Category Archives: 哲学カフェ

「きれいに稼ぐ」 第3回哲学カフェ「竜宮城」へのお誘い

前回3月15日に開催した第2回から間があいてしまいましたが、第3回哲学カフェを開催します。今回は「きれいに稼ぐ」ことについて話し合ってみたいと思います。

第1回のカフェは「お金の取れるサービスとは」と題して、お客さんに喜んでお金を払ってもらえるサービスを考えてみました。話し合ってみて、ニーズを満たすことは相手の弱みにつけ込むことに近いと考えている自分に気づきました。そこで立場を変えて、顧客として「気持ちよくお金が払える時」とはどのような時なのかを第2回のカフェで話し合ってみました。そこで気づかされたのは、気分よくお金を払ってくれたからといって受け取る側の気持ちがすっきりするわけではないということです。極端な例を挙げると、詐欺です。人を騙してお金を儲けても幸せではない気がします。たとえ相手が喜んでいたとしても。

やはり受け取る側の満足感に着目しなければならないということで、今回の提案です。第1回のカフェで「金銭を超えた価値があって、その部分に価格をつけられない」と教えてくれた方がいます。お金を受け取っても、それが金銭を超越した価値に対する謝礼であるなら、それはお金であってお金でないということでしょうか。お金の持つ穢れみたいなものが祓われているのでしょうか。第2回のカフェの後、タイで訪問した赤十字社関連のリハビリ施設について少し書きましたが、基本無料で診てもらえて、あとは寄附のみというこの組織、働く人の士気は高いと感じました。

基本無料でサービスを提供し、受け手が感謝の気持ちを表したければお志を頂くという商売(?)の仕方は「きれいに稼ぐ」姿になっている気がします。(いつもそんな「きれいごと」で済むとは思えませんが。)これも第1回のカフェで教えていただいたことですが、アーティストの作品に自分で価格をつけて払うという仕組みがあります。これなんかもきれいな稼ぎ方だなあと思いますが、自分から金品を要求しなければ、きれいな稼ぎ方になるのでしょうか。

たぶん極端な例をみているだけで、現実には、金品を要求していても「きれいな稼ぎ方」だなぁと感心するようなビジネスがあるのだと推測します。ただ安い物やサービスを顧客が納得する値段で提供したとしても「きれい」ではないような気がします。頑張っているなぁとは思うでしょうけれど。

格好いいとかスマートというのともまた違う気がします。「格好良く稼ぎたい」と言われると、自尊心を満足させるだけかと突っ込みたくなります。炎天下、地面にビニールシートを広げて商品を並べ、汗をかきながら物を売るのは格好悪いことでしょうが、見た目同じようなことをして「きれいに稼ぐ」ことは可能な気がします。汚い仕事できれいに稼ぐことは可能であろうと思います。

あとは「きれいな金」と「きれいに稼ぐ」ことの関係、逆に「汚い金」と「きたなく稼ぐ」ことの関係も気になっています。きれいに稼いだお金はきれいなのでしょうか。きたなく稼いだ金はたしかに汚い気がしますが、「きたなく稼いできれいに使う」という言葉もあるので、きれいに使えば汚い金もきれいになるのでしょうか。「きれいに稼ぐ」ことと「きれいに使う」ことは違う話なのでしょうが、同じ世界に属することのようにも思えます。

とりとめなく書きましたが、こんなようなことからお金の持つ力について考えられたらと思っています。

日時:2015年5月24日(日曜日) 13時30分から15時30分まで
場所:北陸先端科学技術大学院大学 先端領域社会人教育院 (東京サテライト)
会場:Room A/B (定員40名程度)
住所:東京都港区港南2-15-1 品川インターシティA棟19階
品川駅近くです.アクセスについてはこの案内の最後をご覧ください.
参加費:無料(事前のお申し込みをお願いします)

お願い:本会は哲学「カフェ」なのですが、会場運用の都合上、飲食に制約があります。飲料を持ち込むことはできますが、ペットボトルや缶、蓋付き紙コップなど、内容物がこぼれにくいものでお願いします。お弁当やサンドイッチなどは食べられません。スナックや菓子類などもご遠慮ください。ご不便おかけしますがご協力よろしくお願いいたします。

代表 (申し込み・問い合わせ)
藤波 努 (北陸先端科学技術大学院大学 ライフスタイルデザイン研究センター)
メールアドレス fuji@jaist.ac.jp
電話 0761-51-1716 (直通)

[参加を希望される場合] 下記のフォームに必要事項を記入してお送りください.
参加申込先:fuji(at)jaist.ac.jp
上記(at)部分は@マークに置き換えてください
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(1)参加者氏名:
(2)参加者連絡先
氏名:
所属:
E-mail:
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・いただいた情報は本会の連絡のためだけに利用します

ご参考:
北陸先端科学技術大学院大学 http://www.jaist.ac.jp/index-j2.html
知識科学研究科 http://www.jaist.ac.jp/ks/index.html

これまでに開催した哲学カフェ「竜宮城」の記録:
– 「お金の取れるサービスとは」 哲学カフェ「竜宮城」へのお誘い
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/wp/?p=2800

– 哲学カフェ「竜宮城」に参加してくださった皆様へ
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/wp/?p=2818

– 「気分良くお金が払えるとき」 哲学カフェ「竜宮城」へのお誘い
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/wp/?p=2823

– 第2回哲学カフェ「竜宮城」にご参加いただいた皆様へ
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/wp/?p=2833

カフェフィロとは?
http://www.cafephilo.jp/aboutus/aboutus0.html

寺田 俊郎 (上智大学文学部哲学科)
http://rscdb.cc.sophia.ac.jp/Profiles/70/0006927/profile.html

藤波 努 (北陸先端科学技術大学院大学)
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/

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補足1 哲学カフェってなに?

哲学カフェに決まった定義があるわけではありません。共通するのは、進行役がいて、テーマを設け、その場にいる人たちが話して聞いて考えるというシンプルなつくりです。ですから主催者や進行役によって雰囲気がちがってきます。徹底討論する、じっくり対話を進める、その場でテーマをつのる、進行役がテーマを提示する、哲学の知識・歴史をフル活用する、日常経験を活かす、などなど。「カフェフィロ(Cafe Philo)」が開く哲学カフェはケンケンガクガクの議論というより、<話すー聞く>を丁寧に積み重ねてじっくり考えることがおおいです。それでも進行役の個性や場所の雰囲気によって違ってきます。いろいろなカフェに参加して進行役の個性や違いを味わうのも、哲学カフェの楽しみ方の1つと言えるでしょう。
(http://www.cafephilo.jp/activities/activities_cp.html より抜粋)

補足2 北陸「先端科学技術」大学院大学と哲学がどう関係するの?
北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)は科学技術を教育研究する国立大学ですが、イノベーションやサービスなども得意分野です。理系に特化しているわけではありません。本会を主催する知識科学研究科は「知識」をテーマとしており、同じく知を扱う哲学とも緊密な関係にあります。

補足3 なぜJAISTで哲学カフェを開くの?
実は主催者(藤波)は学部生の時に哲学を専攻しておりまして、現在は科学技術分野にいますが、哲学的な課題は常に頭の隅にあります。哲学カフェは答のない問いに多面的にアプローチする際に有効と感じていますし、重要な問いは誰でも参加できる場で議論すべきと考えています。7年ほど前のことですが、以前にも哲学カフェを開いたことがあります:

・地域で「老い」について考える 哲学カフェ「竜宮城」
http://www.jaist.ac.jp/event/2008/post-42.html
http://blog.cabrain.net/CN008041/article/id/21775.html

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会場へのアクセス:
・JR東海道本線・横須賀線・山手線・京浜東北線「品川駅」
・JR東海道新幹線「品川駅」港南口 徒歩3分
・京浜急行線「品川駅」高輪口 徒歩5分

詳細は以下の地図をご覧ください
http://www.jaist.ac.jp/satellite/sate/access/index.html
JR品川駅の中央改札を出て「港南口」方面へ歩いていくと連絡歩道があり、ビルまで直結しています。港南口から右斜め方向にインターシティのビル群が見えます。駅に一番近い楕円形ガラス張りの高層ビルがA棟です。そのビルの19階に東京サテライトがあります。歩道橋伝いに入館していただくとそこが2階です。2階入口正面にエスカレーターがありますので、それを使ってまず3階に上がって下さい。3階からエレベータで19階まで上ってください。19階で停まるエレベータは3列あるうちの中央列に並んでいます。(ほかの列にあるエレベータは19階で停まりませんのでご注意下さい。)

第2回哲学カフェ「竜宮城」にご参加いただいた皆様へ

2015年3月15日、JAIST東京サテライトにて開催した哲学カフェにご参加くださった皆様、ありがとうございました。久しぶりに顔を見せてくれた卒業生らもいてうれしかったです。参加者が多様なところがこういう集まりのよいところかと思います。老若男女とまでは言いませんが、普段あまり話すことのない人たちと特定のテーマについて深く話せるのは哲学カフェの魅力ですね。

「気持ちよくお金が払える時」というのが今回提案したテーマでしたが、お金を払うことに納得できることが前提になっていると気づきました。その上で「気分がよい」かどうかが問題になるわけですが、結構ハードルの高い話題であったと思います。

敢えて難しいところから振り返りを始めますと、なぜ気分を問題にしたのかといえば、(今回気づいたことですが)「よい気分」が伴わなければ経済が成長しない、人々が幸せになれないという直感によります。これには幾分体験も含まれていて、ベルリンの壁崩壊以前の1988年に新婚旅行で東欧を旅したときのこと、道行く人々の表情が非常に暗かったことが印象に残っています。

車を借りてウィーンからブダペストまで行き、着いたのが夜だったこともあって、古い映画の世界に迷い込んだかのようなセピア色の光景にめまいを覚えましたが、それは序の口で次に訪れたブラチスラバ(現在のスロバキア)はさらに寂れており、町中で皆が美味しそうに食べているアイスクリーム(と思った代物)に惹かれて食べてみたら不味くて食べられなかったことが忘れられません。計画経済は合理性の賜と思いますが、合理性を追求していたら人間は幸せになれないと確信しました。

ということがあって、私としては「気分よく」というところに引っかかるわけです。

この気分の良さがどこから来るのかということについて、今日はいろいろ体験談も皆様から聞けて面白かったのですが、ひとつには丁寧な接客が絶大な影響を及ぼすと感じました。杉山さんがおっしゃっていたお弁当屋さんの話で、おつりとして紙幣を受け取っている間、小銭を出すのを待ってくれるという気遣いが印象的でしたが、そういうことができる人だから素材の選択から調理の仕方まで信頼できるのだろうと思います。そういうのが「もてなし」というのでしょうか。接遇の重要性を感じました。

二つ目の気分のよさはもう少し理性的で、好きなアーティストが次の作品を作れるように作品にはお金を払うとか、フェアトレードのように働く人が人間らしい生活を送れるよう、商品に正当な対価を払うことで満足感を得ることと理解しました。こういった配慮は経済全体をみた判断かと思います。キーワードとして「持続可能性」というものも出ましたが、お金を払わないと結局困るのは自分だという考え方のように思います。

ここまでは自分にとって利益があるかどうかが重要という話だと思うのですが、寄附については少し変わってくるように思います。交通事故で親御さんが亡くなった子ども達へ寄附するとか、恵まれない第三世界の子どもを経済的に支援するといった行為は、持続可能性という観点からは説明しずらく、公正とか正義といった、もう少し倫理的な動機が織り込まれているように思います。

困窮している子がチャンスをつかめるように助ける、少なくともほかの子ども達と同じ出発点に立てるようにしてあげる。これも民主主義を保つための行為といえなくもないですが、それが目的(動機)とは言いづらい感もあります。(公正が民主主義に先立つ、といったらよいでしょうか。公正さはむしろ共産主義や社会主義の方が厳密に追究したのかもしれません。)

あとひとつは責任を果たすということの説明が面白かったです。長男だから母親の葬式にお金を沢山出すとか、親戚の結婚式だからけちらずに大金を祝い金として渡すといったこと、それが満足感につながるという話でしたが、そこには社会的役割が大きく関与していると思います。人によっては(たとえば長男の妻にとっては)必ずしもうれしくないのでは、という指摘もありましたが、そこは価値観の違いでしょう。

カフェで出た話題はだいたいこういった点かと思います。途中、話しあっている内容に我々自身の社会的役割や年齢が影響しているのではないか、仮に我々が80歳とか90歳だったら議論の内容が大分変わるのではないかと私が発言しましたが、寺田さんに「ここは自分に依拠して話す場だから」と諭されましたので、その線を追うのは止めました。しかし、少し、以下ではその自分の考えを推し進めて脱線してみます。(カフェ外ですからお許しいただけるかと。。)

後付になりますが、いろいろ話を聞いていて、お金とのつきあい方に段階があるように感じました。それがある種、人間の倫理感の発達と響き合うところがあって、何か近いことを問題にしているように思うのです。人が成長するなかで(お金についても)いろいろな考え方をするようになるわけですが、それらがタマネギの皮みたいに核から表面まで並存しているように思いました。

子どもにお金の使い方を教える場合を考えてみましょう。お店に連れて行って、何か好きなお菓子を買わせるとします。子どもは自分が気に入ったものを選ぶでしょう。選んだらその場で食べて良いかというとそんなことはなくてレジに行って勘定を済ませなければなりません。物を買うとはどういうことかを教える必要があります。子どもはそこでお金という概念を学びます。対価の概念といってもよいでしょう。

もう少し成長すると、お金を払えば何を買っても良いという考えに疑問を抱くようになります。少し安いからといってどこで誰が作ったのかわからない野菜を買って良いのか。多少お金を余分に払ってでもよいから地元の人が作った野菜を買った方がよいのではないか。多少高くても東北の農産物を買って、彼の地の人々が自立できるように支援すべきではないのか、などなど。もう少し大域的にものをみて何を買うか判断するようになります。そこでは価格が自分に納得できるのかということだけでなく、物を買うことが経済・社会にどのような影響を及ぼすのかということも配慮しているといえます。

自分のことだけでなくほかの人のことも考えているという点で、ここには大きな倫理的跳躍があると感じます。社会的責任を果たすということもここに関係しているのでしょう。社会的地位を得て、収入も増えてきたら自分のことだけではなくて、弱い立場にあるほかの人たちのことも考えなければならない。そういう義務感が発生してきて、それがお金の使い方にも反映されると思われます。

この段階に至って初めて人がお金を手段としている(人がお金に使われていない)状態になっているように思われます。しかしそういう心境に至るにはある程度収入が必要とも思われ、ある年齢以上にならないとそういった選択ができないのも致し方ないことかもしれません。(稀に学生であっても懐が豊かという人もいるようですが。)

しかしその境地に至った人がお金に苦労していた頃の気持ちを忘れてしまったかというとそんなことはなくて、お得な物に敏感であったり、ちょっとしたサービスに感激したりといったことはあるので、社会全体をみながら合理的にお金を扱う感覚は目前のうれしさに被さる形で、並行して存続しているのでしょう。

社会的役割や責任感と関連する消費の満足感は、(社会的に)現役である世代特有のものというのが私が指摘したかったことでした。これを越えた心持ち(さらに高い心境)から来る寄附といった行為はもっと高次のものではなかろうか。お金の持つ魔力みたいなものを完全に上書きしている感があります。

社会的役割を果たすためにお金を使うという立場は、お金の力を信じているという意味でまだお金の魔力にとらわれている気がします。操作的な使い方といったらよいのか。まだ合理性の範囲に留まっているように思われます。自分への見返りを期待しないで寄附するというのはさらに高いレベルの行為でしょう。

というところまで書いていて、これってキェルコゲールのいうところの実存の三段階説だなと思い至りました。(彼の主張の詳細は割愛します。)私が途中、カフェ参加者がみな高齢者だったらどうなるかという仮定の話をし出したのは、人間の限界(いずれ死ぬということ)を悟ることが三段目への足がかりになると(何となく)感じていたからで、あの世にお金は持って行かれないから寄附して他の人に役立ててもらおうという心境かと推察した次第です。

私は何カ所かに寄附していますが、三段階目の心境から寄附している感はあまりなくて、まだ二段階目に留まっているようです。公正さのためというのが自分で納得している理由であって、純粋に人を助けたいという気持ちが主ではないように思います。自分の利益を考えず、純粋な気持ちで寄附できるようになるにはもう少し年齢を重ねなければならないというか、死に近づかなければならないのでしょう。

辻野さんが貨幣に関して合理的な説明を示して下さいましたが、それを受けて、寿命が尽きつつある高齢者が寄附しようという気持ちになるのは富の再分配という効果があって、本人の動機に関わらず、全体から見れば合理的な行為なのかもしれないと思いました。あくまでも想像ですが、余命一年とか二年と知って、資産に余裕があったら、寄附することで深い満足を得られるのではないでしょうか。未来を少しでもよい方向に変えられたという満足感といいますか。(いや、そんな風に考えるのはまだ二段階目にいる証なのかも。)

「気持ちよくお金が払える時」というお題でしたが、結構深いところへ行けたと思います。自分の問題設定がどう変化したかというと、相手に気分よく払ってもらえばもらう側も気分がよいだろうというのは一面的な理解であったと反省しています。払う側と受け取る側の気分はかならずしも一致しない。

以前、女が男を次々と騙して資産を巻き上げるという結婚詐欺事件があり、男の側が被害届を出さなかったり、騙されたと思っていなかったり、騙されてもいいんだ(むしろ同情している)と言っているのが不思議でしたが、男の側が異なった倫理的段階にいると考えれば納得出来る話で、愛が見返りを求めないことであれば、これら(我々が)騙された(と思っている)男達が不満の声を上げないのも当然かと思われます。ただ非対称性(女の方は男の金を愛していたの)が第三者からみて気の毒だというだけであって。

(同じ男として)寂しい気もしますが、提供側が気分よくお金を受け取ることと、支払う側が気分よくお金を出すことの間には非対称性があり得る。理由は必ずしも一致しない。受け取る側は受け取る側で納得が必要ということでしょう。きめ細かいおもてなしができたと満足するか、社会の不平等を是正することに貢献できると満足するか、、、えーと三点目が出てこない。無償の愛から商行為をする人はお金をうけとって満足を得るのでしょうか。「無償の愛からの商行為」という表現じたいが矛盾をはらんでいる気もしますが。

寄附を受け取る人の満足感について少し触れます。最近訪れたバンコク(タイ国)近郊のリハビリセンターは赤十字が運営していましたが、国からの補助と寄附で成り立っており、料金に相当するものは患者から受け取っていないと言っていました。(要するに基本、無料です。)患者の家族は症状がよくなったときにお礼としていくらかお金を渡しているようですが、対価というよりは感謝の気持ちを表すもののようです。受け取る側の気持ちを想像すると、自分たちの行為が人々の役に立った満足感を感じるのかなと思います。82歳になるという院長は「この年になっても日々忙しく働いている。人々が私を休ませてくれない。」といいつつうれしそうでした。

最後の例は、おそらく料金を設定して、お金を受け取るようになったら、働いていても義務感ばかり先に立って楽しくないだろうという気がします。払う側も料金にみあったものを要求するでしょうし。とすると、施術は無料、運営は寄附で賄うというのは賢いやり方のように思われます。そういったことから何となくですが最強のビジネス形態が見えてきます。Linuxとかオープンソースの活動は既にそうなっているのではないでしょうか。「フリー」(一見、無料)というのは最強のビジネスのやり方のような気がしてきました。

定額で授受するものはサービスとしてはすでに死んでいるのではないか。そのやりとりから得られる喜びが(提供側、受け手側双方にとって)すごく少ないという点で。無償で与え、受けた恩義に対して寄附することがよろこびをもたらすとしたら、経済活動を盛んにするという観点からはそれがもっとも効果的なやり方なのかもしれません。そのドキドキ感が世の中を良くしていくのではないかと夢想します。

私は金銭の授受にとらわれていましたが、見方を変えて「フリー」(一見、無料)という現象を考えても面白そうだなと思いました。「フリー」が経済活動を活性化するのか。倫理的にみてどうなのか。一見、経済を破壊し、貨幣の価値を貶めるかのようにみえるのにうまく行っているようにも見えるのはなぜなのか。(欲望を刺激するのか、無償の愛なのか。)長くなりましたが以上が私の感想です。

第2回哲学カフェ「竜宮城」

第2回哲学カフェ「竜宮城」

「気分良くお金が払えるとき」 哲学カフェ「竜宮城」へのお誘い

 2015年1月10日に開催した第一回に続き、北陸先端科学技術大学院大学主催、カフェフィロ協力で哲学カフェ(Cafe Philo)第二回を開催します。今回も哲学カフェ実践の第一線で活躍されている上智大学の寺田俊郎先生を進行役としてお迎えして、サービスとお金の関係について考えてみます。

 前回、「お金の取れるサービスとは」というテーマで参加者の皆様と話し合いましたが、話しているうちに、自分としては「人の弱みにつけ込んでお金をもらう感じ」が嫌なんだと気づきました。より本質的な問いは、喜んでお金を払ってもらえる、受け取る自分も悪い感じがしないという状況がどうやったら得られるのかということでしょう。そんな思いから今回の哲学カフェには「気分良くお金が払えるとき」というテーマを提案します。

 テーマ設定にあたり、世間はどう考えているのかを知ろうと、ネット検索してみたのですが、そのものずばりを論じているものが見当たりません。釣り銭をどうするとか、キャンセル料がどうかとかそんなことばかりで、どんな時に気分よくお金が払えるのかというを考えているものが見当たらないのです。

 価値と価格の関係は提供側で論じられますが、受け手側の論考がほとんどないように思います。価値に対して割安という「お得感」とか、ボランティア活動は無報酬の方が気持ちがよいといったことはありますが、お金を払って気分がよい、幸せになるというのとはまた違ったことのように思います。金持ちが遊郭一軒借り切って大盤振る舞い、皆が喜び本人も気分がよい、みたいなことは現代では見かけませんし。

 節約を美徳とする教育を小さい頃から受けてきたせいでしょうか、払って幸せな気分になった体験が思い出せません。お世話になった人に贈り物をするというのはありますが、その感謝の気持ちとは幾分違うように思います。衝動買いで気持ちが高揚するというのもありますが、「よい気分」から連想される穏やかな心持ちとはかけ離れたものかと思いますし。レストランで美味しいものに出会ったとき、うれしくなってチップを渡すことはありますがそんな単純なことに帰着されることなのかどうか。もらって当然という顔をされたら気分が冷めるということもありますし。

 自分の体験から敢えて例を挙げるなら、クリスマスが近づく頃、障害者が共同で暮らす施設から募金のお知らせが届いていくらか寄附する時、この人達もいいクリスマスを迎えられそうでよかったという(幸せな?)気持ちになりますが、こういったことは特殊かと思います。神社でお札や破魔矢を買い求める人の気分とは違うように思うのですが、その違いは何かと問われるとうまく答えられません。

[案内としてはずいぶん長くなってしまいました。以下、実務的なお知らせです。]

 働いている人、大学で学んでいる最中の人、働くのをやめて自由に生きている人などなど、どなたでも参加できます。土曜日の午後、答のない問いを一緒に、とつとつと考えてみませんか。みなさまのご参加をお待ちしております.

日時:2015年3月15日(日曜日) 13時30分から15時30分まで
場所:北陸先端科学技術大学院大学 先端領域社会人教育院 (東京サテライト)
会場:Room A (定員20名程度)
住所:東京都港区港南2-15-1 品川インターシティA棟19階
品川駅近くです.アクセスについてはこの案内の最後をご覧ください.
参加費:無料(事前のお申し込みをお願いします)

お願い:本会は哲学「カフェ」なのですが、会場運用の都合上、飲食に制約があります。飲料を持ち込むことはできますが、ペットボトルや缶、蓋付き紙コップなど、内容物がこぼれにくいものでお願いします。お弁当やサンドイッチなどは食べられません。スナックや菓子類などもご遠慮ください。ご不便おかけしますがご協力よろしくお願いいたします。

代表 (申し込み・問い合わせ)
藤波 努 (北陸先端科学技術大学院大学 ライフスタイルデザイン研究センター)
メールアドレス fuji@jaist.ac.jp
電話 0761-51-1716 (直通)

[参加を希望される場合] 下記のフォームに必要事項を記入してお送りください.
参加申込先:fuji(at)jaist.ac.jp
上記(at)部分は@マークに置き換えてください
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(1)参加者氏名:
(2)参加者連絡先
氏名:
所属:
E-mail:
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・いただいた情報は本会の連絡のためだけに利用します

ご参考:
北陸先端科学技術大学院大学 http://www.jaist.ac.jp/index-j2.html
知識科学研究科 http://www.jaist.ac.jp/ks/index.html

カフェフィロとは?
http://www.cafephilo.jp/aboutus/aboutus0.html

寺田 俊郎 (上智大学文学部哲学科)
http://rscdb.cc.sophia.ac.jp/Profiles/70/0006927/profile.html

藤波 努 (北陸先端科学技術大学院大学)
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/

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補足1 哲学カフェってなに?
 哲学カフェに決まった定義があるわけではありません。共通するのは、進行役がいて、テーマを設け、その場にいる人たちが話して聞いて考えるというシンプルなつくりです。ですから主催者や進行役によって雰囲気がちがってきます。徹底討論する、じっくり対話を進める、その場でテーマをつのる、進行役がテーマを提示する、哲学の知識・歴史をフル活用する、日常経験を活かす、などなど。「カフェフィロ(Cafe Philo)」が開く哲学カフェはケンケンガクガクの議論というより、<話すー聞く>を丁寧に積み重ねてじっくり考えることがおおいです。それでも進行役の個性や場所の雰囲気によって違ってきます。いろいろなカフェに参加して進行役の個性や違いを味わうのも、哲学カフェの楽しみ方の1つと言えるでしょう。
(http://www.cafephilo.jp/activities/activities_cp.html より抜粋)

補足2 北陸「先端科学技術」大学院大学と哲学がどう関係するの?
 北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)は科学技術を教育研究する国立大学ですが、イノベーションやサービスなども得意分野です。理系に特化しているわけではありません。本会を主催する知識科学研究科は「知識」をテーマとしており、同じく知を扱う哲学とも緊密な関係にあります。

補足3 なぜJAISTで哲学カフェを開くの?
 実は主催者(藤波)は学部生の時に哲学を専攻しておりまして、現在は科学技術分野にいますが、哲学的な課題は常に頭の隅にあります。哲学カフェは答のない問いに多面的にアプローチする際に有効と感じていますし、重要な問いは誰でも参加できる場で議論すべきと考えています。7年ほど前のことですが、以前にも哲学カフェを開いたことがあります:
・地域で「老い」について考える 哲学カフェ「竜宮城」
http://www.jaist.ac.jp/event/2008/post-42.html
http://blog.cabrain.net/CN008041/article/id/21775.html
・舞鶴にある特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」にもお邪魔しています
http://torindo.org/【とつとつメモ】1とつとつダンスpart2-愛のレッスン/

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会場へのアクセス:
・JR東海道本線・横須賀線・山手線・京浜東北線「品川駅」
・JR東海道新幹線「品川駅」港南口 徒歩3分
・京浜急行線「品川駅」高輪口 徒歩5分

詳細は以下の地図をご覧ください
http://www.jaist.ac.jp/satellite/sate/access/index.html

JR品川駅の中央改札を出て「港南口」方面へ歩いていくと連絡歩道があり、ビルまで直結しています。港南口から右斜め方向にインターシティのビル群が見えます。駅に一番近い楕円形ガラス張りの高層ビルがA棟です。そのビルの19階に東京サテライトがあります。歩道橋伝いに入館していただくとそこが2階です。2階入口正面にエスカレーターがありますので、それを使ってまず3階に上がって下さい。3階からエレベータで19階まで上ってください。19階で停まるエレベータは3列あるうちの中央列に並んでいます。(ほかの列にあるエレベータは19階で停まりませんのでご注意下さい。)

哲学カフェ「竜宮城」に参加してくださった皆様へ

10日(土曜日)午後の二時間、時間を都合してご来場くださり、ありがとうございました。初めての試みなのでどうなるやら、、と気を揉んでおりましたが、多くの方にご参加いただき、また活発にご議論いただき、うれしく思います。ご記入いただいたアンケートを拝見読しましたが、概ね好意的に受け止めて頂いたとわかり、安心致しました。

哲学カフェではそれぞれの人が何を受け取るのか、どう変わるのかが重要ということですので、ここで全体の議論をまとめたりはしませんが、首謀者ですので混乱した頭の整理も兼ねて自分自身がどう感じたかを述べます。

二時間いろいろご議論いただいて、自分が何にひっかかっていたのかがわかった気がします。最後の方で私が「弱みにつけ込むこと」に何度も言及したので失笑(顰蹙?)買いましたが、仕事とはいえ人の弱みにつけ込んでいる感じが罪悪感につながっていたと思います。いくつか挙げた例のひとつに介護がありますが、困っている人を助けてお金をもらうことに対して抵抗があったと気づきました。

「弱み」を穏当に言い換えれば「ニーズ」なのですが、「健常者 vs. 認知症の人」の場合など提供者と顧客の立場が対等でない場合、相手のニーズを満たすことはその人のプライド等を損なうことでもあります。介護の場合は相手のプライバシーを侵害するわけです。それでも介護が成り立つのは失うものと得られるものを比べたとき、得られるものの方が多いからでしょう。しかし、引き算するとプラスだからといって侵害したことが正当化されるものでもなかろうと思うのです。そこは本来、引いたり足したりできるものではないから。(失うものと得られるものはまったく違うものだから。)

実際に介護する人はまだいいと思うのですが、我々研究者は介護する人を支援するという名目で間接的に関わるので、表現は悪いですが、やはり「弱みにつけこんでいる」気がします。現場か研究か、どちらが大事なのかと問われれば(研究者は)論文書くことが第一なので、言葉は悪いけど「利用している」んですよね。私はできるだけそういうことにならないよう、出入りしている施設では時々歌の伴奏を務めたり、三味線弾いたりして受けた恩を返そうとしていますが、そういうことを差し引いても、結果として搾取している感は否めません。

今回の哲学カフェに参加したことで、サービスでお金をもらえる方法を見つけたかと問われれば、なかなか難しい。値段の付け方が重要ということはわかりました。航空業界でLCCがやっていることを教えてもらいましたが、その話に示唆を受けました。細かい値段設定と多くの選択肢があること。一方、提供する側からみれば安定供給や品質保証が難しくなるという点。そうなるとそれはメニューに含めないで、提供できるときに時価で売るほかない。「時価」のなかには無償も含まれる。たとえば受付カウンターでにっこり微笑むことなど。投げ銭を受ける大道芸人もそれに近い状況にある。

メニューにないものを売ったり買ったりするのは難しいとわかりました。同じく話し合いの中で、買い手が値段を決めてミュージシャンのアルバムを買う話を教えてもらいましたが(それから新人発掘を専門とする画廊とか)、そういうのはかなり創造的なことで、市場価値を創っていくことなのでしょう。こういう場合にお金を払うのは、応援する意味合いが強く、ニーズを満たしてもらった見返りに(お礼として)払う場合とはかなり異なる。介護と比べると立場が逆転して、お金を払う人の方が強い。払う人が価格決定権を持っているということですね。

関連する話題として、チップを期待されて何か(よいことを)してもらってもありがたくないという指摘がありました。それからチップをもらっているうちに当初価格がなかったものに価格がついてしまうこともあるという指摘も印象的でした。(発展途上国でときどき見られる)靴磨きの押し売りとか交差点の強制窓磨きも、最初は誰かが報酬を期待せず善意で始めたのかもしれません。しかしチップをもらっているうちにもらって当たり前と思うようになり、それからは代金を最初から請求するようになったという説。

これには思い当たることがあります。かれこれ30年ほど前、バリ島に(一年おいて)二度行ったのですが、最初の訪問の際、村の広場で行われている影絵を見に行ったときは入場料は紹介者へのお礼みたいなものでした。紹介者に心付けを渡しておくと、開演時間(?)が来たときにホテルに訪ねてきて会場まで連れて行ってくれました。それが二年後には入り口で入場料を徴収するようになっていました。しかも出演者が演奏終了時にカーテンコールまでするようになっていて。(お辞儀までした。)前はそんなことをする人はいなくて、演目が終わったら静かに三々五々散って帰る感じだったのですが。

価格決定のメカニズムは経済学の領分なので深入りしません。自分としては単に「お金のもらえるサービス」を問題にしたかったのではなくて、「喜んでお金を払ってもらえるサービス」が気になっていたようです。弱みにつけ込んでお金をもらっても(罪悪感なしに)受け取れる気がしませんから。「ありがとう」と言ってもらえて、その上お金も頂ける。自分もうれしい。そういう風にするには(なるには)どうしたらよいのかが知りたかったのだと思います。

今回の話を通してお金が欲しそうな態度で「善いこと」をしても駄目だということはわかりました。金銭を超えた価値があって、その部分に価格をつけられない。だから払わないこともあるし、逆にとんでもない額でも喜んで払うことがある。(払うというよりは、差し上げる。)そういうことがあることもわかりました。うまく価格を付けられないから、(提供者と受け手の)関係性で値段が変わったり、受け手の感受性で変わったりする。そういうことが何度も、人を変え、場所を変え、続くうちに価格が形成されていくということなのでしょう。

巷でいう win-win の関係というのはそういうことだろうと思うのですが、自分にとってはその意味づけが濃くなった気がします。単に用語としてのみ知っていたことが、血肉をもって存在するようになりました。先日の哲学カフェに参加して私が得たものはそういう変化でしょう。ひらたく言えば理解が深まった。まぁそれだけだと、あまり有り難みがないですが、その場にいて体験を共有した人にしかわからないことはあるでしょう。

さて、次回は何を話題にするかですが。。立場を変えて、払う側の視点で「喜んでお金を払いたいサービス」を考えることも続編としてはよいかと思うのですが、会場で参加者に尋ねた限りでは日本に住んでいてチップを払ったことがないという方が大半なので、これを考えるのは無理かもしれません。金銭のやりとりを越えた、その先にあるものを考えるところが哲学的であり、哲学カフェに相応しいテーマであると思うのですが。。

次回は3月14日を予定しております。開催場所、時間等は今回と同様の予定です。今後ともご支援のほど、よろしくお願いいたします。

哲学カフェの様子

哲学カフェの様子

ひとこま

ひとこま