気を遣ってもらった話

この2週間、土日も含めてほぼ毎日、特養やグループホームへ行き、指導している学生のデータ収集を手伝っている。目的はストレス調査で、どの作業が負担となっているかなどを調べている。結構興味深いことがわかってきた。これから学生が修論にまとめるが、思ったよりも男女差が大きい。記憶力の違いが原因ではないかと思われる。女性はエピソードを克明に記憶するので仕事の際に受けた印象(「大変だった」とか)がなかなか消えず、ストレス反応が尾を引く。一方、男性は気分の切り替えが早く、嫌なことを引きずらない。そういうことなのではないかと考えている。

赤十字社で災害救助などの経験が多い人から聞いたことだが、昼間の過酷な作業の後、夜は食後、歌を歌ったりして騒ぎ、楽しい気分で眠ることが大切らしい。つらい現場であるほど、そういうことを完全に忘れるために馬鹿騒ぎすることが重要なのだという。深刻な状況にあるのに不謹慎だという(世間的には正しそうな)考えでは駄目らしい。こんなことを教えられたのは、私が三味線を弾くからで、そのことが二人の間で話題になったとき、音楽を演奏するのは現実的な意味があるということを指摘されたのだった。

今日はもう一人、研究室に入ったばかりの学生を補助&見学に連れて行った。彼女は介護施設を訪れるのが初めてだったので、特養のなかを案内した。途中、よく見かける人が自室で写真に花を供えようとしていたので、手伝いましょうかと声をかけたのだが反応がない。どうしたのだろうと思っていたら隣から施設の方が出てきて、耳が遠いのよと告げられた。

あれ、そうなんですか。と私。この方は私が三味線を演奏すると楽しそうに手拍子したりしてくださってますよ、と感じたままを言う。施設の方が言うには、この人はよく気を遣うのよ、聞こえてなくても楽しんでいる、ふりをするの。

そうだったのかーと、言葉を失った。自分のこころのどこかに、聴かせてやるという気持ちがあった気がした。皆を楽しませよう、という善意(?)の背後にそういうおごった態度があった。そうではなくて、聴いてもらってたんだと気づいた。

三味線を弾くのは久しぶりで、たぶん一年くらい触っていなかった。こちらの特養に通うようになって、そこでいつもなにやら歌っている方がいたので、音楽が好きなのだろうと思って、日曜日に三味線を持って行き、おそるおそる鳴らした。その方も、ほかの入居者さんも、介護の方達も喜んでくれたので、いい気になって何度も演奏した。そこで聴いてくれていた人のなかに、件の難聴の人もいたのだ。

音楽は人に支えられて演奏するものだ。そうでした。

その後、デイサービス部を訪れ、担当の方と話したが、足湯がいいから入っていけと勧められ、特別にお湯を湯船に満たしてくれて、タオルまで渡された。連れていた学生の手前、ここで休憩モードに入って良いのか考えたが、とりあえず足湯は後回しにしてほかを回った。とはいえタオルを放置するわけにもいかず、後から一人で戻った。そこに先ほどの難聴の方が車いすでそろそろと近づいて来て、足湯に入りたいというので手伝った。30度くらいだったのだが熱いというから水を注ぎ、膝から下が浸かるように椅子を前に近づけたりした。周りには誰もいない。なぜかといえば本来、営業(?)していない時間帯だからだ。訪れた我々二人のために入れてくれた。

足湯だけど自分は隣で手を入れて暖まった

足湯だけど自分は隣で手を入れて暖まった

誰もいないわね、なぜかしら。と難聴の人が訊く。普段は午後しか営業しないからですよ。と私。気持ちいいわ、他の人にも教えてあげよう。と難聴の人。そんなことを時々会話しながら20分が過ぎた。上がりましょうと促した。結局足湯は体験せず、タオルを未使用のままデイサービスの方に返した。計測中の学生を探してフロアに戻ると、いつも歌っている人がやってきて洗濯物をたたみ出した。先ほどの難聴の人もいて、気持ちよかったわとにこやかに話しかけてきた。すぐに忘れてくれていいのに、と自分は思った。

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