Monthly Archives: 11月 2013

税関による妨害

8月26日夜 私からMへ

あぁ、ひどい知らせだ。しばらくの間、ショックで動けなかった。君もショックだったろうね。

そうだな、古いピアノの価値は様々だ。大がかりな修復が必要なものは1000ユーロ以下で売られている。話を作り上げてピアノの売却額を切り下げられないだろうか。君は諦めているみたいだけれど。専門家に頼んで、そのピアノの価値は1000とか2000ユーロくらいのものだと言ってもらったらどうだろう。税関の人たちはそういう作り話を信じたふりをしてくれないほど冷血なのかな?

8月26日夜 Mから私へ

問題はピアノの輸送を請け負った業者がピアノの請求書のコピーを税関に渡してしまったことだ。ピアノに保険を掛けるために必要だというので写しを渡したのだが、それが税関の手にも渡ってしまった。今更金額を変えても信じてもらえないだろう。

とりあえず文化遺産局に行って交渉してみる。というのも、自分の家財道具の一部としてピアノを運んでも、無知な税関職員が税を課す恐れがあるからだ。少なくともそういう事態が起きないようにしないとな。

いっそのことトラックで荷物を運んでやろうかとも思ってる。そうすれば税関の目を逃れて荷物を運べるだろうから。とにかく必死になってこの馬鹿げた問題を解決するよ。

8月27日夜 Mから私へ

文化遺産局に行ったが、どうしようもないと言われた。「1884年に作られたものはアンティーク品です。それ以外の何ものでもありえません。」と事務官が言った。今度は弁護士に相談してみる。状況はこんな感じだ。今夜はよく眠ってくれ。

8月27日夜 私からMへ

連絡ありがとう。そうだな、その事務官の言うことはまったくもって正しい。:-< 弁護士に相談に行くなんて、そんな面倒なことになって申し訳ない。どれほど交渉に時間がかかろうと我慢するよ。先ほど、帰国したところだ。家にいる方が寛げる。怯むことなく困難な状況に立ち向かう君の勇気を賞賛する。

8月28日午前 私からMへ

イギリスでのCITES手続きだけど、Pleyel社の証明書があれば問題ないでしょうとのことだった。

8月28日午後 Mから私へ

要点は、マルタの税関がピアノを楽器としてではなくアンティーク品と見なしていることだ。あのピアノには通関規則92012000項(楽器類に関する規定)が適用されるはずだが、税関は規則9706000090項(美術品、収蔵品、およびアンティーク品)を適用するという。その変更に伴い輸出許可が取り消された。文化財保護税を課すだけじゃない、虚偽の税申請をしたから訴えると言われた。

8月28日夜 私からMへ

深刻だな。そんな非道いことになって申し訳ない。いくつか教えてくれ。

  1. ピアノを自分の家財としてイギリスに運んでも文化財保護税を課せられるのか?
  2. そのピアノをマルタ国内で誰かに売っても文化財保護税を課せられるのか?
  3. 虚偽の税申告を咎められたというが、それはピアノを「間違った」項目で申請したからか?
  4. ピアノを売らず自分の家財として所有しつづけても彼らは虚偽申請で訴えるのか?

「虚偽の税申告につき訴える」のは文化財保護税を払わせるために圧力をかけているのだろう。もし文化財保護税をおとなしく払ったら訴えを取り下げるだろうか?

8月28日夜 Mから私へ

回答は以下のようになる。

  1. No. EU内で自分の家財を動かす分には税がかからない
  2. No. そんなことはないよ
  3. Yes. 税関の言い分は、ピアノが楽器としてではなく美術品として申告されるべきだったというものだ。
  4. Yes. それを防ごうと頑張っている。この騒ぎでピアノを売るのが嫌になったと税務官に言ったが、ひねくれた心を持った彼らはそれを税と罰金を逃れるための言い訳としか受け止めていない。

(圧力について)皆、この国の税関はとんでもなく腐敗していると言っている。(文化財保護税をおとなしく払ったら訴えを取り下げるだろうか?)わからない。彼らは虚偽の申請で訴えることと輸出の話は別と見なしている。あたかも「君は嘘をついただろう、だから罰金を払いなさい」と言っているようなものだ。

カフカの小説みたいだな。でもこれは実際に起きている悪夢だ。

8月28日夜 私からMへ

返信ありがとう。どういう状況なのかよくわかったよ。二つの側面があるわけだな。ひとつはピアノをどうするかという問題、もうひとつは税関からつけられた因縁にどう対応するかという問題だね。引っ越しに関してだけど、ピアノはイギリスまで持って行くんだろう?税関の訴えについては防衛しなければならないわけだな?今の時点ではピアノの輸送より、税関の訴えの方が気がかりだというわけ?

(すぐ後のMからの返事:いずれもYESであった)

8月28日夜 私からMへ

状況がだいぶ明確になった。税関が実際に訴えることはないんじゃないかな。「訴えてやる!」なんていう捨て台詞はドイツに住んでいる時よく聞いたし、言われた。でも実際に訴えた人はいなかったよ。相手を威嚇するための陳腐な台詞だ。

それだけ税関が高飛車に出る背景には、彼らが触れて欲しくない何かがあるからじゃないだろうか。たとえばピアノが楽器なのかアンティーク品なのかということ。その点は大いに議論の余地があるところと思うが、彼らはそれを議論したくないわけだろう?実際に法廷に持っていくには税関は君が意図的に嘘をついたことを証明しないといけない。しかし、ピアノは楽器として使われていたわけだし、それを証言してくれる人は大勢いる。もし法廷で争うことになったら、負けるかもしれないと税関は考えているのではないかな。だからそんなに威圧的な態度をとるんだと思うよ。

無実の市民を訴えて税金を無駄遣いするとはひどい奴らだ。少し痛い目に遭わせてやらないと気が済まない。新聞記者に知り合いはいないのか?その事例を話したらどうだ?税関の態度も変わるだろう。というのが私の意見だが。。確信はないけど彼らも黙るんじゃないか。

8月28日夜 Mから私へ

心強い言葉をありがとう。心に留めておくよ。生徒の父親が有名な弁護士だから電話した。24時間以内に物事はもう少し明確になるだろう。

8月28日夜 私からMへ

経験上、実際に法廷で戦った経験のある人は示談でことを収めようとするものだ。というのも法廷で争うというのは大きなストレスを引き起こすからね。「訴えてやる」なんていう台詞は無知な輩が使う脅し言葉だよ。

(つづく)Mとその家族がマルタを発ちイギリスに向かうまであと6日

文化遺産管理局による介入

CITESの手続きをするなかで税関とのやりとりがあり、文化遺産管理局 (the Superintendence of Cultural Heritage) に輸出許可を申請するよう言われたことは既に述べた。Mは命ぜられるがままにピアノの諸情報と写真を文化遺産管理局に送り、12日後の8月19日に輸出許可が降りたことも述べた。Mはその許可証を受け取っている。

ピアノを輸出するためにCITESの手続きについていろいろ調べたが、文化遺産管理局なる機関に言及しているものはなかった。なぜそこが絡んでくるのかわからなかったが、名称からいって貴重な文化遺産が国外に流出しないよう目を光らせている部署であろうことは想像できた。輸出しようとしているピアノが貴重なものであるとの認識はあったが、楽器であって美術品ではないから該当しないだろうと考えていた。

しばらく前にフランクフルト空港の税関で演奏家が持ち込もうとしたヴァイオリンに法外な関税がかけられて一悶着あったことは知っていたが、結局アンティーク品ではなく楽器であるとの主張が認められ、税金を払うことなく解放されたと聞いていたので、ピアノをアンティーク品扱いされても抗弁できるだろうと踏んだ。そもそもピアノはフランスで製造されたものだからマルタが輸出を禁ずる筋合いはない。多少緊張したが、文化遺産管理局が輸出を許可したので安心した。

8月25日午後、私は学会発表のため韓国に移動した。翌26日はピアノがMの家から運び出される日だ。26日は日中、学会に参加し、夜は懇親会でいろいろな人に会って話して、充実した一日を過ごした。満足してホテルの一室に戻り、シャワーを浴びて眠る前にメールを確認したところ、Mからピアノを運び出せなかったとの連絡が入っていた。

8月26日の経緯は次の通りである。

午前10時10分、ピアノの輸送を請け負ってくれたC社の担当者Gにマルタの税関からメールが届く。そこには Cultural Heritage Act Chap 445. Art 41(文化遺産管理法 445条41項)を参照せよ、そしてと課金表を見よと書かれていた。添付されてきた書類の29ページをみると、それは Control of exportation and re-exportation (輸出と再輸出に関する規定)であった。その内容は以下の通り。

(1) No person may export or re-export any cultural property without the written permission of the Superintendent.

文化財を輸出あるいは再輸出するには管理局が発行する許可証が必要である。

(2) The export and re-export, when permitted shall be subject to the payment of the ad valorem duty as set out in the Schedule to this Act and shall be subject to such other conditions as may be imposed by the Superintendent.

許可が得られた上で輸出あるいは再輸出する際には管理局が課す税を支払わなければならない。ほかにも管理局が条件を付ける場合があるのでそれに従うこと。

(3) Permission for export and re-export may be granted for a limited period and without the payment of the duty referred to in subarticle (2) for the purpose of restoration, exhibition or study. The Superintendent may, in granting such permission impose guarantees for the return of the cultural property so exported or re-exported at such amount as shall be fixed by the Superintendent.

修復、展示あるいは学術調査が目的であるときは一定期間、無課税で輸出・再輸出を認める場合がある。ただし指定された期間内にその文化財をマルタに持ち帰ること。

(4) The value of the objects for the purpose of the payment of the duty referred to in subarticle (2) shall be fixed by one or more experts to be appointed by agreement between the Minister and exporter or, in default of agreement, by the Court of Appeal (Inferior Jurisdiction) on the demand of the exporter, to be made by an application. The cost of the evaluation shall be borne by the exporter.

課税に際して専門家にその文化財の査定を依頼することがある。その費用は輸出する者が負担すること。

(5) In lieu of the payment of duty, the exporter may, with consent of the Superintendent, give to the Government by way of datio in solutum, one or more objects of a value equivalent to the duty due.

管理局が同意すれば、税を支払う代わりに課税額同等の物品を提出してもよい。(物納可)

(6) It shall be competent to the Government to acquire any object proposed to be exported, at such price as may be fixed in the manner laid down in this article within two months from the making of the valuation referred to in this article after notice of the intended export is given to the Superintendent. All expenses in connection with the valuation shall, in such cases, be at the charge of the Government.

輸出申請後2ヶ月以内であればマルタ政府が査定された額で当該文化財を購入する権利がある。

最終ページ(p.37)にある課金表 (Schedule re Rate of Export Duty)は次のようになっていた。

課税表

課税表

すぐに税関から担当者Gに電話があり、次のように告げたという。「輸出しようとしているピアノは100年以上前の物なので 9706 00090条に定められたように申告されなければならない。手続きは以下の通りである。」

  1. ピアノの輸出には許可が必要である
  2. ピアノの価格は文化遺産管理局が定める
  3. 添付の書類にある通り税を支払うこと
  4. これらの手続きが終了するまでCITES検査員は訪問しない

Mが事情を説明してくれた。マルタには独自の「文化遺産管理法」があり、製造後50年以上経ったものは何であれアンティーク品と見なされる。文化遺産省はマルタからアンティーク品が輸出される場合、一律50パーセントを課税する。これは輸出品に対する税ではなく、マルタから文化遺産が流出するのを防ぐという名目で制定された制度である。輸出税ではないから輸出先がEU圏内であってもマルタからアンティーク品を持ち出す場合はこの法律が適用される。輸出税としないのは、EU(ヨーロッパ共同体)に税収として報告したくないからである。輸出税となるとEUが黙っていない。関税を撤廃することで域内の交易を活発にするのがEUの趣旨だからだ。

マルタからピアノを日本に送るには、ピアノ売却額の半分を税として文化遺産管理局に納めなければならない。これは実際、結構な額である。このことを知らされたとき、どれほどのショックだったか想像してみてくれ、こういう制度があるなんて誰も知らなかったんだ、しかもピアノを運び出す日の朝、まさにCITES検査官が来て許可証を発行する間際に知らされたんだぞ、とMが嘆いた。心臓麻痺で死ぬかと思った、とつけ加えた。

Mから送られてきた資料を読んでみたが、自国の文化遺産を保護するという趣旨からほど遠いものだった。そもそもマルタは小さな国なので文化遺産といえるものが少ない。首都 Valletta にはマルタ騎士団の壮麗な大聖堂があり、カラヴァッジオの大作があったりもするが、そういう歴史的に重要な作品は僅かである。国外に売られることもないだろう。マルタ国内で製作された貴重な美術品を引き留めるという趣旨には賛同するが、それをどう都合良く拡大解釈したのか、「自国で製作されたか否かに関わらず」マルタ国民が楽しめるものが国外に持ち去られないようにするのが目的だという。意味がわからない。

輸出されるとしたら50年前までマルタを占有していた旧大英帝国の植民が世界各国から持ち込んだガラクタであるが、そんなものを国の宝として保護する意味はまったくない。施行当時は文化財保護という崇高な目的があったのかもしれないが、実際には製造後50年以上経ったものであればどんなものでも5割の税金をかけられるようにする悪法であり、無知な観光客から金を巻き上げるための方便としか思えなかった。

Mはマルタ政府が何かと難癖付けて外国人から金を取ろうとすると憤慨していたが、確かにそういう扱いを感じることがあった。たとえば水道代や電気代は自国民か外国人かによって料金が変わる。外国人は2割程度、割高な料金を課せられるのである。マルタの社会インフラを維持するため、所得税を払うことのない外国人旅行者から税を徴収することは仕方がないが、水道や電気の料金を二重化するのは妙な気がした。バスの乗車料金も自国民には安価な料金体系を設定し、外から来る旅行者は高い乗車賃を払わざるを得ない仕組みにしている。文化遺産管理法も含めて、須く外国人から金を巻き上げることに執心しているように思われた。

ともあれ、50パーセントの文化財保護税から免れるにはMの家財道具の一部としてピアノをイギリスまで運ぶほかないというのが結論だった。こうして我々はカフカ的不条理の世界に突入していくこととなる。

ピアノの価格と価値

Pleyel社の記録から、そのピアノは1884年6月7日に3280フランだったことがわかった。この3280フランというのは今の物価でいうとどのくらいになるのだろうか。130年前は物の価値が今と異なるから単純な比較は困難だが、ざっと調べてみたところ600円から1500円というのが妥当な線であるらしく、なかでも1000円説が有力なようだ。

当時の1フランが現在の600円から1500円ぐらいに相当するという説

当時の1フランが現在の1000円に相当するという説

しかし仮に1フランが1,000円だとするとつじつまが合わない記述も出てくる。

「当時(1835年)ホワイトカラーの公務員の平均年収が1000フランちょっとだった」

1835年と少し時代が遡ることを差し引いて考えても、また公務員が安月給ということを考慮しても、年収100万円少々では暮らせないだろう。50年ほど時代が下るが、隣国イギリスでは1888年に平均収入が660ポンドであったこと、それが2006年時点の57,691米国ドル(現在の日本円で約570万円)に相当するという記述がある。日本の場合は、公務員の平均収入が約650万円から700万円であるらしい。以上を勘案すると、1835年当時の1,000フランは約600万円、すなわち1フランが6,000円相当だったのではないかと推測される。

イギリスでは1888年に平均収入が660ポンドであった

公務員の平均収入が約650万円

なぜ1,000円と6,000円という6倍もの開きが出てくるかと言えば、それは前者が金 gold の価値(為替市場)を基準としており、後者が年収(購買力)を基準としているからである。生活者の感覚としては後者の基準をとった方が適切かと思われる。

念のため別の情報源にもあたってみる。

ヨーロッパの近世
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E026.htm

「1795年~ジャン・バルジャンの盗んだパン」で示されている表によると肉体労働者の平均時間給は1840年で4スー、1890年で5スーとなっている(1フラン=20スー)。これを手がかりに物価を推測してみよう。1890年の肉体労働者の平均時間給は4分の1フランである。1日10時間働くと日給は2.5フラン、週に6日間働くと週給15フラン、月に4週間働くと60フランである。計算を重ねると年収は720フランとなる。

表では2004年の肉体労働者(東京)の最低賃金が時給710円とされているが、この値ではなく平均的賃金として時給1300円にする。すると1日10時間働くと日給13,000円、週に6日間働くと週給78,000円、月に4週間働くと月給31万円である。年収は約360万円となる。これを720(フラン)で割ると5,000円となる。つまり1890年の1フランは5,000円相当ということになる。

異なった情報源から、1835年時点で1フラン6,000円、1890年時点で5,000円という値が得られた。上記の表では1840年から1890年の間に肉体労働者の平均時間給が(4スーから5スーへと)25パーセント上昇しているので、1フランの価値はその分下がったことになる。6,000円の4分の1は1,500円だからそれを差し引くと4,500円となる。この値は計算で得た5,000円という数字に近い。おおよそ正しいところを指していると考えてよいだろう。

1フランが1,000円ではなく6,000円(1835-40年)あるいは5,000円(1890年)であるとする根拠はほかにもある。ショパンは貴族の子女らにピアノを教えて「破格の謝礼を得ていた」とされるが、その謝礼が1回45分で20フランであったらしい。仮に1フラン=1,000円で計算すると2万円であり、高額ではあるが貴族からヨーロッパ最高の謝礼を得ている割には安いように思われる。それを6,000円で換算すると12万円となり、これは確かに破格の謝礼である。以下のページでも1回の謝礼が10万円以上であったとしている。

林 倫恵子, 第12回 ショパン先生のピアノレッスン
http://www.piano.or.jp/report/01cmp/c_chopin/2004/03/26_4661.html

ショパンは着道楽で専用馬車も保有するなど貴族並みの生活をしていたとされる。そんなショパンの収入を平野啓一郎氏は18,000フランとしているが(「葬送」)、これも1フラン=1,000円で計算すると1800万円となり、貴族的生活は支えられない額となってしまう。参考資料「ヨーロッパの近世」には平均的貴族の年収が1万ポンドとあるが、”Cost of living in Victorian England”に示されている平均年収(1888年の660ポンドが2006年の57,691米国ドル相当)より1ポンドが約87ドル相当とわかるので、当時の1万ポンド=今の約87万ドル、すなわち約8700万円となる。これが平均的貴族の年収であったとすると、1フラン=6,000円で計算してショパンの年収は約1億円あったとした方がつじつまが合う。

  • 平野啓一郎, 「葬送」(抜粋)
    http://www.shinchosha.co.jp/books/html/129035.html
    「レッスンの謝礼や夜会での演奏報酬だけで年に一万八千フランもの収入を稼ぎ出すようになると、もう苦痛に耐えてまで演奏会を催すことなど考えられなくなった。」
  • Cost of living in Victorian England
    http://logicmgmt.com/1876/living/livingcost.htm

だいたいの物価がわかったところでピアノの値段を検討してみよう。ショパンは1839年にPleyel社からピアノを受け取り、1841年まで使った。その後、そのピアノは2,200フランで売られたとある。1フラン=6,000円とするとこれは1320万円に相当する。当時の最高級のフルコンサート仕様ピアノを借りたであろうから二年使ってその値段で売られたなら妥当と思われる。参考までに示すと、現代のPleyelは全長280センチのフルコンサートモデルで1750万円である。

1841年にショパンが使っていたピアノを2,200フランで売ったとの記述
Chopin’s 1839 Pleyel, shown at the right, was put at his disposal (perhaps by Pleyel), between 1839 and 1841, after which time it was sold for 2200 Francs. It has a compass of 6 octaves and a fifth from CC to g4. By 1847, when he acquired his last Pleyel grand, the compass was a full seven octaves, from AAA to a4. None of Chopin’s music requires the extra notes below CC, fitting perfectly the six and one half octave keyboard of the earlier instrument.
(http://real.uwaterloo.ca/~sbirkett/pleyel_info.htm)

一方でいくぶん解釈に困る事実も残されている。ショパンがイギリスを演奏旅行した際、使っていたピアノを最後に売ったという記録があり、その楽器も発見されている。その時の売値が80ポンドなのである。

80ポンドで売られたショパンのピアノ(写真)
Chopin’s piano (1848)
http://www.reuters.com/article/2007/03/21/us-arts-chopin-idUSL2141309320070321

80ポンドで売ったという記述
Before leaving London, Chopin sold his Pleyel piano, for £80, to one Lady Trotter, whose daughter, Margaret, was his friend and probable pupil.
http://www.ourchopin.com/forum/index.php?topic=263.0

上で用いた1ポンド=87ドルのレートを適用すると6960ドルとなり(70万円を切る)、やたらに安い。1000万円を超えるような楽器をそんな値段で売って帰ったとは考えにくい。この問題に対するひとつの解は、80ポンドを当時のフランに両替して持ち帰ったという見方である。19世紀を通じて1ポンド=25フランというのが相場だったらしい。それを前提とすると80ポンドは2000フランに両替されることとなる。1フラン=6,000円で計算すると1200万円となり、これだと結構よい値で売れたことになる。ショパンが弾いた楽器ということでプレミアがついたのかもしれない。(まぁ、ここの論理展開には無理があります。イギリス滞在中、Trotter婦人から恩義を受けたのでそのお返しにピアノを置いていったと考えた方がよいのかもしれない。)

1ポンド=25フランが相場
http://tenlittlebullets.tumblr.com/post/54856540503/resource-post-early-19th-century-french-currency

さて私のPleyelであるが、出荷時に3280フランの値が付いている。これは同じ頃売られたほかの楽器と比べてかなり高い。中サイズながら高価なのは象眼細工がつくなど外装が凝っているからであろう。標準的仕上げのピアノに目をやるとフルコンサートモデルで2700フランだから、それよりも500フランも高いのである。とりあえず日本円に換算すると、3280フランは1640万円、2700フランは1350万円である。かなり高価だが、現代のフルコンサート仕様ピアノが2000万円することを考えると、むしろ安い。ピアノは大量生産できるようになって値が下がったはずだが、なぜコンサート仕様のピアノは130年前の方が安いのだろうか。

現代のフルコンサート仕様ピアノの価格
http://www.pianoplatz.co.jp/pleyel/pleyel.html

おそらくは以下にいう「労働費」が低かったからではないかと思われる。19世紀半ばに絹のドレスが12フラン(6万円)というが、今なら自分の体に合わせて仕立ててもらうと10万円以上かかるだろう。同じことが手作りのピアノにもいえる。Pleyelの台帳をみるとピアニーノという小型のアップライトピアノが最安値の700フランとなっている。これは350万円相当だから、現代において割とよいアップライトピアノが100万円で買えることを考えると十分高い。つまりこの100年間で、大量生産するピアノは価格が下がったが、手作りするコンサート仕様のピアノは人件費の高騰によって値上がりしたと考えられる。

「19世紀パリの風俗法と公衆衛生的知識」
19世紀半ばには12フランで絹のドレスをオーダーできたということですから、それが安いかというよりも「労働費」が低かったと考えることも出来ます。[…]
http://www.geocities.jp/georgesandjp/articles/demimondepublichealth.html

130年前には1600万円の価値があったが、現代の市場ではどのくらいの評価なのだろうか。販売時の値段から中古となった時の値段を導くのは困難である。アンティーク家具なら材質や年代によって大凡値段が定まるが、ピアノは家具ではなく楽器だからきちんと手入れされて弾ける状態になっていることが重要である。いくら130年前に1600万円の価値があったとしても、手を入れられず演奏困難な状態であれば大した値段は付かないだろう。ゆえに答は「弾いてみないとわからない」ということになる。

しかし世の中にはこうした古いピアノを楽器としてではなく、アンティーク家具として扱う人たちもいて困ってしまう。たとえば以下のピアノは楽器としてというより、その装飾が評価されて高い値段がついているものである。こういったピアノは「アートピアノ」と称され、同じクラスの同程度の楽器よりもかなり高い。

アートピアノはメーカーが利益を上げるために戦略的に売り出したものだが、その始まりはアールヌーボーの頃からとされる。アールヌーボの始まりは1894年頃だから、私のPleyelが製造された1884年にはまだ「アートピアノ」は存在しなかった。とはいえ、私のピアノが美しい装飾が施され、そのために高い値段設定となっていたことは確かである。その証拠は象眼細工のほか、ペダルの細工にもみられる。以下のページではこの種のペダルが非常に珍しく、いわゆる「アートピアノ」にしか使われていないことを示唆している。

Pianos Romantiques

Extremely ornate cast pedals

Extremely ornate cast pedals

12340: Extremely ornate cast pedals, reserved for art-case pianos. I only know of three Pleyel grands with these pedals, all with brass inlay cases. (http://www.pianosromantiques.com/pleyelmodelsgb.html)

私のPleyelピアノのペダル:装飾が施されたものは珍しい

私のPleyelピアノのペダル:装飾が施されたものは珍しい

こういった装飾が施されたピアノはコンサートホールよりはサロン向きだったのではないかと推察される。出音には関係ないはずだが、美しい筐体は音も美しいと感じさせるだろう。本来の機能は楽器だが、美術品としての価値もある。しかし、はからずもその美しさが深刻なトラブルを引き起こしたのであった。

Pleyel社からの手紙

8月1日の夜遅く、Mから返事が来た。前日、彼は家族と共に故郷であるローマに里帰りしたのだが、航空会社の運用に問題があって予定の便に乗れず、チケットを買い直して夜遅く別の便に乗らざるを得なかったこと、その日は終日いろいろな人に会っていてメールを読めなかったと詫びていた。

Mは「心配するな、確かに困難な状況だが、明朝マルタのCITES事務所に電話するから大丈夫だ。C社にもすぐ連絡する」と言って私を安心させた。そして、あのピアノの次の所有者はお前であるべきだ、そのために最大限努力するから。心の底からあのピアノを日本に届けたいと思っているんだ、フランスとかほかの国ではなくてね。と付け加えた。

翌日になって、CITES担当者と連絡がとれたとMから連絡があった。Pleyel社が製造年を証明する手紙を提出すれば、すぐにCITESの手続きが始まるらしい。MはすぐにパリにあるPleyel社のショールームに電話し、顧客対応員に事情を説明した。するとPleyel社が証明書を出してくれる運びとなり、その日のうちに届いた(!)。

ピアノの製造年を証明する文面はごく簡単で、以下のようなものであった:

As recorded in the books of the Pianos Pleyel Manufactory’s workshops, we guarantee that the Pleyel grand piano – Model MP2, series number 85003 in mahogany with marquetry and ivory keys, was produced in the Pleyel workshops. Exit date : June 7th 1884.

直訳すると「プレイエルの工房の台帳記録より次のことを保証する。マホガニーで出来た製造番号85003のモデルMP2(象眼細工と象牙鍵盤つき)はプレイエルの工房にて製作され、1884年6月7日に出荷された」となる。

MP2は”Moyen Patron No. 2″の略記であり、中サイズのコンサートグランドピアノを指す。一般には「モデルNo. 2」と呼ばれる。このモデルの大きさは奥行き2メートル35センチ、幅1メートル36センチである。弦は交差弦で、鉄フレームは組み立て式となっていて、鋳鉄ではない。

この台帳はwebから閲覧できる。以下のサイトはErard, Pleyel, Gaveauというフランスのピアノメーカーの台帳(18世紀から1970年まで)をスキャンして公開している。このように昔の記録が公開されているのはすばらしい。少し前までは閲覧できない資料だったという。

http://archivesmusee.citedelamusique.fr/pleyel/

このうち、Pleyelが1883年から1888年にかけて製造した、番号830001から95450までの記録が以下に公開されている。

http://archivesmusee.citedelamusique.fr/exploitation/Infodoc/digitalcollections/viewerpopup.aspx?seid=E_2009_5_14_P0001

この台帳の42頁目に製造番号85003のピアノの記録がある。販売先として挙げられている”Maison de Londres”は当時のロンドン支店である。”G Stiles GCO”の”G Stiles”は人名であろうか。GCOは何の略なのかわからない。価格が3280フランとある。

(1) Queue m.p.2 acajou marqueté

(1) Queue m.p.2 acajou marqueté

(2) 各工程の完了日と責任者のサイン

(2) 各工程の完了日と責任者のサイン

(3) 各工程の完了日と責任者のサイン

(3) 各工程の完了日と責任者のサイン

(4) Maison de Londres, G Stiles GCO, 3280

(4) Maison de Londres, G Stiles GCO, 3280

CITESの手続きは順調に進んだ。敢えて問題を挙げるなら、最初にPleyel社が出してくれた証明書には鍵盤に象牙が使われていることが明記されていなかったので、その点を追加するようCITES事務所に修正を求められたことくらいだった。Mは「1884年にプラスチックは存在しなかったことを知らないのかね、CITESの事務官は!」と怒っていたが、Pleyel社がすぐに対応してくれて事なきを得た。(それが上の文面)

8月7日、Mから報告があった。CITES事務所に命ぜられて税関に連絡したが、ピアノの検分は不要と言われたこと、しかしながら文化遺産管理局 (the Superintendence of Cultural Heritage) という所に輸出許可を申請するよう言われたことを知らされた。Mはすぐに文化遺産管理局に連絡をとり、命ぜられるがままにピアノに関する諸情報と写真をメールで送ったという。輸出許可は数日以内に出るらしい。

しかしながら実際に許可が出たのは8月19日だった。ずいぶんだなと思ったが、運送業者が荷造りの時間は十分あると言うので、とりあえず安心した。CITESの許可が確実に降りるとわかったので、翌8月20日、Mにピアノ代金の半分を送金した。その夜、Mから代金を既に受け取ったことと、ピアノは26日月曜日にMの家から運び出されるとになったと連絡を受けた。

8月23日金曜日、CITESの書類が出てきた。あとはCITES検査官がピアノを検分し、書類にサインして手続きが完了するという。ピアノが運び出される26日に検査官も来ることになった。3日後には検査員がサインしてCITESの許可が降り、ピアノが業者によって運び出されるだろう。すべては順調だった。9月初旬にはピアノは飛行機に載せられ、中旬には到着しているだろう。その間に日本側のCITES手続きも完了するはずだ。

私は日本到着後の調整をお願いしているピアノ技術者にこれらのことを報告し、空港から工房までの国内移送手続きを依頼した。早ければ10月半ばには自宅にピアノが据え付けられるだろう。当初懸念したような問題も起きることなく順調に物事が運んだことを喜んだ。小さな国だからCITESの手続きが素早く終わったのだろうと考えた。しかしそこには別の、予想だにしなかった深刻な問題が潜んでいた。

象牙の鍵盤

Mが所有しているPleyelのピアノを買う決心はついたが、問題は山積していた。当初から鍵盤に使われている象牙のことが気になっていた。日本は過去に象牙を大量に輸入しており、それが国際的に問題視されて禁輸措置がとられたことくらいは知っていた。象牙鍵盤のピアノを輸入するのが大変だということも何となく知っていた。Mにそのことを言ったが、「そうなのか、そんなことがあるのか?」と驚くだけで何も知らなかった。客観的に見れば呑気というか、なんとも無謀な二人である。

問題となった象牙の鍵盤

問題となった象牙の鍵盤

いろいろネットで調べた結果、ワシントン条約以前に作られたピアノであれば例外として扱われ、輸出入が認められることがわかった。しかしそれが具体的に何年何月何日なのかがわからない。ワシントン条約が発効された1973年3月3日より前だという人もいれば、1976年6月14日、1977年2月4日、1984年、1989年など様々な説明があった。アジア象とアフリカ象では違うという話もあってややこしい。最近調べたところでは1947年のようである。それについても1947年3月3日と1947年6月1日という異なる説明がある。

1947年というもの

1947年3月3日というもの

1947年6月1日というもの

件のPleyelは1884年製造だからいずれの条件も満たしている。問題はそれをどのようにして担当事務官に認めてもらうかである。130年前の古いピアノだから製造証明書がない。製造番号はピアノに書かれていて、それをもとに製造年がわかるので、然るべき人に証言してもらえばよいのではないか。Mはマルタ大学音楽学部の教員だから、ピアノを専門とする同僚に製造年を説明する手紙を書いてもらったらどうかと提案した。

製造番号 85003

製造番号 85003

ところでワシントン条約というのは通称で、正式には Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora (CITES)といい、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」と訳される。一般にはCITESは「サイテス」と発音するようである。以下ではこの条約に則って象牙鍵盤を日本に持ってくる手続きを「CITESの手続き」と略記することとする。

CITESの手続きは少なくとも4週間を要すると書かれていたので、私はかなり焦っていた。マルタを発つ前夜、手続きを詳しくMに書き送っている。マルタではMalta Environment &Planning Authority (MEPA) というところが窓口となっており、メールで申請できることがわかった。Mは「今週中に連絡をとるよ」と請け負ってくれたが、その週末の7月19日時点でまだ実行されていなかった。狭い島だから何事もコネで動く。Mは何か伝手がないか探っていた。

Mとその家族は9月3日にマルタを発ち、イギリスへ向かう。彼らの荷物の運び出しが9月2日に予定されていた。ゆえにピアノはそれ以前、8月26日の週に運び出さなければならない。そのためにはCITESの審査を8月23日までに通過している必要がある。その日まで7月19日から数えて5週間しかない。懇意にしているピアノ技術者に二ヶ月はかかるでしょうと言われていたので、7月26日時点で申請されていなかったら絶対間に合わないと思った。

最後に会って詳細を詰めたとき、Mは「仮に9月3日までにピアノを運び出せなかったら」、大家に頼んでしばらくの間、この家にピアノを置かせてもらうと言っていた。できるだけピアノを動かしたくないから、それがよいように思われたが、誰もいなくなった家にピアノだけ残されている図を想像すると心が張り裂けそうだった。「もし大家が駄目だと言っても」大丈夫だ、会社を興そうとしている友達がいて、そいつがオフィス用に借りた部屋がまだ使われていない。すぐに運べない荷物があったら預かってくれるそうだから彼に頼んでみる。というのが第二案だった。もちろん期日までに日本に送るよう頑張るよ、と不安げな私の表情をみて彼が締めくくった。

彼には言わなかったが、間に合わないようであれば早めに、私の他に買い手として名乗りを上げたフランス人にピアノを譲る方がよいのではないかと苦悶していた。CITESの手続きや日本までピアノを運ぶ手続きが煩雑であろうことは明らかだった。移動先がフランスならCITESの手続きは不要だし、輸送も容易だ。ピアノが誰にも世話されず放置されるようなことがあってはならないから、間に合わないなら他の人に譲る方がよいと考えていた。

7月22日の週も申請されなかった。しかしMに非があるわけではない。Mも私も日本へピアノを運んでくれる輸送業者を(それぞれの国で)手当たり次第探していた。マルタの業者についていえば5つの会社に連絡をとっていた。Mがこれらの業者にCITES手続きのことを尋ねたところ、それも仕事の一部だから任せろと答えたらしい。それを聞いてMは自分でCITESの手続きをするのをやめてしまった。

しかし日本にピアノを運んでくれる輸送業者がなかなかみつからなかった。(輸送業者の話は次回以降に述べる。)5つもの会社に依頼して何が駄目だったのか想像するのは難しいだろうが、いずれの会社も日本までピアノを運ぶ方法がわからなかったらしい(!)。ある会社は船で運ぶことを前提に、日本へ運ばれる荷物は少ないからコンテナが埋まるのに時間がかかる、だからコンテナを1つ借り切ってはどうかと言ってきた。それは悪くない方法のように思えたが、それ以上進展しなかった。

実のところ、Mはマルタの輸送業者を快く思っていなかった。反応が悪いからである。「何度か利用した運送業者があるんだが」、荷物のことを尋ねると調子よく『一週間以内に返答する』という。ところが二週間たっても連絡がない。仕方なく電話すると『お前は誰だ』なんて言う。わけがわからない、信用できないよ。というのがMの評価であった。島の人らしいのんびりした対応だが、すべてがその調子で状況はいっこうに動かなかった。ヴァカンスのシーズンだったことも災いしたのだろう。悪意のない不作為が状況を悪くしていった。

結局、日本からの伝手で連絡をとったマルタの会社がピアノの輸送を引き受けると表明してくれたのが7月26日だった。自らCITESの申請期限と設定していた日だ。翌週7月31日に見積書が出てくる。しかし、その会社(C社と呼ぶ)はCITESの手続きは業務に含まれていないから送り主が自分で申請してくれと宣った。それを聞いて私は、ここまで辛抱強く待ったけれども、すべてが「終わった」と感じた。そこでピアノは日本に持ってこられないからフランス人に売ってやってくれとMに伝えた。8月1日のことである。

8月2日にCITESの申請をしたならば、認可が下りる(かもしれない)4週間後は8月30日だ。それから梱包と輸送を調整して、9月2日にほかの荷物と一緒にピアノが運べたら、それは奇跡である。マルタの人たちの働きぶりをみれば、しかも真夏であることも考慮すると、その可能性は限りなくゼロに近い。ものごとは私が願ったように素早く動かなかった。仕方がない。これも運命だとあきらめることにした。Pleyelのピアノは私の視界からいったん消えた。