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ベーゼンドルファーを弾く

野々市文化ホールフォルテに行ってベーゼンドルファーを弾いてきた。一時間1000円で弾かせてくれるのだからありがたい。指定された時間の15分くらい前に会場に行ったら、高校生(か大学生くらい)の女性が(母親らしき人を同伴で)テンペスト(ベートーヴェン)を弾いていた。上手だったが(暗譜だったし)、音が前に出てこなくて、ホールの音響のせいなのかと気になった。自分で弾いたときも同じ印象で、、おそらくはあまり弾かれていないせいだろう。特に低音をきれいに鳴らすのが難しい。もちろん自分の技量不足もある。技量がないのが主たる原因なのはあきらかだが。。うちのピアノはもっと良く鳴りますから。。(これが言いたかった)

ベーゼンドルファーを弾いてみた

ベーゼンドルファーを弾いてみた

プログラム
Schubert, Franz: 4 Impromptus D899−2 Op.90 (1827)
Chopin, Frederic: Ballade No.1 g-moll Op.23 (1831-35)
Schumann, Robert: Kinderszenen Op.15 1-7 (1838)
Liszt, Franz: Etudes d’exécution transcendante S.139 (1851)

Schubertの曲はきれいに鳴った。もともときらびやかに鳴らすことを求めない曲だから問題ない。Chopinはちょっとつらい。中音域が豊かに鳴る分だけ低音が聞こえてこないのが気になる。これはでも演奏者が楽器に近すぎるせいかもしれない。ホールで弾くことに慣れていないから、観客席で音がどう鳴っているのか想像できない。大ホールなので部屋の大きさに負けまいとして音が大きくなるきらいがある。小さな音(p, mp)がうまく作れなかったのも反省点。ダイナミックレンジが狭くなってしまった。

Schumannはそれなりに弾けた。ただ、やはり部屋の大きさに負けてしまう。負けるというか、広さを意識してついつい音が大きくなり、雑な音作りになる。最後の方で少し慣れてきたけど。。こういうのは経験を積まないと無理だなぁと思った。これで聴衆が座るとまた音響が変わるわけで、プロの演奏者は大変だなぁと同情。

以下は「子どもの情景」からトロイメライ+最後2曲。終曲は気分よく弾けた。

予定通りのペースで進んだので Liszt も弾いたが、鳴らすのがとても難しい。体重を載せてみたり、アタックを強くしてみたり、いろいろ工夫したがきれいに鳴ってくれない。タッチが自分の楽器より重いので、いろいろ工夫しているうちに息が切れてきた。「夕べの調べ」くらいは大音響でホールを満たしたいと思ったが、、、苦戦。推測だが、低音は和音を鳴らしたとき音がぶつかって打ち消し合うような気がする。リストが使っていた当時の楽器と現代の楽器の違いだろう。楽譜の指定通り弾いたら音が多すぎて鳴りきらない。昔の楽器はあまり鳴らなかったから音数を増やして重厚感を出したのだと思うが現代の楽器でそれをやるとうるさい感じになるなぁと(改めて)思った。

途中で録画が切れてしまいましたが、f-moll の冒頭部分をご紹介。

最後の最後でブラームス(op.117)を少し弾いてみたところ、これが良い感じに鳴った。さすがブラームスと思ったが、彼は現代のものと同じようなコンサートホールで演奏していたから大きなホールでピアノがどのように響くのか熟知していたのだろう。ひとつひとつの音がくっきりと聞こえて美しかった。やはり楽器の特性やホールの音響特性に合わせて曲を選ぶべきなのだろう。今度、ここでまたベーゼンドルファーを弾く機会があったら、ブラームスにしよう。。と思った。

しかしこんないいピアノがほとんどお蔵入り状態なのは残念至極だ。料金表をみたところ、平日午前中に三時間大ホールを借りると17,000円。付属施設利用料のなかでピアノ(外国製)の料金をみると10,000円。つまり27,000円だせば3時間、好きなようにベーゼンドドルファーを弾けることになる。これを個人利用客向けに10,000円のパッケージにしてくれたら、利用者が増えて、ピアノがもっと弾かれると思うんだけどなぁ。。もっと弾いてやればよく鳴るようになると思う。とてもいい楽器だから。しっかり弾かれていない(ように思えて)そこのところが残念。

「見知らぬ国と人々」

プログラム
Schubert, Franz: 4 Impromptus D899−2 Op.90 (1827)
Chopin, Frederic: Ballade No.1 g-moll Op.23 (1831-35)
Schumann, Robert: Kinderszenen Op.15 1-7 (1838)
Liszt, Franz: Etudes d’exécution transcendante S.139 (1851)

今回取り上げる曲はロマン派の作曲家によるもので、ロマン派最盛期の響きを追究する。一曲目がシューベルトなのはベーゼンドルファーがウィーンを拠点としていたからである。ベーゼンドルファーは1828年に設立され、同年シューベルトが亡くなっている。演奏する4 Impromptus D899 は1827年頃作曲された。最晩年の作品と言えるが、シューベルトは31歳で亡くなっているので晩年というのは相応しくないだろう。

シューベルトの音楽は美しい。その美しさは歌心あふれる旋律とそれを支える簡素な和声にあるようだ。私が 4 Impromptus を弾いたのは10歳頃のことだ。第2曲と第4曲をピアノ教室の発表会で弾いた。ただし続けて弾いたのではなく、ある年に第2曲を、次の年に第4曲を弾いたと思う。しかし小学生にこれらの音楽の美しさが理解できたかどうか。音楽的なことを考えることなく、機械的に弾いたはずだ。

年齢を重ねてシューベルトの深さが感じられるようになった。彼の音楽の本質は「悲しみ」だと思う。それが死を意識していたからなのかはわからない。悲しみといっても悲嘆ではない。我が心の師は「死は究極の癒しである」と言っていた。シューベルトは既に死の側にいて、最期のときに生を静かに眺め、消え去っていく記憶や想いを惜しんでいるようだ。追憶といってもよいのかもしれない。

誰の言葉だったか、「お母さん、あなたのあの思いはどこへいったんでしょうね」という一句を思い出す。母はふたりの孫をよく可愛がっていた。その思いはどこへ行ったのだろう。死と共に消えてしまったのだろうか。シューベルトの音楽は、そういった思いに形を与えて定着させたものという気がする。肉体には限りがあるが、我々が感じたり思ったりしたことは永遠である。

10歳の頃に弾いていた曲を今弾くとその頃の気持ちと記憶が蘇ってくる。繰り返しが多く、わかりやすいが面白みのない曲と思っていた。シューベルトが理解できない者には軽薄にさえ聞こえるだろう。先生は私にバッハやベートーヴェンを集中的に弾かせていたから、それらと比べるとシューベルトが「軽い」ことは否めない。

ところが50を越えた中年男がこれを弾くと、そこに「かわいらしさ」や「いとおしさ」を感じる。その感覚はどこから来るものなのだろう。ひとつには10歳の頃の記憶や感情が想起されるのだろう。それから、曲自体にそのような気持ちが込められているのだろう。10歳のときにはそれに気づかなかった。「いとおしい」という気持ちは大人だけが持てるものなのかもしれない。

「いとおしさ」は過去の美しい思い出に対して抱くものなのだろう。シューベルトの曲に感じるいとおしさは子どもの頃の思い出に対して抱く郷愁であり、死にゆく人が通り過ぎてきた生に対して抱く「ありがたさ」なのではないかと言う気がする。

三曲目に弾くシューマンの「子どもの情景」Kinderszenen もそのような「いとおしさ」を表したものという気がする。ただしそれは生の側にある。シューマンの恋人であったクララが「私ってときどき子どもみたいにみえることがあるでしょう?」と言ったことがきっかけとなって作曲されたという。

子どもの情景の第一曲は原題が Von fremden Landern und Menchen であり、「見知らぬ国と人々」と訳されることが多い。今までタイトルについて考えたことがなかったが、題を見直してみて、前置詞’von’の意味が訳語から抜け落ちしていることに気づいた。「見知らぬ国と人々」と訳すると、あたかも「見知らぬ国と人々」が主題であるかのように聞こえる。つまり演奏では「見知らぬ国と人々」を表現することが目標となる。しかしそれに違和感を感じる。別訳で「異国から」というものを発見したがこちらの方が本意に近いのではないか。

これは勝手な解釈であるが最後の第13曲は Der Dichter spricht (「詩人は語る」)と題されている。シューマンは循環形式にこだわっていたからそれに倣ってこれらの題を(強引に)つなげると Der Dichter spricht von fremden Landern und Menchen となり、しっくりくる。’von’の意味はfrom(から)というよりはof(について)の方が適切だろう。これは「詩人は語る、異国について」または「詩人は語る、見知らぬ国と人々について」という訳になる。

この解釈では第一曲は、(この時点ではまだ身分が明らかにされていないけれど)詩人が「見知らぬ国と人々について」語り出す場面を描写していると考えられる。こう解釈した方がしっくりくる。町に年老いた人がやってきた、広場に立って子どもたちに声を掛けている、さぁみんなこれから不思議な国とそこに住む人々について話してあげよう、よく聞くんだよ。最初の旋律は詩人が声を張り上げて子どもたちの注意を引くところ。子どもたちが集まってきたところで急に声を小さくして、おやっと思わせる。そんな情景が浮かぶ。

「子どもの情景」は全般的に楽しげな雰囲気が漂う。しかし最後の第13曲は幾分違う。深い眠りについていくような感じ。第1曲で夢の世界に誘われたので、最後は現実世界に帰ってくるのかと思いきや、さらに深い眠りに引き込まれていく。以下は私が好きなCortotの演奏。最後はシューベルト的な、「いとおしさ」を表しているように思う。

Alfred Cortot: Master Class on Schumann Kinderszenen (1953)

ショパンのバラード1番はシューマンが4曲あるバラードのうちで「一番好きだ」とショパンに告げた曲である。それが理由でプログラムに入れたわけだが、たしかにシューマンが好みそうなファンタジーに溢れている。この曲については元となったらしい叙事詩が知られているが、英雄の悲劇的死を表したものと思う。死よりは「英雄的」なものに焦点が当てられているのではないか。

ショパンもシューマンも私がピアノを習っていたころにはほとんど弾いたことがない作曲家たちである。シューマンよりはまだショパンの曲をさらったことの方が多かったかもしれない。私の先生はロマン派のある種過剰な表現があまり好きではなかったのだと思う。リストもほとんど弾いていない。先生はハンガリーで学んだので、弟子にリストを弾かせてもよさそうなものだが。。代わりにバルトークを弾いた。

しかしショパンとシューマン、リストの作品を年代順に並べるとショパンの早熟ぶりには圧倒される。ショパンがバラード1番を書いていたころ、リストは超絶技巧練習曲の第二稿を書いていた。バラードは現在でもよく演奏されるが、超絶技巧練習曲の第二稿は大部分のピアニストが演奏不能として放棄し、省みられることがない。ショパンと比較すると音楽性の低さにあきれる。(最終稿は素晴らしい。しかし15年遅れている。)

シューマンとリストを比べると、リストの方がショパンに近い。シューマンはショパンに憧れたけれども作風は明確に異なる。しかしリストにはショパンと同じ異国情緒を感じる。ハンガリーとポーランドというヨーロッパの辺境から出てきたせいだろうか。シューマンの音楽には土俗的なものがほとんど感じられない。都会の音楽だ。たぶんショパンやリストよりも強く、できるだけ音を削ろうとする意思が働いているのだろう。それがある種の洗練に結びついている。

ショパンとリストはシューマンにくらべるとずいぶん不協和音を鳴らす。二度で音を重ねるのも大好きだ。おそらくは地元のエスニックな音階や音楽が耳に残っていたのだろう。平均率で出せない音があれば、ぶつかり合う音を重ねてその雰囲気を出すほかない。そういう箇所が多いように思う。(前半の終わり)

ベーゼンドルファーインペリアルを弾いてみる

私が住む金沢市の隣りに野々市市というところがあって、そこの文化会館(文化会館フォルテ)が年に2回くらい、コンサートホール備え付けのベーゼンドルファーを希望者に弾かせるという大盤振る舞いをしてくれている。ずいぶん前(たぶん3年くらい前)に弾かせてもらったが、その後ご無沙汰していた。また弾いてみたくなって応募したら当たったので来週日曜日に弾きに行く。会の名称は「第23回ベーゼンドルファーインペリアルを弾いてみよう!」です。わかりやすい。

一時間割り当ててもらえたので、何を弾くかこの一週間ずっと考えていた。今の案は以下のような感じ。欲張ってシューベルトからブラームスまで並べてみた。

Schubert, Franz: 4 Impromptus D 899-2 Op.90 (1827)

Chopin, Frederic: Ballade No.1 g-moll Op.23 (1831-35)

Schumann, Robert: Kinderszenen Op.15 1-7 (1838)
1. 見知らぬ国 / “Von fremden Landern und Menchen”
2. 不思議なお話 / “Curiose Geschichte”
3. 鬼ごっこ / “Hasche-Mann”
4. ねだる子供 / “Bittendes Kind”
5. 満足 / “Gluskes genug”
6. 重大な出来事 / “Wichtige Begebeheit”
7. トロイメライ / “Traumerai”

Liszt, Franz: Etudes d’exécution transcendante S.139 R.2b (1851)
第1番「プレリュード」 / “Preludio”  C-Dur
第2番 イ短調   a-moll
第10番 ヘ短調   f-moll
第11番「夕べの調べ」 / “Harmonies du soir”  Des-Dur

Brahms, Johannes: 3 Intermezzi Op.117-1 (1892)
Brahms, Johannes: 6 Stücke Op.118-2 (1893)

Brahmsは時間切れになるかも。。60分という枠の中でテーマも考えながら組み立てるのは難しい。Lisztまででまとめるかどうか、ひたすら迷い続けている。
Liszt, Franz: Romance Oubliee (S 132) (1880)
これで終わりたい気持ちもあるので。テーマはromanticsだから、その方がいいんだけど。。まぁ趣味ですから。気楽にその場で決めようかな。

ブラジル音楽コンサート

知人がコンサートを開くというので聴きに行った。会場は根上にあるタントなので自宅からそれほど遠くない(車で30分くらい)のだが、あいにくの寒波到来で、停車中の車が揺さぶられるほどの強風が吹き荒れており、慎重に運転していった。そんな悪天候だったので来場する人が少なめだったが、演奏はとても印象的で楽しめた。ブラジル音楽を生演奏で聴くのは久しぶりだった。

コンサート開始前@タント

コンサート開始前@タント


道はスケートリンク状態です

道はスケートリンク状態です

「かべの しんぶんの おんなは」

お茶が切れたので尾張町まで買いに行った。帰りに金沢21世紀美術館に寄った。運動不足解消のため(美術館を歩いたくらいでは足りないけど。)「生誕百年記念 井上有一」という展示をみたが結構、楽しめた。抽象的な、絵のような作品ばかりでなく、字を覚え始めたばかりの子どものような、習字の書があって、宮沢賢治の作品などをそれでなぞるのだが、なかによく意味がわからない句があって、いくらかんがえても情景が思い浮かばなかった。

かべの しんぶんの おんなは いつも ないている

尾崎放哉の作だという。「壁の新聞の女」という表現が解釈できない。女が壁にもたれかかって新聞を読む図が浮かんだが、なぜいつも泣いているのだろう。。とても奇妙な光景だ。

帰ってから調べてみた。放哉が住んでいた部屋に新聞が貼ってあって、そこに泣いている女の写真(かイラスト)があったようだ。人恋しさに放哉が新聞に載っている女をじっと見つめるの図を思い浮かべるのが正当な解釈らしい。「いつも」という表現で、繰り返し新聞を見つめる放哉の姿を思い、その孤独を感じるのが正しい読み方だろう。

しかし、女が壁を背にして新聞を広げ、ひたすら涙するの図もそんなに悪くないんじゃないかと思った。終戦直後の、新橋のガード下あたりがその舞台。