パン作り no. 2

パンを作ろうと思い、前日、近所の自然食品屋さんに行ったらパン酵母が売り切れだった。連休中、自宅で(親子で)パンを焼くのが流行っていると噂に聞いてはいたが、こういうところに影響が出るとは思わなかった。金沢中心部にある食材屋さん(富沢商会)に行ってみたところ、多少店頭に並んでいて買うことができた。セモリナ粉も一緒に買う。明日、イタリア風のものを焼く予定。

I went to a grocery shop nearby yesterday to buy yeast for baking, but found the shelf empty. I knew that some people baked with kids at home during the holiday week, but did not expect this impact on the market. I visited another store in the centre of city today to buy a box of yeasts. I luckily got one. I also bought semolina flour. I am going to bake Maltese Galletti tomorrow morning.  

「とかち野酵母」というものを初めて使う。セモリナ粉を半分使ったので色が黄色っぽい。

Hou Youさんからの報告

私の研究室にいて、2019年3月に前期課程を修了したHoさんは中国に帰って大学で働いていましたが、コロナウィルスの感染爆発では一時的に医師に戻り(本学に入学する前、中国で医師として働いていた。)現場で応対しました。何かしらそこから学べることはないかと二人で話し合っているところです。以下は彼が報告してくれたことをまとめたものです。

以下はHouさんからの報告です:

45名に質問票を送り、35名から有効な回答を得た。質問は7項目あり、どのようなことにストレスを感じたか、ストレスにどう対処したか、どのような心理的影響を受けたか、どのような状況でストレスを感じたかなどを聞いた。回答者のうち29名が普段とは異なるストレスを感じた。また半数以上の20名が不眠や食欲不振に陥り、悲しみ、泣いた。困難な時は過ぎ去ったが、今も半数近い16名が極度のストレスを感じている。

どのようなことに対してストレスを感じたか

ストレスの原因としては、職務の重圧、不十分な感染防止対策、情報の不足、自らの家族への責任感などが挙げられる。あらゆる店舗が営業を停止したので気分転換する場所がなかった。大変な不便を感じた。レストランは閉まっているし、コーヒーを飲みに行く場所はない、日常品を買うこともできない。仕事で長時間、緊張を強いられることもストレスの原因である。

感染を防止するものが不足しているので、マスクの使用量を減らすためマスクを交換する回数を減らさざるを得なかった。僅かな予防手段を長い期間使い回さなければならない。身に纏うものを着替えるのはさらに難しかった。数が足りないということもあるが、脱ぐときに感染する恐れがあったからである。看護婦の多くが大人用おむつを使った。防御服を脱ぐ回数を減らすためである。(防御服を節約できるし、感染リスクを減らすことができる。)こういったニュースは中国でよく報道された。医療現場で市販の大人用おむつを使うとは皮肉なことである。今はこういった問題は解消された。

コロナウィルスをどう扱ったらよいのか、治療法がわからない。ウィルスの感染経路が不明だし、どのような種類なのかもわからない。正確な情報が無いので人々が恐怖した。

家族への配慮もある。医師らはコロナウィルスを家族に伝染させるのではないかと恐れていた。責任が大きい割に給料が安いことも医師らの意欲を挫いた。今の中国の物価からすると医師らの給料は相対的に低い。

いかにしてストレスを解消したか

自分を律することでストレスをコントロールした。スマートフォンをいじったり、泣いたり、音楽を聞いたりした。友達や家族とチャットするのも効果があった。体を動かすのもよい。いろいろな方法でストレスに対処していたが多くの人が挙げたのは「泣く」ことであった。

どのような人であれコロナウィルスに伝染する可能性がある。医師や看護師らは家族らを感染させないため、一人で過ごすことを選択した。孤独であることもストレスの原因となる。そういった状況においては「泣く」こともストレス軽減には役立つだろう。ネットを介してのチャットも効果があった。私自身、ひどい状況のときは毎晩、友人とチャットして気を紛らわせた。平時であれば一緒に食事しながら話すのだが、こういった状況ではスマートフォンでチャットして気を紛らわせるほかない。

ストレスは身体的にどのような影響を及ぼしたか

多くの回答者が不眠、食欲不振を経験した。13名が不安になり、落ち着かず、悲観的になった。

食欲不振は、食品の供給方法に起因すると推測する。感染爆発に対応している間、食料は病院から支給された。自分で買ったわけではない。自分の好物を買えないので食欲が減退したのかもしれない。多くの医師が働いていたが患者数も多かったので、毎日8時間から12時間勤務した。患者の多くが重症であり、1日24時間の絶え間ない監視を必要とする。夜勤が多かったため不眠に陥ったと思われる。(続く)

年度末の安堵

夕暮れ時のJAIST

3年間評議員の仕事を務めて今日で最終日となった。あまり無事ではなかったが任務を全うできてよかった。最初の一年間は仕事の内容を理解するのに精一杯で余裕が無かった。どこで無理をしたのか職務に就いて数ヶ月後には痛風が悪化し、一ヶ月くらい階段を上がれなかった。最悪のときは自宅から400メートルほど離れた薬局へ往復一時間かけてロキソニンを買いに行った。這うのではなく、ゆっくりとだが歩いて行った。この仕事に就く前はToDoリストが3ページくらいになることもあって自分は忙しい方なんじゃないかと勝手に思っていたが、軽く10ページを超えるようになって、人間には限界があると考えるようになった。努力してもできないことがあると悟れたのはよかった。二年目は五十肩になり、腕が上がらなくなった。手書きでメモをたくさん取り過ぎた。記憶するには手書きが良いと思い、会議に出席したらメモを取るようにしていた。(一年目は病院の予約を忘れるほど目前の仕事で手一杯だった。大局的視点を持つには記録をとっておき細かいことはとりあえず忘れることが重要と考えた。)一月で100ページくらい書いていたのだが多すぎたようだ。物事には限度がある。今は書く量を3分の1くらいに抑えている。それから体調管理が重要と悟り、毎日、睡眠時間と体重を記録するようになった。これらとストレス(仕事量)は正しく相関することがわかった。三年目になり、仕事が理解できてきたように思われたので、年間の作業を線表にしてみた。A3用紙で6枚にまとめたが、これだけの仕事をしていることを意識している人はほかにいないだろうなと思った。何人かの人に見せたが、これを事前に知ったら引き受ける人はいませんよと言われた。そうだろうなと自分も思った。要するに大学という組織がどう運営されているのか、全体像を把握している人がいない。高々2000人弱の組織だが、ひどいものだ。上から降りてきた仕事を横か下へ流しているだけだ。しかし、これを良くしようとするととんでもない労力がかかる。結局の所、組織の善し悪しは上に立つ人の器量で決まる。

 仕事をどう分割するかも重要だと知った。10枚を超えるToDoリストを眺めていてもやる気は起きない。一項目を一枚の用紙に書き出し、優先順位をつけて並べ替え、上から順に取って、手元の一枚の仕事に集中することである。京大式カードを使ったが書いた物を重ねると厚さは3センチほどになったかな。今できないことは見ない方が仕事が捗るということを学んだ。

 引き継ぎのためにいろいろなタスクを遂行するためのノウハウをまとめたが20ページくらいになった。重要な点だけを選んでまとめたのだけれど。こういったものも未だかつて書かれたことがない。教員にとっては雑用だから時間をかけたくないのはわかる。しかし、知識を蓄積する習慣がないのは絶望的ではなかろうか。文書にして残すというのは基本中の基本のはずだ。

まぁいいや。とりあえず一週間は毎日ゆっくり眠って、嫌なことを全て忘れたい。研究室の学生らには気の毒なことをした。十分に指導・助言ができなかった。この3年間で三人、修論審査で不合格になり、留年した。一番の被害者は彼らだろう。こういう管理の仕事を片手間でやればいいと経営者が考えている限り、組織はよくならないだろうと思う。

松風閣の音

台風が近づいていて風雨の強い10月12日、松風閣での茶会に行った。年に一回、兼六大茶会というのが金沢であってその会場のひとつが松風閣であった。表千家に属するある会がホストであった。悪天候ということもあって、昼過ぎの番なのに自分が47人目の客であった。一所懸命準備したであろうに気の毒な感じだった。

ひどい雨だったが、お蔭で発見があった。茶席に出てすぐ気づいたのは雨音がよく聞こえること。庇が長く、雨樋から垂れる水滴が地面に当たる音をよく集めているものとみえる。さらに感心したのは、接続する二つの家屋で違う大きさの石を軒先に敷いていたことだ。手前の方は大きめの粗い石、奥の家屋は細かい石が敷き詰められていた。しかも奥の家屋は廊下を木で敷き詰めるにわざと隙間を空けて音が下から漏れ聞こえるようにしている。細かな石に当たる水滴が軽やかな、高周波を強調した音を立てていた。手前の家屋は粗い石に水滴を落とし、低めの音を立てている。二つの音が重なって、広がりのある音世界を重奏していた。

この家を設計した人はそこまで考えていたのだろうか。偶然ではないだろう。とはいえ元は別の所にあったものを明治になってここに移築した物だ。この敷石は元々こうだったのか、それとも移したときにこうしたのか。気になる。それにしても素晴らしい効果だった。雨が地面を打つ音を楽しむとは高貴な精神である。

写真はいずれもネットから拾ったもの。実際には大雨で庭が濡れていた。出典はそれぞれ以下の通り:https://blog.goo.ne.jp/sztimes/e/034e69042ab129cc20be3c34af83b3c0
https://ameblo.jp/kano-2008-4/entry-12094485175.html

休暇の終わりに思うこと

先週木曜日から少し長めに6日間休んだ。(今日は久しぶりの出勤。)本学にはリフレッシュ休暇(旧称:夏休み)といって、年に一度、土日・祝日にくっつけて三日間の休みがとれる制度がある。ここ数年、その制度を利用していなかったが、休むことも大事と考えを改め、スケジュールを調整して休んだ。8月に休めたらよかったのだが、年に4回卒業の機会がある本学は8月にも入試や修了審査があり、標準的な大学の年度末並に忙しい。加えて8月末に一週間研修にいっていたこともあり、休暇申請が9月となった。準年度末である9月と次の新入生が入ってくる来月10月の隙間を狙った形になる。この機を逃すと年内は10月末まで休暇をとれない。大学で管理の仕事を任されているので出席しなければならない会議が頻繁にあり、三日連続で会議がない日を探すのも難なのである。年が明けたら年度末モードとなり、休める日を見つけるのが難しくなる。少ない選択肢からこの期間を選んで休んだ。

天気のいい日は Halfbike に乗って金沢中心部に行ったり、海まで遠出したりした。基本外で遊ぶのが好きだ。台風がきて天気が崩れてからはプールに行って泳いだり。毎日8時間近く眠って体調を戻した。調子が上向くと、休む前は疲れていたのだと気づく。休みに入る前は受けとったメールの内容を誤解したり、日付を間違えた連絡を送ったり、疲れているとろくなことが無い。ある意味、自分の不安と格闘する不毛な働き方になる。休むと平静になる。何を頑張っていたのか、自分で呆れる。

家にいるときは好きなだけピアノを弾き、本を読んだ。最近弾くのは Brahms と Rachmaninoff が中心である。少し前は Schumann に入れ込んでいた。要はロマン派の世界を探究している。10代の終わり頃までピアノを習っていたが、Bach と Beethoven を核として教えられ、Schumann とか Brahms を弾いた記憶が無い。師はある時期からは私の好みを考慮して近代のものを弾かせてくれるようになったが、後期ロマン派は自分にとって巨大な穴だった。それを今になって取り戻そうとしている。Brahmsもパガニーニ変奏曲が中心で、それにソナタ1番を合わせて練習する形になっている。Rachmaninoff は彼が編曲したBachの曲を中心に、コレルリ変奏曲を加えている。真夏の夜の夢の編曲も面白い。

バロック音楽には、音楽を推し進める構成力、力強さがある。ロマン派以降は調性を複雑化する傾向があり、この二つがほどよく調和しているのが Brahms や Rachmaninoff という気がする。Prokofieff や Schostakovich も割と好きだが、今となっては旋律が古くさく、少し前の音楽に聞こえるのが残念ではある。出てきた当時は無調風の旋律が新鮮に聞こえたのだろうが。

Rachmaninoff は Brahms をそれほど好まなかったらしい。記録を見る限り、晩年になってレパートリーに小曲を数曲加えたくらいだ。対して Schumann を好み、Noveletten を10年以上弾いていたらしい。彼の Brahms に対する不満は、「ピアノ音楽の書法に従っていない」ことにあったらしいが、これは上に挙げた Rachmaninoff の編曲にも当てはまることなので、ライバルとして強く意識していたと思われる。50くらい年の差があるが、この二人にはいろいろ共通するものを感じる。モーダルな雰囲気とメランコリア。ほのかに垣間見える屈折。

Schiff というピアニストがいて、彼の書いた本が最近翻訳されて店頭に並んでいた。Brahms はお嫌いらしい。Venice にいくと教会のなかにルネッサンス期からバロック期にかけての絵が多くかかっている。Tintretto とか。Schiff がいうにはこれらの絵は少し眺めるならよい、しかしずっと見て回っていると憂鬱になる。だから好きではない。Brahms もそれと同じだ。という意見だった。

興味深い指摘である。自分は教会のなかにかかっているあれらの絵も好きだ。付け加えれば、東方教会はさらに陰気である。詠唱される曲も含めて、全体が地から湧き上がってきたような暗さがある。Brahms とか Rachmaninoff が作ったのは要するにそういった音楽なのだろう。Schiff は嫌うが、自分の好みにはあっている、時と場合によるが。

さらに脱線すると、Brahms 対 Liszt/Wagner の対立を業界が煽っていた時期が合った。実際には Brahms は Wagner の音楽を好んでいたが。しかし Liszt のことは好きになれなかったようだ。Liszt がいろいろ実験的なことをするから胡散臭いとかペテン師と解釈したのだろう。Liszt の方は年齢差があることもあって Brahms のことを新進気鋭の若手とみていたようだ。Liszt が弟子達を教えたレッスン録をみると Brahms のパガニーニ変奏曲が時々弾かれている。Liszt にしてみれば元ネタは俺だよと優越感に浸るところがあり、弟子に弾かせたのではないかと思う。

さらにその前に Horowitz のインタビュー集を読んでいたのだが、Horowitz が Brahms の曲を毛嫌いしているところがあって興味深かった。Rachmaninoff が指摘するようにピアノ演奏の伝統に従っていない、つまり弾きにくいのがお気に召さないらしい。この批判に対する Brhams の弁明は、「だからこそピアノ向きなのだ」というもので、真意はオーケストラのようにピアノを響かせたい、豊かな響きを引き出したいということにある。その目的は Liszt にも共有されるが、手段が大いに異なるということだ。超絶技巧で聴衆を魅了するつもりがなかった、Brahms は。

ロマン派は Brahms や Rachmaninoff が締めくくったとされているが、後の音楽は Liszt の方に強く影響され形成された感がある。彼らはそういった本流とは別の所に居る感じがする。ある意味、ポストモダンで、過去の音楽を等距離で捉えて独自の音世界を作り上げた気がする。そのゆえ後継者がいなかった。だから今、新鮮に聞こえるのだろう。

音楽の話が長くなった。読んでいた本は吉福さんの書いたものをまとめたアンソロジー(「静かなあたまと開かれたこころ」)である。吉福さんには19歳から26歳くらいまでの間、師事した。彼の教えがなければ人工知能の研究には進まなかっただろうし、会社をやめて留学することもなかった。なかでも重要な教えは「女の子と付き合いなさい」というもので、そんなことまで口出ししてくれた彼の親切には頭が下がる。親との関係を作り直す手伝いもしてくれたし、少年から大人になる手助けをしてもらった。

全てが無償で与えられたが、器の大きな人だった。なぜ彼が我々のような小さなサークルを面倒みていたのかといえば、それを彼が必要としていたともいえる。何かを学ぶためにはグループを形成する必要がある。彼自身の成長のために弟子を必要としたのだろう。ミーティングの際、長々と話し続けるので止めに入ったら、「気分よく話しているんだから止めないでよ」と言われたこともある。自分のやりたいことしかやらないと言い聞かせていた人だから、自分のためにやっていたのだろう。

読んでいるとよく聞かされた話が出てくる。人と接するときはコンテキストとプロセスを見る、とか。説明はあまり与えられないが、「コンテキスト」に言及する意図は、何を話しているかではなく、何を伝えようとしているのかに注目せよということだ。文脈によって発話の意味が変わる。「プロセス」とはタイプ論の発達的側面と関係していて、その人がどのくらいのいレベルにいるのか、どこに向かおうとしているのかを読み取れという意味だろう。こういう見方は体に染みついている。

ボストンでジャズをやっていたのは知っていたが、Gary Peacock の代役を務めたこともあると知って、それはすごいと思った。彼が出した宿題のひとつに曲を作ってくるというのがあって、皆で作ったものを持ち寄って吟味したが、その際、吉福さんがギターを弾いた。フレーズを確認するだけで、プロらしいところは全くなかった。ここまで音楽を捨て去ることができるのはすごいと感心した。そういえば自宅に行ったとき、日野皓正が来て一緒に演奏したこともある、しかしどこからも苦情が来なかったと豪語していた。恐くて苦情を言いに来られなかっただけなんじゃないかと密かに思った。

家の中に自作の家具があって、アメリカから帰ってきた当初はやることなくてこういうのを作っていたんだよねと言っていたのを今、思い出した。何もしないとか積み上げてきたものを放棄することに積極的意味を見出していた。そういうのにも多分強く影響を受けている。忙しくて忘れていた、そういうことも。doing nothing というやつだな。出典はカスタネダの著作だろう。軽率に何かを始めることをすごく警戒していたし、注意も受けた。自分の存在の奥底から出てきたものだけに取り組みなさいという教えだった。

休暇の六日間は積極的に何もしないようにした日々だった。短い期間だったが。少年のように、自分が本当にしたいことはなんだろうかと黙想した。

吉福さんのアンソロジーを読んでいて、彼がアメリカで苦闘していたとき、西田幾多郎の全集を繰り返し読んだということを初めて知った。彼にはいろいろな本を紹介されたし、西谷啓治に関心があったことも知っていたが、西田哲学への興味を語ったことは無かった。休暇の最初の日に鈴木大拙記念館で西田幾多郎と三木清の対談を読んで啓発されたこともあり、しばらく西田幾多郎の著作を読んでみる気になった。吉福さんによれば西田はその世界に飛び込んでいるという。Bateson は側まで行って踏みとどまったから中途半端との評価だった。うーむ、Bateson を勧めてくれたのは彼なのだが。

あとは21美のライブラリで見つけた Pauline Oliveros の著作から Deep Listening という概念を知った。しばらくこれを深めたい。同じく21美でみた Ernesto Neto の構築物がツボにはまったのでこの世界も追ってみたい。思索は西田幾多郎に、創作は Oliveros とNeto に倣って取り組みたい。聴くことと棲むことから立ち現れる世界を捉えて表現すること。西田幾多郎の著作に学んでそれを言語化すること。もう少し休みがあれば深められたかもしれないが、今の境遇ではこのあたりが限界。高校の図書館で Heidegger の著作に触れて震撼したところまで戻らなくては。

出勤前にサイエンスパークで一息いれる