第2回哲学カフェ「竜宮城」にご参加いただいた皆様へ

2015年3月15日、JAIST東京サテライトにて開催した哲学カフェにご参加くださった皆様、ありがとうございました。久しぶりに顔を見せてくれた卒業生らもいてうれしかったです。参加者が多様なところがこういう集まりのよいところかと思います。老若男女とまでは言いませんが、普段あまり話すことのない人たちと特定のテーマについて深く話せるのは哲学カフェの魅力ですね。

「気持ちよくお金が払える時」というのが今回提案したテーマでしたが、お金を払うことに納得できることが前提になっていると気づきました。その上で「気分がよい」かどうかが問題になるわけですが、結構ハードルの高い話題であったと思います。

敢えて難しいところから振り返りを始めますと、なぜ気分を問題にしたのかといえば、(今回気づいたことですが)「よい気分」が伴わなければ経済が成長しない、人々が幸せになれないという直感によります。これには幾分体験も含まれていて、ベルリンの壁崩壊以前の1988年に新婚旅行で東欧を旅したときのこと、道行く人々の表情が非常に暗かったことが印象に残っています。

車を借りてウィーンからブダペストまで行き、着いたのが夜だったこともあって、古い映画の世界に迷い込んだかのようなセピア色の光景にめまいを覚えましたが、それは序の口で次に訪れたブラチスラバ(現在のスロバキア)はさらに寂れており、町中で皆が美味しそうに食べているアイスクリーム(と思った代物)に惹かれて食べてみたら不味くて食べられなかったことが忘れられません。計画経済は合理性の賜と思いますが、合理性を追求していたら人間は幸せになれないと確信しました。

ということがあって、私としては「気分よく」というところに引っかかるわけです。

この気分の良さがどこから来るのかということについて、今日はいろいろ体験談も皆様から聞けて面白かったのですが、ひとつには丁寧な接客が絶大な影響を及ぼすと感じました。杉山さんがおっしゃっていたお弁当屋さんの話で、おつりとして紙幣を受け取っている間、小銭を出すのを待ってくれるという気遣いが印象的でしたが、そういうことができる人だから素材の選択から調理の仕方まで信頼できるのだろうと思います。そういうのが「もてなし」というのでしょうか。接遇の重要性を感じました。

二つ目の気分のよさはもう少し理性的で、好きなアーティストが次の作品を作れるように作品にはお金を払うとか、フェアトレードのように働く人が人間らしい生活を送れるよう、商品に正当な対価を払うことで満足感を得ることと理解しました。こういった配慮は経済全体をみた判断かと思います。キーワードとして「持続可能性」というものも出ましたが、お金を払わないと結局困るのは自分だという考え方のように思います。

ここまでは自分にとって利益があるかどうかが重要という話だと思うのですが、寄附については少し変わってくるように思います。交通事故で親御さんが亡くなった子ども達へ寄附するとか、恵まれない第三世界の子どもを経済的に支援するといった行為は、持続可能性という観点からは説明しずらく、公正とか正義といった、もう少し倫理的な動機が織り込まれているように思います。

困窮している子がチャンスをつかめるように助ける、少なくともほかの子ども達と同じ出発点に立てるようにしてあげる。これも民主主義を保つための行為といえなくもないですが、それが目的(動機)とは言いづらい感もあります。(公正が民主主義に先立つ、といったらよいでしょうか。公正さはむしろ共産主義や社会主義の方が厳密に追究したのかもしれません。)

あとひとつは責任を果たすということの説明が面白かったです。長男だから母親の葬式にお金を沢山出すとか、親戚の結婚式だからけちらずに大金を祝い金として渡すといったこと、それが満足感につながるという話でしたが、そこには社会的役割が大きく関与していると思います。人によっては(たとえば長男の妻にとっては)必ずしもうれしくないのでは、という指摘もありましたが、そこは価値観の違いでしょう。

カフェで出た話題はだいたいこういった点かと思います。途中、話しあっている内容に我々自身の社会的役割や年齢が影響しているのではないか、仮に我々が80歳とか90歳だったら議論の内容が大分変わるのではないかと私が発言しましたが、寺田さんに「ここは自分に依拠して話す場だから」と諭されましたので、その線を追うのは止めました。しかし、少し、以下ではその自分の考えを推し進めて脱線してみます。(カフェ外ですからお許しいただけるかと。。)

後付になりますが、いろいろ話を聞いていて、お金とのつきあい方に段階があるように感じました。それがある種、人間の倫理感の発達と響き合うところがあって、何か近いことを問題にしているように思うのです。人が成長するなかで(お金についても)いろいろな考え方をするようになるわけですが、それらがタマネギの皮みたいに核から表面まで並存しているように思いました。

子どもにお金の使い方を教える場合を考えてみましょう。お店に連れて行って、何か好きなお菓子を買わせるとします。子どもは自分が気に入ったものを選ぶでしょう。選んだらその場で食べて良いかというとそんなことはなくてレジに行って勘定を済ませなければなりません。物を買うとはどういうことかを教える必要があります。子どもはそこでお金という概念を学びます。対価の概念といってもよいでしょう。

もう少し成長すると、お金を払えば何を買っても良いという考えに疑問を抱くようになります。少し安いからといってどこで誰が作ったのかわからない野菜を買って良いのか。多少お金を余分に払ってでもよいから地元の人が作った野菜を買った方がよいのではないか。多少高くても東北の農産物を買って、彼の地の人々が自立できるように支援すべきではないのか、などなど。もう少し大域的にものをみて何を買うか判断するようになります。そこでは価格が自分に納得できるのかということだけでなく、物を買うことが経済・社会にどのような影響を及ぼすのかということも配慮しているといえます。

自分のことだけでなくほかの人のことも考えているという点で、ここには大きな倫理的跳躍があると感じます。社会的責任を果たすということもここに関係しているのでしょう。社会的地位を得て、収入も増えてきたら自分のことだけではなくて、弱い立場にあるほかの人たちのことも考えなければならない。そういう義務感が発生してきて、それがお金の使い方にも反映されると思われます。

この段階に至って初めて人がお金を手段としている(人がお金に使われていない)状態になっているように思われます。しかしそういう心境に至るにはある程度収入が必要とも思われ、ある年齢以上にならないとそういった選択ができないのも致し方ないことかもしれません。(稀に学生であっても懐が豊かという人もいるようですが。)

しかしその境地に至った人がお金に苦労していた頃の気持ちを忘れてしまったかというとそんなことはなくて、お得な物に敏感であったり、ちょっとしたサービスに感激したりといったことはあるので、社会全体をみながら合理的にお金を扱う感覚は目前のうれしさに被さる形で、並行して存続しているのでしょう。

社会的役割や責任感と関連する消費の満足感は、(社会的に)現役である世代特有のものというのが私が指摘したかったことでした。これを越えた心持ち(さらに高い心境)から来る寄附といった行為はもっと高次のものではなかろうか。お金の持つ魔力みたいなものを完全に上書きしている感があります。

社会的役割を果たすためにお金を使うという立場は、お金の力を信じているという意味でまだお金の魔力にとらわれている気がします。操作的な使い方といったらよいのか。まだ合理性の範囲に留まっているように思われます。自分への見返りを期待しないで寄附するというのはさらに高いレベルの行為でしょう。

というところまで書いていて、これってキェルコゲールのいうところの実存の三段階説だなと思い至りました。(彼の主張の詳細は割愛します。)私が途中、カフェ参加者がみな高齢者だったらどうなるかという仮定の話をし出したのは、人間の限界(いずれ死ぬということ)を悟ることが三段目への足がかりになると(何となく)感じていたからで、あの世にお金は持って行かれないから寄附して他の人に役立ててもらおうという心境かと推察した次第です。

私は何カ所かに寄附していますが、三段階目の心境から寄附している感はあまりなくて、まだ二段階目に留まっているようです。公正さのためというのが自分で納得している理由であって、純粋に人を助けたいという気持ちが主ではないように思います。自分の利益を考えず、純粋な気持ちで寄附できるようになるにはもう少し年齢を重ねなければならないというか、死に近づかなければならないのでしょう。

辻野さんが貨幣に関して合理的な説明を示して下さいましたが、それを受けて、寿命が尽きつつある高齢者が寄附しようという気持ちになるのは富の再分配という効果があって、本人の動機に関わらず、全体から見れば合理的な行為なのかもしれないと思いました。あくまでも想像ですが、余命一年とか二年と知って、資産に余裕があったら、寄附することで深い満足を得られるのではないでしょうか。未来を少しでもよい方向に変えられたという満足感といいますか。(いや、そんな風に考えるのはまだ二段階目にいる証なのかも。)

「気持ちよくお金が払える時」というお題でしたが、結構深いところへ行けたと思います。自分の問題設定がどう変化したかというと、相手に気分よく払ってもらえばもらう側も気分がよいだろうというのは一面的な理解であったと反省しています。払う側と受け取る側の気分はかならずしも一致しない。

以前、女が男を次々と騙して資産を巻き上げるという結婚詐欺事件があり、男の側が被害届を出さなかったり、騙されたと思っていなかったり、騙されてもいいんだ(むしろ同情している)と言っているのが不思議でしたが、男の側が異なった倫理的段階にいると考えれば納得出来る話で、愛が見返りを求めないことであれば、これら(我々が)騙された(と思っている)男達が不満の声を上げないのも当然かと思われます。ただ非対称性(女の方は男の金を愛していたの)が第三者からみて気の毒だというだけであって。

(同じ男として)寂しい気もしますが、提供側が気分よくお金を受け取ることと、支払う側が気分よくお金を出すことの間には非対称性があり得る。理由は必ずしも一致しない。受け取る側は受け取る側で納得が必要ということでしょう。きめ細かいおもてなしができたと満足するか、社会の不平等を是正することに貢献できると満足するか、、、えーと三点目が出てこない。無償の愛から商行為をする人はお金をうけとって満足を得るのでしょうか。「無償の愛からの商行為」という表現じたいが矛盾をはらんでいる気もしますが。

寄附を受け取る人の満足感について少し触れます。最近訪れたバンコク(タイ国)近郊のリハビリセンターは赤十字が運営していましたが、国からの補助と寄附で成り立っており、料金に相当するものは患者から受け取っていないと言っていました。(要するに基本、無料です。)患者の家族は症状がよくなったときにお礼としていくらかお金を渡しているようですが、対価というよりは感謝の気持ちを表すもののようです。受け取る側の気持ちを想像すると、自分たちの行為が人々の役に立った満足感を感じるのかなと思います。82歳になるという院長は「この年になっても日々忙しく働いている。人々が私を休ませてくれない。」といいつつうれしそうでした。

最後の例は、おそらく料金を設定して、お金を受け取るようになったら、働いていても義務感ばかり先に立って楽しくないだろうという気がします。払う側も料金にみあったものを要求するでしょうし。とすると、施術は無料、運営は寄附で賄うというのは賢いやり方のように思われます。そういったことから何となくですが最強のビジネス形態が見えてきます。Linuxとかオープンソースの活動は既にそうなっているのではないでしょうか。「フリー」(一見、無料)というのは最強のビジネスのやり方のような気がしてきました。

定額で授受するものはサービスとしてはすでに死んでいるのではないか。そのやりとりから得られる喜びが(提供側、受け手側双方にとって)すごく少ないという点で。無償で与え、受けた恩義に対して寄附することがよろこびをもたらすとしたら、経済活動を盛んにするという観点からはそれがもっとも効果的なやり方なのかもしれません。そのドキドキ感が世の中を良くしていくのではないかと夢想します。

私は金銭の授受にとらわれていましたが、見方を変えて「フリー」(一見、無料)という現象を考えても面白そうだなと思いました。「フリー」が経済活動を活性化するのか。倫理的にみてどうなのか。一見、経済を破壊し、貨幣の価値を貶めるかのようにみえるのにうまく行っているようにも見えるのはなぜなのか。(欲望を刺激するのか、無償の愛なのか。)長くなりましたが以上が私の感想です。

第2回哲学カフェ「竜宮城」

第2回哲学カフェ「竜宮城」

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