Category Archives: Pleyel

130歳の誕生日、あるいはハープのようなピアノ

うちにあるPleyelのピアノは130年前(1884年)の6月7日にパリ近郊の工場からロンドンに向けて出荷された。ゆえに6月7日を誕生日とみなす。(すっかり人間扱いしている。。。)130歳の誕生日となる2014年6月7日、一人ピアノと向き合って、その声に耳を傾けた。

130歳とはいえ、非常に張りのある歌声である。(セミ)コンサート用で筐体が大きいというのも一因であろうが、もともと歌う楽器なのだ。ピアノが届いて二ヶ月、よい音を求めて試行錯誤してきたが、はっきり言えるのは現代ピアノとは違う楽器であるということ、叩いてはいけないということだ。バルトークなんか弾いたらえらいことになる。音が割れてしまって、響きも平板だ。ところが静かに歌うメロディなどは人間の声かと思うほどみずみずしく、伸びやかである。若々しい。

どういう風に弾いたら良い音がするのか、考えてきた末の、現時点の理解は、「これはハープだ(と思って弾けばよい)」ということである。弦を指で弾く(はじく)ような気分で鍵盤に触れるといい音がする。もう少し付け加えると打弦時よりも、鍵盤からの指の離し方を意識した方が音を作りやすい。これは最近、琴を弾かせてもらったときにぴんと来た。

フランスの演奏技法は伝統的に手首を柔らかく使うものであるが、要するに弦をはじいているのだと考えれば納得がいく。イネガル(跳ねるような装飾)も弦をひっかいていると考えればよいのではないかという気がした。ピアノをハープとみなすのは独特のもののような気がするが、100年くらい前はそういうものだったのかもしれない。あらためてピアノをみるとたしかにペダルのところはハープが意匠されている。

ペダルのところはハープの形になっている

ペダルのところはハープの形になっている

これは単なるデザイン以上に、楽器の由来を象徴するものなのだなと思った。

そういうわけでいまだ悪戦苦闘中というか探索が続いている。いろいろ弾いてみてあうんじゃないかと思ったのは、フォーレとかフランクといったフランスの同時代の作曲家たちの作品。ゆっくりとしたメロディが複雑に絡んで長いトーンのなかで空間が広がっていくようなものが適しているような気がする。これが意外にリストの作品にも適していて、リストはPleyelを嫌っていたかのようなことを書いている人もいるが、少なくともこの頃(1884年)のPleyelピアノはリストの要望に応えているのではないかと思う。

Pleyelといえばショパンだが、これがなかなか難しくて、ノンペダル奏法を駆使しないと美しくならない。ショパンは自らを古典派とみなし、バッハの作品を好んだというが、実際作品に向き合ってみるときっちりとした作りになっていて、曖昧性がないことに気づく。宅のPleyelで弾くと騒がしくなってしまうので、たぶんさらに50年くらい前の楽器まで遡っていかないと本来の響きは出ないのだろう。

というわけでシューマンのアラベスク(最後のところだけ)をこっそり公開。静かに演奏しております。ピアノ再調整の二日前でコンディションは今ひとつですがそこはご容赦を。
シューマンのアラベスク(最後のところだけ)

ピアノが届きました (The piano has arrived)

9ヶ月ほどかかりましたがピアノが届きました。ほおずりしたいくらい可愛いです。

プレイエルピアノの世界

ほぼ2週間前のことになりますが、1月6日、ピアノ バルロン・ジャパンの和田さんをお招きし、プレイエルピアノの構造等について教えて頂きました。さすがにパリの工房で10年間仕事されただけのことはあって、これは教えてもらわなければ絶対わからないということを数多く教わりました。

あまり本質ではないけれど私にとって印象的だったのは、ペダルを固定しているねじが調律用のハンマーで回せたこと。ペダルのついている箱の横から穴にハンマーを差し込んでねじを締めたときは瞠目しました。ペダルも調整対象の一部だったのでしょうね。(当たり前だけど、調律ピンを回すのと同じハンマーで調整できるところがすごい。)

あとは鍵盤のアクションがモジュールになっているのですが、それを分解するのに穴から特別なドライバーを差し込んで回すようになっていたこと。逆マイナスドライバーみたいな器具が必要で、なぜこのような仕様にしたのかよくわかりません。その後もびっくりすることの連続で、ハンマーが本当に一本の針金でまとめて固定されていた。結構ゆがんでいたので交換の仕方も見せて下さいましたが、一本だけ調整することはできず一本の針金で束ねられているすべてのハンマーを外す必要があり、なぜそのような面倒な仕組みにしたのかよくわかりませんでした。

全体的に作りがアバウトなんですという解説でしたが、その分ねじの数は少ないのでピアノが傷みにくいというか、木を大事に使っている感じがしました。できるだけ金属を付けたくないんだなという気がした。そんな工夫の集積で、あのメローなというか、ビンテージものの赤ワインみたいな深みのある音がするんだろうなと思います。ピアノの原型がハープだったということが伝わってくるし、狙いはフレームと弦の作り出す音なんだなということがわかりました。最近のピアノみたいに細かい工夫が随所に込められてるわけではないので原始的だけど、その分、演奏者の思いが直接的に指から伝わっていくというか、弦を指でかき鳴らしているような感じがした。

和田さんの話を聞いていて、つくづくプレイエルという会社が(一時期完全に)消えて技術が絶えてしまったことが最大の損失だったのだなと思いました。非常に興味深い構造をしているのですが、それが何のためなのか、設計意図がわからないのです。経験的に「よい音」を探っていくうちにそうなったのでしょうけれど、構造(と材質)と音の関係が読めない。

それでも現代まで(かろうじて)保守の仕方などが伝わっているのは、フランスにはまだ古いプレイエルピアノが沢山残っていて、それらが使われているので保守に対する需要があるお蔭なのでしょう。ただ和田さんの世代がプレイエルピアノのさわり方を継承する最後の人たちとのことなので、貴重な技術がこの先も伝えていかれるのかが気になったところです。

アクションの調整の仕方も独特でした。細かい点は省略しますが、打弦距離を調整していくと突如「かーん」と抜けるような、ピアノ全体が反応するポイントがあって、そうなると俄然ピアノが生き生きとしだしたのです。長い眠りから覚めたお姫様みたいだった。これはびっくりしたな。ひいき目だけど、ベーゼンドルファーのピアノよりも心に響く音だった。そうそう、この音。この響きに打たれたんだと思い出しました。

こんな特殊なピアノを持って帰ってきても保守してくれる人たちがいるなんて日本はすごい所だと思います。私の運が良かっただけなのかも知れません。いろいろな条件が重なって何とかここまで来られて、助けて下さった方々に感謝。

和田さんがこの日の感想などを書いてくれています。「1884年製プレイエル モデル2」(2014年1月9日)。ずいぶん褒めてもらってピアノも喜んでいることでしょう。

 

鍵盤を取り出してセンターピンを交換するところ

鍵盤を取り出してセンターピンを交換するところ

これだけのハンマーが一本の針金でつながれている

これだけのハンマーが一本の針金でつながれている

プレイエル・ピアノに会いに行く

午後金沢で春風亭小朝の噺を聞いてからピアノ工房を目指して移動を開始した。あいにくの悪天候で金沢中心部はひどい渋滞だったが何とか抜けてほぼ約束の時間通りに工房に到着した。

久しぶりに会ったピアノは元気そうだった。過酷な長旅だったにもかかわらずマルタにいたときと同じように美しい声を聞かせてくれた。多湿な日本(特に冬の北陸)に来たので、木が湿気を含んで膨み、アクションがところどころたどたどしかったが、それはいずれ解決する問題。ピアノ技術者のIさんも気に入ってくれて、よかった。この時代の楽器でこれだけしっかり鳴るものは珍しいとのこと。

響板の様子を確認。前回の修理で割れも補修されており問題なし。鉄フレームも再塗装されているとのこと。

響板の様子を確認。前回の修理で割れも補修されており問題なし。鉄フレームも再塗装されているとのこと。

ダンパーが少し動きが怪しいのでしっかり調整するとのこと。

ダンパーが少し動きが怪しいのでしっかり調整するとのこと。

20131215d

アクションもみせてもらった。ハンマーもオリジナルのままと知って驚いた。

いろいろなところに先人の知恵が詰まっていることを教えてもらった

いろいろなところに先人の知恵が詰まっていることを教えてもらった

ハンマーがオリジナル、つまり130年前に作られたものがそのままついていると知って驚いた。箱入り娘というか、あまり弾かれなかったらしい。私にとってはありがたいことだけれども。。。全体的に極力元々の部品を残して修復されているとのことで安心した。(この点はMの報告の通り。)このまま必要箇所だけ調整しましょうということに。ところどころ皮が破れたりしているところもあったけど、接着剤で貼れば大丈夫とのことでした。しばらく状態が落ち着くのを待って、それから調整して、雪が消えるのを待って(!)自宅へ運ぶことになりそうです。それまでは時々工房にお邪魔して進捗を眺めさせていただくことにします。

兎にも角にも無事に到着してよかったです。

ありがとう、Pleyel!

マルタからピアノを運んでこられた要因はいろいろあるが、Pleyel社が製造証明書を発行してくれたのは大きかった。マルタからイギリスへ一旦ピアノを運び、そこから日本へ向けて輸出するという大技ができたのはこの証明書のお蔭である。Pleyelについては「倒産する」という噂が流布しているが、Mが転送してくれたPleyel社からのメールでは否定されていた。ピアノ技術者の雇用は確保する、場所を移してピアノ製造を再開するという。少なくとも経営者はその意向だ。Pleyelにはピアノを作り続けてもらいたい。現存する最古のピアノメーカーとして生き延びて欲しい。

ピアノを個人輸入することについて。大変だからよした方が良いと思う(汗)。Pleyelを始めフランス製の古いピアノが好きだったらピアノ バルロン・ジャパンから買うのがよい。少なくともピアノが届かないんじゃないかという心配をしなくて済む。ピアノの質は当然保証される。フランスからピアノを輸入するということは試奏できないまま買うことでもあるから、信頼できる人にお願いするのがよい。

eBay などをみると安価なアンティークピアノが並んでいるが、こういうのは自分で直せる人か、あるいは修理にいくらかけてもよいと思える太っ腹な人向けだと思う。海外でピアノを見たり触ったりした経験からいうと状態のよいピアノは少ない。日本の厳しい基準からいえば全部壊れているといっても良いくらいだ。そういうピアノを輸入したら修理に最低100万円はかけないと使い物にならない。要するに作り直すことになる。元の状態を出来る限り残したまま再生するわけだから新規製作よりも大変だ。なおかつ直して使うだけの価値があるかどうかピアノの質を判断できる人は少ない。飾っておくだけなら何を買おうが問題ないが、演奏するために買うなら変なものには手を出さないことだ。

楽器は演奏されてこそ価値がある。このことを私はEdinburghにいるときに教えられた。20年前、スコットランドの首都で苦学しているとき、心を慰めてくれたのは古楽であったが、楽器製作の手ほどきをしてくれた恩人は17世紀に製作されたイタリアンチェンバロも直して弾ける状態にしていた。1904年製のエラールピアノも触らせてもらった。19世紀のスクェアピアノも。こういった楽器は独自の声を持っている。現代の楽器ほど声量はないが、個性がある。なんというか、魂を持っている感じがする。そこにはたぶん我々がどこかで忘れてきてしまった、先人たちの音楽への思いが込められているのだと思う。

私がピアノを弾き出したのはたぶん6歳のときで小学校に上がる前だった。幼稚園にあったオルガンをいつも一人で弾いて遊んでいたので、不憫に思った先生が親にそのことを伝えてくれたらしい。ピアノが欲しいかと親に聞かれた記憶がある。ピアノが沢山ならんでいる楽器店に連れて行かれたことを憶えている。そこで何台か弾き比べて、どれが一番好きか尋ねられたことも憶えている。その時自分が指さしたピアノはその店で一番高いピアノだったらしい。父の顔が引き締まった。でも買ってくれた。店から出るとき、母が父に向かって「本当によかったの?大丈夫?」と何度も聞いていたのを思い出す。我々家族は家を買って新居に移ってきたばかりだった。当時の父は35歳。家のローンを抱えた状態で高価なピアノを思い切って買ってくれた。どれだけ私が真剣に取り組むかはわからなかったはずだが。

そのピアノは今、妹のところにあって甥が時々弾いている。この前久しぶりに弾いたらベヒシュタインの音がした。Y社は当時、ベヒシュタインを真似ていたらしい。そんなことも最近知った。ベヒシュタインを創った人はPleyel社でピアノの製造法を学んでいる。そんなところで縁もあった。ずいぶん遠縁だが。音の好みはそういうところで培われている。

マルタから運んできたピアノに向かうと故郷に帰ってきた感じがする。もし過去生があったなら、どこかで触っていたはずだ。なにしろ130年生きてきたピアノだから。