自然を支配するのではなく, 一方で過去のデータに基づいて緻密かつ理知的に考え行動することで, 世を経め(治め)民を済う(救う)ものでした. 近世以降の西洋における, 略奪や独占による一部の豊かさとは随分違う考え方で, どちらを見習うべきかを地球環境破壊が続く今こそ知るべきではないでしょうか.

「「分」は, 天あるいは自然秩序が利用可能にしたものをあらわしている. 天はあたえ, 許すものの, 決定的に重要なのは, 制限することである. 天は原則にしたがって提供する. 尊徳はこれを, 自然の因果で避けることのできない道であるとくり返し表現した. これによって, 食糧やそのほか現実社会で人間が必要とするものが生産できるようになる. また, これは人間が戦略を立てる基礎ともなる. 「度」は, 配分を決め, 自然の限界を知り, 自然が提供するエネルギーを使って仕事をするという人間の側面をあらわしている. (中略) 生産から得た収入のうち, 四割はお上の命令によって年貢として藩主に収める. 残りの半分は家族の「必要」に当てられる(「分内」). これは「我」に対する天の恵みであり, 分内のうち, 半分は「内」に取っておく. つまり, 「我」の範囲, とくに家族のために別にしておくということだ(「自譲」). 残りの半分は, 譲る(「推譲」)か, 「他人」にあたえる(「他譲」). 」書籍[4-1]178-179頁引用.

「仕法の漢字は, 「一連の法を実行する」「手法を適用する」ことを意味している. この方法はとくに村や放棄地の再興を目的とするものだったが, 通常は農業に生産の実績を, すなわち徳をふたたびとり入れるために設計された. さらに, 仕法には時間の概念がふくまれていた. たとえば10年というように期限を切った長期間にわたって実行され, 期間の最後には見直しがなされることになっていた.(中略) 長期計画を実施することによって, 人道の「誠」が実現され, 記録されていった.(中略) 正確性を期すのは明らかに, 規律をうながすためではなく, みずからは譲り, 他者を救い, 四方の海(世界)のすべての村を 「一村」として救う道徳を広めるためであった. これは近代的な意味での経済ではなかった. そのような再定義を試みた人もいたが, 徳川時代には, 秩序だった方法で他者を救う(「経世済民」)という意味であり, これが経済をあらわす概念的な原点である.」書籍[4-1]176頁引用.

 その後, 「報徳」という考え方とその実践「仕法」は尊徳の弟子らに引き継がれ, 明治・大正・昭和の時代に報徳社という数十人から二百人程度が結社した組織となって広がりをみせます. 直弟子の富田高慶の 著書『報徳記』超訳 の巻末に, 渋沢栄一, 安田善次郎, 松下幸之助, 土光 敏夫, 稲盛和夫などの経営者の多くが 尊徳から学び, 明治時代以降に起業して成長させ, 雇用や生活向上に関して社会貢献を果たしたことも紹介されています. 日本のこうした歴史的事実をもっと誇りに思っても良いと思います.

「報徳運動とりわけ報徳社運動は, 後述するように, 遠州地方(静岡県西部地方)を中心に発展, 展開した. 遠州はまた, 自動車や楽器, 食品加工など製造業の大手企業の発祥地あるいは創業者の生誕地として知られている. 上記トヨタの豊田佐吉, スズキの鈴木道雄, 本田技研の本田宗一郎, ヤマハの山葉寅楠, カワイの河合小市, 氷砂糖の鈴木藤三郎等々である. 彼はいずれも大工, 自動車修理工, 時計職人, 菓子商など庶民であり, その技能と才覚, 工夫により起業し, 大企業へと発展させた. 」書籍[4-2]4頁引用.

 特に, 遠州地方の報徳運動は下からの結社式仕法で, 豪農指導型という特徴もありました. また, 明治後期の日露戦争後1906年における報徳社の分布は以下のようでした.

「本社を除くいわゆる町村報徳社の静岡県内の総数は四三〇社であった. (中略)静岡県といっても県西部にあたる遠州国(遠州) が八割を占め圧倒的に多かったことがわかる. しかも遠州のうちでも天竜川以東に位置する磐田・小笠・周智の三部(中・東遠地域) が多く, 全体の61.5%を占めていた.」書籍[4-2]48-50頁引用.

 では, 報徳社の助け合い事業は主にどのようなもので, どのように変わっていったのでしょうか.

「[貸付][風教][殖産興業][水利土木][教育][賑恤][難村救済][善行者表彰] [時局ニ対スル施設]と多様であった.(中略)ごく大雑把に見れば, 報徳社は, 難村救済→水利土木・殖産興業→ 公共団体としての機能と明治期を通じて事業内容の重点をシフトさせていったと見ることができる. 」書籍[4-2]72-74頁引用.

「報徳社は信用組合と違い, 金融を重視しないという立場を明らかにしている.(中略) 複雑な手続きを必要とする報徳金貸付は潤沢でなく, 遠州国報徳社はその近代化を模索したが, 結局は別組織である掛川信用組合や見附報徳社連合信用組合を組織し, 自らは貯蓄を重視していくようになる.」書籍[4-2]94頁引用.

 このように, 世のため人のために真面目に働き, 切磋琢磨して計画的な生産と備蓄を行い, 得られた富を独り占めせず融通する助け合いの社会が, 少なくとも日本には数十年くらい前までは存在して, 労働者の組合的側面も実態として存在していました(法整備は明治以降). 創意工夫と計画経済の側面では「仕法」から学び, 起業して発展させた優れた実業家も居ました. 但し, 時代の流れの中で, そうした志を受け継ぐ経営者が居なくなったようで, 創業の実績のみが認知されていったようです. また, 近代化に伴い「報徳」の金融的側面は信用組合に移り, 道徳教育活動等を通じた思想的側面は残ったものの, 社会経済への役割は薄れていったと考えられます. 一方で「講」は, 1915年の無尽業法により無尽会社として地域社会の信託に基づく営利目的の貸付業者と位置づけられ, 第二次世界大戦後に相互銀行へ業態転換しました.

 第5話では, 日本における協同組合が明治維新以降の近代化に翻弄された歴史を概説します.

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[4-1] テツオ・ナジタ (著), 五十嵐暁郎 (監修)
『相互扶助の経済【新装版】 --無尽講・報徳の民衆思想史-』
みすず書房 (2022/6/20), ISBN-13: ‎978-4622095347
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[4-2] 足立 洋一郎 (著)
『報徳運動と近代地域社会』
御茶の水書房 (2015/1/8), ISBN-13: ‎978-4275010933

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