「演奏の本質」という本を読んでいたら、面白い記述があった:
佐藤眞氏談:感心したのは、鍵盤の一番奥を弾いていたこと。テコの原理とは正反対なんだ。後で自分でもやってみたんだけれど、奥を弾くと良い音がする。どうしてかというと鍵盤に無駄な動きがないんだ。しかもホロヴィッツのタッチは、あまり鍵盤から指を離さず、弾く瞬間に鍵盤を引っ掻くように指を内側に曲げるの。それによって次の指が鍵盤に落ちてくるように当たるだろ。それから、肘を身体につけて、脇を開けないんだよ。身体も動かさない。そしてすごく安定しているんだ。 (宇野功芳対話集、「演奏の本質」, 対談 佐藤眞 vs. 宇野功芳, p.8-9, 音楽之友社 2015.)
ホロヴィッツが鍵盤の一番奥を弾いていたという指摘である。これには驚いた。彼の演奏はしばしば映像で見ていたが、指を長く伸ばしているなぁ(手がでかいな)というくらいの印象しかなかった。改めて映像を見直してみる。確かにかなり奥の方を触っている。少なくとも黒鍵の半ばより奥の方を狙っていることがわかった。
Horowitz plays Liszt Consolation No. 3

Horowitzは鍵盤の奥を弾く
ホロヴィッツは19世紀のピアノ奏法を継承している人というのが私の理解である。19世紀末に製造されたSteinwayのピアノを嬉々として弾きまくる人だ。現代ではピアノの鍵盤はテコの原理を利用して手前の方を叩くのがよいとされているが、大きな音が出ること以外、あまり意味はないなぁと薄々感じていた。ホールでの演奏(コンサート形式)が一般化する以前(20世紀初頭まで)は鍵盤は奥の方を使うのがむしろ一般的だったのかもしれない。
なぜこの奏法に注目するかといえば、これがLisztの指遣いを読み解くヒントとなるからだ。ここしばらく超絶技巧練習曲に取り組んでいるのだが、謎なのはMazeppa(第4曲)の指遣い指定である。

Mazeppaの指遣い(Lisztによる)
中声部を左手(赤で囲った部分)と右手(青で囲った部分)で交互につなげて演奏するのだが、その際、左手は4(薬指)と2(人差し指)をスライドさせ、右手も同様に2(人差し指)と4(薬指)の指をスライドさせている。このような指遣いを指定したひとつの理由は、これらの音が明確に切れるようにするためである。現代奏法ではここは4(薬指)と2(人差し指)で鍵盤を押さえた後、3(中指)と1(親指)でつなぐのが普通だ。(右手なら3(中指)と1(親指)で押さえて、つぎに4(薬指)と2(人差し指)で鍵盤を押さえる。)しかし、この指遣いだと最初と次の和音が一瞬重なる可能性があり、音が濁る。Lisztはこれらの和音が明確を分離することを求め、4(薬指)と2(人差し指)の指遣いが連続するよう指定したと思われる。
しかしながらLisztの指定通りに弾くピアニストは皆無に近い。基本的には無視される。唯一、次の演奏がLisztの指定に従っているようにみえる。ただ非常に苦しそうだ。無理もない。思い鍵盤を4と2の指でスライドして弾くには体力がいる。
Emmanuel Despax – Liszt, Mazeppa (Transcendental Etude No.4)
楽譜の箇所は特に、力強く(fortissimo)かつ「がなり立てるように」(con strepito)と指定されているので、演奏者は大きな音を出そうとする。そうすると鍵盤の手前の方を使いたくなる。そこが罠で、手前の方を弾くと黒鍵を叩くために奥の方へ(大きく)移動しなければならなくなり、この前後の運動で時間をロスするし、体力も要るので弾き終わる頃にはへとへとになる。
ここでホロヴィッツの演奏に注目する。鍵盤の奥の方を使うようにするとどうなるか。鍵盤上の前後の動きが劇的に減る。鍵盤上で和音をスライドさせることが非常に楽になる。自分でやってみてすぐにわかった。あの苦労はいったいなんだったのか、、、という感じである。しかも音の粒が揃い、聞きやすい。
ここで自分のピアノの謎のひとつが解けた気がした。自分が弾いているピアノは130年前にパリ近郊で作製されたものだが、鍵盤蓋の裏が曲面上に削られており、なぜそんな形状なのか不思議だった。

鍵盤蓋の裏が微妙に曲面となっている(映り込んだ鍵盤の歪み方から凹み具合がわかる)
たしかに凹んでいると指が鍵盤蓋の裏に当たりにくいという利点はあるのだが、そんな奥の方で弾くことなんかあまりないし、少なくとも意図しない。ひっかき傷がついていて、そこに自分で傷を増やすのは嫌だなぁと思っていた。しかし、Pleyel(ピアノの製作会社)が無駄なことをやると思えない。ホロヴィッツの演奏を見て、そもそもできるだけ奥の方で弾くものだったのではないかという気がしてきた。これには鍵盤のアクションも関係していて、昔の楽器だから結構ルーズな設計で、現代ピアノのように鍵盤の手前の方で弾くと音がばらつきやすい。しかし、もっと奥の方で弾くものだったとすれば合点がいく。実際、奥の方を弾いてみるとアクションも安定しており、滅法弾きやすい。よくPleyelなどフランスのピアノはアクションが軽すぎると文句を言う者がいるが、現代ピアノのように鍵盤の手前の方を弾くからではないかと思われる。
ほかのピアノはどうだったのだろうかと探してみると、少なくとも1900年より前の楽器は鍵盤蓋の裏を凹ませていたことが確認できた。Pleyelに限られるようだが。
ピアノの奏法は時代とともに変わっていて、親指を多用するようになったのはLisztあたりから、との説もある。指遣いは音楽と直結するので研究もいろいろされているが、鍵盤を押さえる位置に言及している論文はみたことがない。(探してみればあるのかもしれないが。)何かすごく重要なことを見つけた気がする。こういうことは古いピアノを触っていないと気づかない。
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