Monthly Archives: 5月 2016

海へ、神社へ

インドから来ている学生さんたちと邦楽コンサートへ。ポーランド出身の同僚が尺八を演奏するので。こんな風にかくと何か変だが、よい演奏だった。生田流や山田流そのほか全6派が集まって能美市の邦楽協会みたいなものを結成しているらしい。その10周年記念とのことであった。コンサートの後、おやつ持参でひさしぶりにグループホーム「とまり木」に立ち寄った。入居者の皆さんお元気で、海外からのお客さんが一緒ということもあってお茶の時間が妙に盛り上がった。途中から高塚さんも帰ってきて近況を聞けた。次男の奥様とその息子さん(高塚さんの孫)にもお会いできた。高塚さんが幸せそうだった。お孫さんが生後5ヶ月ということでとてもかわいい。入居している方々のアイドルとなっていた。

その後、近所(小舞子)の海辺に行って三人で散歩した。二人とも積極的に海に入っていくので自分もつられて水に浸かった。少し冷たかったが入れないほどではない。浜を行ったり来たり、写真を撮ったり。

海で遊んだ

海で遊んだ

その後、もう一件別のグループホーム(杜の郷・九谷)に寄ってPCの設定を直した。先日ケーブルの接続を直したときにキーロックを掛けるのを忘れたので、その後始末。キーボードが触られても反応しないように設定した。その後、二人を中まで案内してリビングに戻り、100歳になったというミズカノさんと記念撮影した。この人とも長いお付き合いだが、元気でいてくれるのはありがたいことだ。はじめ突然の訪問者に憮然としていたが(「無駄に長生きしたわ」とか)、100歳まで生きるなんても稀なことなんですよと皆で撮影意図を伝えたら微笑んでくれた。

二人を送り届けてから自宅にもどったところ家人が野外劇に行くというので石浦神社(兼六園横)まで出かけた。楽市楽座という劇団で、不条理劇やら田楽やら、即興やら演奏、歌などを縦横無尽に取り入れていて面白かった。投げ銭だけが収入という身を削るアプローチで取り組んでおり、それが演技の質を上げているように見受けられた。途中、ゲスト出演した劇団(「劇団べれゑ」金沢美大演劇部)も面白かったのだが、客を惹き付けるという点では楽市楽座の人たちの方が場数を踏んでいる気がした。でもゲストを招くとかいった構成上の工夫も含めて、最後まで飽きることなく楽しめた。場所が神社、天井は星空というのが良かったのかもしれない。

回転する舞台の上での掛け合い

回転する舞台の上での掛け合い

劇団べれゑの演目も場違いな感じでおもしろかった

劇団べれゑの演目も場違いな感じでおもしろかった

長年やっている人は迫力がある

長年やっている人は迫力がある

志の輔のこころみ(其の百六十八)

5月8日、車を飛ばして富山へ行き、志の輔のこころみ其の百六十八を見て(聴いて)きた。志の輔さんとは数年前、ためしてガッテンに出演した折にお話したことがあり、人柄や雰囲気に魅力を感じてぜひ一度噺を聞いてみたいと思っていた。富山のてるてる亭は志の輔さん専用の小屋とのことで期待していたが、よいところだった。雰囲気がよくなるのに数年かかったんですよ、と志の輔さんが言っていた。場所の雰囲気に敏感な方らしい。

内容も斬新で、二部構成となっており、前半がパワーポイントプレゼンテーションを用いた赤穂事件と仮名手本忠臣蔵の解説だった。丁寧に仮名手本忠臣蔵を段ごとに説明してくれて、芝居をみているかのような臨場感だった。台本を3人で書いていること、各人の個性がぶつかって一人では書けない本になったということが印象に残った。赤穂事件については結局のところ、どのように準備したのかはわかっていないらしい。秘密裏に進められたので真相は不明のままだという。そこを台本製作者らが当事者の気持ちを汲んで想像し、書き表したというところに舞台製作者(落語家を含む)が魅了されるのだろう。

後半(落語)はその仮名手本忠臣蔵の5段目がテーマとなっており、中村仲蔵が斧定九郎(おのさだくろう)をどう役作りしたのかが描写される。前半で後半の噺の背景を丁寧に説明してくれていたためひとつひとつの台詞の意味がよく理解でき、味わい深かった。落語を深く味わって欲しいという気持ちが伝わってきて、心動かされた。

最後の挨拶ではこの演目や富山での活動に対するご自身の考えを話され、「これをまた夜の部でもやるかと思うと・・・」(昼の部をみていた)というところで思わず応援の意味で拍手した。会場全体が拍手で埋まった。落語としての格調の高さ、客を惹き付ける演技、声色、細部を理解してもらうための前準備、おわってからの挨拶。とてもよい体験をした。仕事に対する真摯な姿勢に触れられてよかった。

富山の町

富山の町

森と町の散策

先週月曜日、インドから留学生3名が到着した。今日はうち2名と他研究室の(インドからの)お客さん1名らと共にJAIST周辺の森と金沢の町を散策した。乾燥した地域から来ているので、木々の緑や花がうれしいらしく、至る所で立ち止まって記念撮影(!)していた。犬や子供にも大いなる興味を示し、「かわいい!」を連発していた。最初のうちは反応が読めなかったが、途中からなんとなくわかってきた。「きれい」と「かわいい」が好きなようです。

森の中でカエルに出会い、激写する。の図。

森の中でカエルに出会い、激写する。の図。

竹でできた筆を使って書道に挑戦(味のある字でした)

竹でできた筆を使って書道に挑戦(味のある字でした)

神社でふるまい酒をしていたので品定め

神社でふるまい酒をしていたので品定め

存在から発する言葉(「楽園瞑想」読後感)

「楽園瞑想」を読み終えた。吉福さんと宮迫千鶴氏の対談なので宮迫氏の関心(特に母性や女性に関すること)が前面に出ている部分もあったが、そういったことへの対応の仕方も含めて吉福さんらしい発言が多々あって懐かしかった。読んでいると吉福さんとの接点、どのような影響を受けたかなどいろいろ思い起こすことがある。

http://www.amazon.co.jp/楽園瞑想―神話的時間を生き直す-宮迫-千鶴/dp/4876720975

音楽について。高校に入学したあたりから音楽の源について考えるようになった。それまでもピアノを弾いていたが、ある時からそれらの曲がいったいどこから出てきたのか、どのように創作されたのかに興味を持つようになった。与えられた曲を弾くだけではなくて即興的に、心から溢れるがままにピアノを弾くことが増え、弾きながらこの音楽はどこから来るのだろうと考えた。物心ついた頃から何をするにでも鼻歌が伴う性向があったのだが、それが複雑になった感じ。

アフリカには太鼓言語なるものがあると知り、それを研究したら音楽の意味がわかるんじゃないかと思い、楽理科に進もうとしたものの反対されて挫折した。言葉を音楽の延長でとらえようとするところに共通点があるように思う。そこに行く前に、言葉に対する徹底した不信感があるのだが。

「楽園瞑想」 より p.176

「言葉に対する不信感」

宮迫:それはいま伺っていると、音楽家としてスタートされて、その後に言語で意識化していかれたという、ふたつの側面の往復ということから生じることじゃないんですか。

吉福:そういうふうにも言えるかもしれませんね。言語というのが、ぼくにとっては相当意識的な作業の産物なんです。音楽は本能的な作業だったので、何も介在してこなかった。(略)ぼくは言語に対して徹底的に不信感を持っているんです。どういう言葉を使ってどのようなことを話そうともここにいらっしゃる方はそれぞれ自分勝手にぼくの語っていることを解釈されるという前提の下に話しています。(略)それが心外な誤解だったとしても構わないんです。その根っこにあるのは「言葉は伝わらない」ということなんです。言葉では自分の存在そのものを伝えることは出来ない。ひとつの道具にはなるし、チャネルにもなるけど、それは非常に些細なことだと思っている。

同書 p.30

吉福:(前略)大半の人の言葉の選択というのは単なる文化的なクリシェにはまっているようにしかみえない。決まった型にはまっているんです。自分なりにしっかりと模索した上で、微妙な感覚だとかニュアンスを言葉に乗せていない場合が多い。(略)型にはまった言葉遣いをする人が大半で、言葉に自分がいない。言葉が人をつかっている。文化を背負った言葉がその人を使っているのであって、その人の言葉で生きていないと思う。(略)

宮迫:つまり言葉はある一定の層までのことは表現しているかもしれないけれど、深い部分は言葉では表現できないんだ、という認識でいいですか。

吉福:そうですね。言葉は実体やリアリティの表面の一側面をかすめ取っているだけなんです。(略)実体のほんの一側面にすぎないという事実を忘れてしまうんですよ。(略)言葉には神道のいう「言霊」のようなものがあって、書き文字ではなくて「音」に戻していくと、フィジカルな実体があると思うんです。そこに行き着かない限り、言葉は表面的なものをすくっているだけという感じがする。

吉福さんは実体のない言葉、上滑りした議論をとても嫌っていた。我々の普段の言葉遣いがいかにいい加減なのか、言葉で伝えられるのはごく僅かなことであることを教えられた。たとえば Ansel Adams の写真を渡されて、その内容を相手に(写真を見せずに)伝えるといった課題に取り組んだ。どれほど伝わらないかを徹底的にたたき込まれた。

こういった経験はその後、自然言語の意味論研究に取り組むという形で影響するのだが、それは「言葉が表すのは実体のほんの一側面にすぎない」ことを自分なりに詰めて確認する作業だった。言葉の限界を見極めたかった。(自分が)日本に帰ってきてからは、実体のない言葉を書き綴り、上滑りした議論を繰り返して生きてきたが、そろそろ耐えられなくなりつつあるようだ。夢の中で老賢人から「音楽で表現できないものを言葉で表現せよ」と言われてしまうし。

わかってはいるけれど踏み切れない。音楽を演奏するように語り、曲を書くように文章を書くのが自分本来の姿だとは思うが。最近、似非客観性をもって論文を書くことが苦痛だったり、何とか研究計画書を書き上げてもエッセイ風になってしまったり。人に読んで貰うので指摘を受けて「正しい」文章に書き直すのだが、とても苦痛だ。似非客観的に研究の位置づけをもっともらしく書くこともしてきたが、まったく伝わらない。言語ゲームに捕らわれていることが嫌になってきた。

吉福さんがハワイに移住したいきさつをあらためて読んだが、膨大な翻訳、学会設立など言葉の世界で多々働き、疲れたのだろう。彼が(実体を伴った言葉で)書きたいといっていたのは、おそらくサーフィンについて書いた一連の文章であろうと思われるが、これらが多くの読者を捉えたかといえば難しいところだ、残念だけれど。伝えたかったことが、講義録として弟子によってまとめられ、1冊か2冊が世に出て終わる。膨大な翻訳が後に残る。彼にとって不本意な終わり方だったのではないだろうか。もちろん悔いることをしない人だが。自分を語る本当の言葉を見つける前に逝ってしまった、という気がする。