Monthly Archives: 12月 2013

お座敷かかりました

北陸らしくない快晴でした。午後からお世話になっているGHに伺い、三味線演奏などしてきました。いろいろ話しすぎてついつい前半(?)が長くなり、30分ほど弾いてしまいました。

いろいろしゃべったので「津軽じょんがら」「あいや節」「津軽音頭」しか弾けませんでした

いろいろしゃべったので「津軽じょんがら」「あいや節」「津軽音頭」しか弾けませんでした

その後、うたごえ喫茶に変貌し、アコーディオンで伴奏。1970年万博の歌(こんにちはー)で始めたのですが、一曲目としてはテンションが高すぎたみたい。二曲目の「しゃぼん玉」で息が合ってきました。その後10曲は歌ったな。思ったより歌謡曲は歌う人が少なかった。今までにないパターン。お正月の歌で締めくくりました。

今日はテンション上がり気味だったかな

今日はテンション上がり気味だったかな

プレイエル・ピアノに会いに行く

午後金沢で春風亭小朝の噺を聞いてからピアノ工房を目指して移動を開始した。あいにくの悪天候で金沢中心部はひどい渋滞だったが何とか抜けてほぼ約束の時間通りに工房に到着した。

久しぶりに会ったピアノは元気そうだった。過酷な長旅だったにもかかわらずマルタにいたときと同じように美しい声を聞かせてくれた。多湿な日本(特に冬の北陸)に来たので、木が湿気を含んで膨み、アクションがところどころたどたどしかったが、それはいずれ解決する問題。ピアノ技術者のIさんも気に入ってくれて、よかった。この時代の楽器でこれだけしっかり鳴るものは珍しいとのこと。

響板の様子を確認。前回の修理で割れも補修されており問題なし。鉄フレームも再塗装されているとのこと。

響板の様子を確認。前回の修理で割れも補修されており問題なし。鉄フレームも再塗装されているとのこと。

ダンパーが少し動きが怪しいのでしっかり調整するとのこと。

ダンパーが少し動きが怪しいのでしっかり調整するとのこと。

20131215d

アクションもみせてもらった。ハンマーもオリジナルのままと知って驚いた。

いろいろなところに先人の知恵が詰まっていることを教えてもらった

いろいろなところに先人の知恵が詰まっていることを教えてもらった

ハンマーがオリジナル、つまり130年前に作られたものがそのままついていると知って驚いた。箱入り娘というか、あまり弾かれなかったらしい。私にとってはありがたいことだけれども。。。全体的に極力元々の部品を残して修復されているとのことで安心した。(この点はMの報告の通り。)このまま必要箇所だけ調整しましょうということに。ところどころ皮が破れたりしているところもあったけど、接着剤で貼れば大丈夫とのことでした。しばらく状態が落ち着くのを待って、それから調整して、雪が消えるのを待って(!)自宅へ運ぶことになりそうです。それまでは時々工房にお邪魔して進捗を眺めさせていただくことにします。

兎にも角にも無事に到着してよかったです。

ありがとう、Pleyel!

マルタからピアノを運んでこられた要因はいろいろあるが、Pleyel社が製造証明書を発行してくれたのは大きかった。マルタからイギリスへ一旦ピアノを運び、そこから日本へ向けて輸出するという大技ができたのはこの証明書のお蔭である。Pleyelについては「倒産する」という噂が流布しているが、Mが転送してくれたPleyel社からのメールでは否定されていた。ピアノ技術者の雇用は確保する、場所を移してピアノ製造を再開するという。少なくとも経営者はその意向だ。Pleyelにはピアノを作り続けてもらいたい。現存する最古のピアノメーカーとして生き延びて欲しい。

ピアノを個人輸入することについて。大変だからよした方が良いと思う(汗)。Pleyelを始めフランス製の古いピアノが好きだったらピアノ バルロン・ジャパンから買うのがよい。少なくともピアノが届かないんじゃないかという心配をしなくて済む。ピアノの質は当然保証される。フランスからピアノを輸入するということは試奏できないまま買うことでもあるから、信頼できる人にお願いするのがよい。

eBay などをみると安価なアンティークピアノが並んでいるが、こういうのは自分で直せる人か、あるいは修理にいくらかけてもよいと思える太っ腹な人向けだと思う。海外でピアノを見たり触ったりした経験からいうと状態のよいピアノは少ない。日本の厳しい基準からいえば全部壊れているといっても良いくらいだ。そういうピアノを輸入したら修理に最低100万円はかけないと使い物にならない。要するに作り直すことになる。元の状態を出来る限り残したまま再生するわけだから新規製作よりも大変だ。なおかつ直して使うだけの価値があるかどうかピアノの質を判断できる人は少ない。飾っておくだけなら何を買おうが問題ないが、演奏するために買うなら変なものには手を出さないことだ。

楽器は演奏されてこそ価値がある。このことを私はEdinburghにいるときに教えられた。20年前、スコットランドの首都で苦学しているとき、心を慰めてくれたのは古楽であったが、楽器製作の手ほどきをしてくれた恩人は17世紀に製作されたイタリアンチェンバロも直して弾ける状態にしていた。1904年製のエラールピアノも触らせてもらった。19世紀のスクェアピアノも。こういった楽器は独自の声を持っている。現代の楽器ほど声量はないが、個性がある。なんというか、魂を持っている感じがする。そこにはたぶん我々がどこかで忘れてきてしまった、先人たちの音楽への思いが込められているのだと思う。

私がピアノを弾き出したのはたぶん6歳のときで小学校に上がる前だった。幼稚園にあったオルガンをいつも一人で弾いて遊んでいたので、不憫に思った先生が親にそのことを伝えてくれたらしい。ピアノが欲しいかと親に聞かれた記憶がある。ピアノが沢山ならんでいる楽器店に連れて行かれたことを憶えている。そこで何台か弾き比べて、どれが一番好きか尋ねられたことも憶えている。その時自分が指さしたピアノはその店で一番高いピアノだったらしい。父の顔が引き締まった。でも買ってくれた。店から出るとき、母が父に向かって「本当によかったの?大丈夫?」と何度も聞いていたのを思い出す。我々家族は家を買って新居に移ってきたばかりだった。当時の父は35歳。家のローンを抱えた状態で高価なピアノを思い切って買ってくれた。どれだけ私が真剣に取り組むかはわからなかったはずだが。

そのピアノは今、妹のところにあって甥が時々弾いている。この前久しぶりに弾いたらベヒシュタインの音がした。Y社は当時、ベヒシュタインを真似ていたらしい。そんなことも最近知った。ベヒシュタインを創った人はPleyel社でピアノの製造法を学んでいる。そんなところで縁もあった。ずいぶん遠縁だが。音の好みはそういうところで培われている。

マルタから運んできたピアノに向かうと故郷に帰ってきた感じがする。もし過去生があったなら、どこかで触っていたはずだ。なにしろ130年生きてきたピアノだから。

ピアノは空を飛ぶ

ロンドンの倉庫に収まったピアノは10月21日、日本の運送業者に回収され、日本への旅路につく。

日本への移送を待つピアノ(その1)

日本への移送を待つピアノ(その1)

日本への移送を待つピアノ(その2)

日本への移送を待つピアノ(その2)

輸送前に一旦箱を解体し、台となっている木材4本が認証済みのものに取り替えられた。すべての手続きを終えて11月6日、成田空港へ到着した。そして11月9日土曜日、関西空港へ移送された。そこで11月11日に通関の手続きを済ませ、名実共に国内に入った。7月15日にピアノを購入する決意をして以来、18週間(約4ヶ月)の月日が流れていた。

あとは国内に輸送のみ。11月15日に国内輸送の業者に引き渡され、ピアノは一旦神戸にある倉庫に収められる。関西空港からすぐにも富山にあるピアノ技術者のもとへと送られるかと思ったのだが、、、輸送に時間がかかるようで12月初旬か中旬になると言われた(!)。ロンドンから空輸したのに、国内で一ヶ月足止めか(?)と途方に暮れたが、まぁここまで来たら仕方がない。山は越えたのだから後は構えて待つことにした。

その後、体調不良となり、帯状疱疹との診断を受ける。ピアノの輸送だけが原因とは思えないが、それもストレスになったのかもしれない。痛む胸を抱えつつ、お世話になった人たちにお礼のメッセージを送った。Aさんには無事ピアノが届いた旨、報告した。お礼の品を贈ろうとしたが何もしていないからと辞去され、Tさんを紹介できてよかったですとおっしゃった。まったくその通りでTさんの助けがなかったらピアノは運べなかった。Tさんにも謝意を伝えたが、迅速に情報を頂けたので的確に処置できましたと謙遜された。

思うに、ピアノを運べたのは運が良かった。AさんとTさんに出会えなかったらピアノをマルタから運び出せなかっただろう。日本の便利さに慣れていると何でも輸入できる気になるが、ヨーロッパは依然として秘境だ。特にマルタのような辺境の島は。経験のない者が手を出すと痛い目に遭う。

とはいえ話としてはこの方が面白い。Rubinsteinがいみじくも書いていた。悲惨な体験ほど後になって面白い話になると。彼はナポリの離れ小島に観光に行った際、騙されて帰りの船に乗れず、男色の男に誘拐・監禁されそうになったところを二階から飛び降りて逃げた。その箇所でそう書いていた。とんでもない体験の方が話としては面白くなるということだ。マルタから古いピアノを運んだ話はこれでほぼ終わる。楽しんでもらえるほど悲惨な体験だったかは疑問だが。

今日、ピアノを調整してもらうピアノ技術者の人に問い合わせたところ既にピアノは工房に届いていた。そういうわけで明日はそれを見に行く。ピアノはここから80 km の距離にある。車で一時間のところに。

旅するピアノ

ピアノがマルタからイギリスまでトラックで運ばれると聞いて少し安心した。というのも船で運ぶとピアノに潮風が当たってよくないという人がいるからだ。本当のところはわからない。船に積み込むまで(あるいは船から降ろした後)屋外に放置される時間が長いことの方が問題という人もいた。運送会社は船よりトラックが安全だという。リスクは低いに越したことはないからトラックで運んでくれるのはありがたかった。

マルタからイギリスまでは2,853km離れていて、車での移動だと運転し続けて30時間かかる。一日8時間運転したとして4日間というところだろうか。かなりの距離だ。途中、ローマ、パリなどの大都市の近くを通っていくようだ。

マルタからイギリスまでの道のり

マルタからイギリスまでの道のり

結構な距離があるので時間もかかるが、ピアノがその経路でロンドンまで行きたいのだろう。なぜならば、、、

そのピアノはパリ近郊の工場で1884年に製造された後、すぐにロンドンの支店に出荷された。ロンドンでどのような生活をしていたのかはわからないが、貴族の邸宅に据え置かれたのではないか。その年Pleyelが販売したもののなかで最も高価なピアノだから、注文があってロンドンへ送った可能性が高い。店頭に並べておいて買い手が付くのを待つような品ではない。

その後のピアノの足取りはつかめていない。我々が知っているのは、Mが買う前はローマにあったということだけだ。スペイン階段の近くにあったらしい。M自身はローマ近郊のアンティークショップでそのピアノに出会っている。その時(2000年)Mが撮影した写真をみると、重厚な造りの部屋で品の良い調度品に囲まれている。前の持ち主が誰だったのか、なぜピアノを手放したのかはわからない。どのようにしてロンドンからそこまで来たのかも。何しろピアノがロンドンへ送られたのは130年前のことなのだ。私の祖父が生きていれば約100歳。さらにその前の世代のことになるから誰かが書き残してくれない限り、ピアノの由来はわからない。おそらく第二次世界大戦前には大陸に渡っていたであろうけれど。(ロンドンにあったとすればドイツ軍の爆撃で燃えていただろうから。)

ピアノが置かれていたローマ近郊のアンティークショップ

ピアノが置かれていたローマ近郊のアンティークショップ

ピアノの側に佇むMの奥様

ピアノの側に佇むMの奥様

上の写真はMが撮影したもので、以下の資料のp.177-180より転載
http://jean.louchet.free.fr/pleyel.pdf

出典: Musique / Music (Jean Louchet piano pages)
http://jean.louchet.free.fr/Music.html

ピアノがマルタからローマとパリを経由してロンドンへ運ばれることになったとき、私はそのピアノが昔いたところを見たいのだと思った。もしそのピアノが人間だったら、そしてもうすぐ日本へ移り住むことを知っていたら、自分が以前過ごした土地を訪ねて、昔を懐かしみ、別れを告げたいと思うだろう。ピアノがヨーロッパに戻ることはない。だからこれらの土地を訪れるのは彼女にとって最後の機会なのだ。

ローマ、ミラノ、パリ、これらの都市を通るとき、ピアノは何を思い出すのだろう。ヨーロッパが二つの大戦を経験する前の、すべてが美しく幸せだった日々だろうか。彼女を歌わせた優れたピアニストたちのことだろうか。サロンに集い、その美しい音色に耳を傾ける高貴な人々の姿だろうか。その前に座って曲を書き続けた作曲家の姿だろうか。

彼女は冒険を好む。ドーバー海峡を三度も越えて再びロンドンに戻ろうとしている、今度は日本に行くために。私には彼女の真意がわからない。でも何か、きっといいことを思いついたのだろう。私はそれを手伝うために呼ばれた。ピアノがどのようにして日本に運ばれるのか、思い悩んでも仕方がない。何か問題が起きたとしてもそれを乗り越えて、いずれ日本にやってくる。そして日本の人たちを驚かせる。彼女はその機会を楽しみにしているのだ。

10月9日夜、Mから連絡があった。ピアノはイギリスに到着し、ロンドン近郊の倉庫に収まった。

Essexの倉庫に届いたピアノ

Essexの倉庫に届いたピアノ