Daily Archives: 2019年9月26日

休暇の終わりに思うこと

先週木曜日から少し長めに6日間休んだ。(今日は久しぶりの出勤。)本学にはリフレッシュ休暇(旧称:夏休み)といって、年に一度、土日・祝日にくっつけて三日間の休みがとれる制度がある。ここ数年、その制度を利用していなかったが、休むことも大事と考えを改め、スケジュールを調整して休んだ。8月に休めたらよかったのだが、年に4回卒業の機会がある本学は8月にも入試や修了審査があり、標準的な大学の年度末並に忙しい。加えて8月末に一週間研修にいっていたこともあり、休暇申請が9月となった。準年度末である9月と次の新入生が入ってくる来月10月の隙間を狙った形になる。この機を逃すと年内は10月末まで休暇をとれない。大学で管理の仕事を任されているので出席しなければならない会議が頻繁にあり、三日連続で会議がない日を探すのも難なのである。年が明けたら年度末モードとなり、休める日を見つけるのが難しくなる。少ない選択肢からこの期間を選んで休んだ。

天気のいい日は Halfbike に乗って金沢中心部に行ったり、海まで遠出したりした。基本外で遊ぶのが好きだ。台風がきて天気が崩れてからはプールに行って泳いだり。毎日8時間近く眠って体調を戻した。調子が上向くと、休む前は疲れていたのだと気づく。休みに入る前は受けとったメールの内容を誤解したり、日付を間違えた連絡を送ったり、疲れているとろくなことが無い。ある意味、自分の不安と格闘する不毛な働き方になる。休むと平静になる。何を頑張っていたのか、自分で呆れる。

家にいるときは好きなだけピアノを弾き、本を読んだ。最近弾くのは Brahms と Rachmaninoff が中心である。少し前は Schumann に入れ込んでいた。要はロマン派の世界を探究している。10代の終わり頃までピアノを習っていたが、Bach と Beethoven を核として教えられ、Schumann とか Brahms を弾いた記憶が無い。師はある時期からは私の好みを考慮して近代のものを弾かせてくれるようになったが、後期ロマン派は自分にとって巨大な穴だった。それを今になって取り戻そうとしている。Brahmsもパガニーニ変奏曲が中心で、それにソナタ1番を合わせて練習する形になっている。Rachmaninoff は彼が編曲したBachの曲を中心に、コレルリ変奏曲を加えている。真夏の夜の夢の編曲も面白い。

バロック音楽には、音楽を推し進める構成力、力強さがある。ロマン派以降は調性を複雑化する傾向があり、この二つがほどよく調和しているのが Brahms や Rachmaninoff という気がする。Prokofieff や Schostakovich も割と好きだが、今となっては旋律が古くさく、少し前の音楽に聞こえるのが残念ではある。出てきた当時は無調風の旋律が新鮮に聞こえたのだろうが。

Rachmaninoff は Brahms をそれほど好まなかったらしい。記録を見る限り、晩年になってレパートリーに小曲を数曲加えたくらいだ。対して Schumann を好み、Noveletten を10年以上弾いていたらしい。彼の Brahms に対する不満は、「ピアノ音楽の書法に従っていない」ことにあったらしいが、これは上に挙げた Rachmaninoff の編曲にも当てはまることなので、ライバルとして強く意識していたと思われる。50くらい年の差があるが、この二人にはいろいろ共通するものを感じる。モーダルな雰囲気とメランコリア。ほのかに垣間見える屈折。

Schiff というピアニストがいて、彼の書いた本が最近翻訳されて店頭に並んでいた。Brahms はお嫌いらしい。Venice にいくと教会のなかにルネッサンス期からバロック期にかけての絵が多くかかっている。Tintretto とか。Schiff がいうにはこれらの絵は少し眺めるならよい、しかしずっと見て回っていると憂鬱になる。だから好きではない。Brahms もそれと同じだ。という意見だった。

興味深い指摘である。自分は教会のなかにかかっているあれらの絵も好きだ。付け加えれば、東方教会はさらに陰気である。詠唱される曲も含めて、全体が地から湧き上がってきたような暗さがある。Brahms とか Rachmaninoff が作ったのは要するにそういった音楽なのだろう。Schiff は嫌うが、自分の好みにはあっている、時と場合によるが。

さらに脱線すると、Brahms 対 Liszt/Wagner の対立を業界が煽っていた時期が合った。実際には Brahms は Wagner の音楽を好んでいたが。しかし Liszt のことは好きになれなかったようだ。Liszt がいろいろ実験的なことをするから胡散臭いとかペテン師と解釈したのだろう。Liszt の方は年齢差があることもあって Brahms のことを新進気鋭の若手とみていたようだ。Liszt が弟子達を教えたレッスン録をみると Brahms のパガニーニ変奏曲が時々弾かれている。Liszt にしてみれば元ネタは俺だよと優越感に浸るところがあり、弟子に弾かせたのではないかと思う。

さらにその前に Horowitz のインタビュー集を読んでいたのだが、Horowitz が Brahms の曲を毛嫌いしているところがあって興味深かった。Rachmaninoff が指摘するようにピアノ演奏の伝統に従っていない、つまり弾きにくいのがお気に召さないらしい。この批判に対する Brhams の弁明は、「だからこそピアノ向きなのだ」というもので、真意はオーケストラのようにピアノを響かせたい、豊かな響きを引き出したいということにある。その目的は Liszt にも共有されるが、手段が大いに異なるということだ。超絶技巧で聴衆を魅了するつもりがなかった、Brahms は。

ロマン派は Brahms や Rachmaninoff が締めくくったとされているが、後の音楽は Liszt の方に強く影響され形成された感がある。彼らはそういった本流とは別の所に居る感じがする。ある意味、ポストモダンで、過去の音楽を等距離で捉えて独自の音世界を作り上げた気がする。そのゆえ後継者がいなかった。だから今、新鮮に聞こえるのだろう。

音楽の話が長くなった。読んでいた本は吉福さんの書いたものをまとめたアンソロジー(「静かなあたまと開かれたこころ」)である。吉福さんには19歳から26歳くらいまでの間、師事した。彼の教えがなければ人工知能の研究には進まなかっただろうし、会社をやめて留学することもなかった。なかでも重要な教えは「女の子と付き合いなさい」というもので、そんなことまで口出ししてくれた彼の親切には頭が下がる。親との関係を作り直す手伝いもしてくれたし、少年から大人になる手助けをしてもらった。

全てが無償で与えられたが、器の大きな人だった。なぜ彼が我々のような小さなサークルを面倒みていたのかといえば、それを彼が必要としていたともいえる。何かを学ぶためにはグループを形成する必要がある。彼自身の成長のために弟子を必要としたのだろう。ミーティングの際、長々と話し続けるので止めに入ったら、「気分よく話しているんだから止めないでよ」と言われたこともある。自分のやりたいことしかやらないと言い聞かせていた人だから、自分のためにやっていたのだろう。

読んでいるとよく聞かされた話が出てくる。人と接するときはコンテキストとプロセスを見る、とか。説明はあまり与えられないが、「コンテキスト」に言及する意図は、何を話しているかではなく、何を伝えようとしているのかに注目せよということだ。文脈によって発話の意味が変わる。「プロセス」とはタイプ論の発達的側面と関係していて、その人がどのくらいのいレベルにいるのか、どこに向かおうとしているのかを読み取れという意味だろう。こういう見方は体に染みついている。

ボストンでジャズをやっていたのは知っていたが、Gary Peacock の代役を務めたこともあると知って、それはすごいと思った。彼が出した宿題のひとつに曲を作ってくるというのがあって、皆で作ったものを持ち寄って吟味したが、その際、吉福さんがギターを弾いた。フレーズを確認するだけで、プロらしいところは全くなかった。ここまで音楽を捨て去ることができるのはすごいと感心した。そういえば自宅に行ったとき、日野皓正が来て一緒に演奏したこともある、しかしどこからも苦情が来なかったと豪語していた。恐くて苦情を言いに来られなかっただけなんじゃないかと密かに思った。

家の中に自作の家具があって、アメリカから帰ってきた当初はやることなくてこういうのを作っていたんだよねと言っていたのを今、思い出した。何もしないとか積み上げてきたものを放棄することに積極的意味を見出していた。そういうのにも多分強く影響を受けている。忙しくて忘れていた、そういうことも。doing nothing というやつだな。出典はカスタネダの著作だろう。軽率に何かを始めることをすごく警戒していたし、注意も受けた。自分の存在の奥底から出てきたものだけに取り組みなさいという教えだった。

休暇の六日間は積極的に何もしないようにした日々だった。短い期間だったが。少年のように、自分が本当にしたいことはなんだろうかと黙想した。

吉福さんのアンソロジーを読んでいて、彼がアメリカで苦闘していたとき、西田幾多郎の全集を繰り返し読んだということを初めて知った。彼にはいろいろな本を紹介されたし、西谷啓治に関心があったことも知っていたが、西田哲学への興味を語ったことは無かった。休暇の最初の日に鈴木大拙記念館で西田幾多郎と三木清の対談を読んで啓発されたこともあり、しばらく西田幾多郎の著作を読んでみる気になった。吉福さんによれば西田はその世界に飛び込んでいるという。Bateson は側まで行って踏みとどまったから中途半端との評価だった。うーむ、Bateson を勧めてくれたのは彼なのだが。

あとは21美のライブラリで見つけた Pauline Oliveros の著作から Deep Listening という概念を知った。しばらくこれを深めたい。同じく21美でみた Ernesto Neto の構築物がツボにはまったのでこの世界も追ってみたい。思索は西田幾多郎に、創作は Oliveros とNeto に倣って取り組みたい。聴くことと棲むことから立ち現れる世界を捉えて表現すること。西田幾多郎の著作に学んでそれを言語化すること。もう少し休みがあれば深められたかもしれないが、今の境遇ではこのあたりが限界。高校の図書館で Heidegger の著作に触れて震撼したところまで戻らなくては。

出勤前にサイエンスパークで一息いれる