Daily Archives: 2013年11月24日

19世紀のピアノ

1884年6月7日土曜日、そのPleyelピアノはパリ郊外の工場からロンドン支店へと出荷された。その頃、リストは72歳で演奏活動を続けていた。フランクは61歳で「前奏曲、コラールとフーガ」を書いていた。ブラームスは51歳でウィーン郊外にて4曲目の交響曲に取り組んでいた。フォーレは39歳でパリの教会にてオルガンを弾いていた。ゴッホは31歳でオランダにいて貧しい人々を描いていた。ドビュッシーは21歳で3度目のローマ賞に挑戦していた。ラフマニノフは11歳で母親とペテルスブルグに住み、ラヴェルは9歳でパリに住んでピアノを学んでいた。

フランスは1871年に終結した普仏戦争‎から復興し、政治的にも経済的にも安定した時期が続く黄金時代にあった。(それは1914年の第一次世界大戦勃発まで続く。)この頃のパリの街並みは今日とほとんど変わらない。自動車の代わりに馬車が走っているのが時代を感じさせるくらいである。ピアノの行く先であったロンドンも同様に活況を呈していた。

1884年は明治17年に相当する。日本は政府要人が視察のためヨーロッパへ派遣される時代であった。伊藤博文(42歳)が前年の1883年1月にヴァイマールでリストの演奏を聴き、感銘を受けている。岡倉天心が20歳、夏目漱石が17歳の青年であった。作曲家では滝廉太郎が4歳、山田耕筰が2歳の幼児であった。後にピアノを製造する山葉寅楠はこのとき31歳で、浜松にて機械を修理していた。東京・銀座には煉瓦造りの建物が造られていたが、人々の暮らしは江戸時代とあまり変わりがなかった。

その当時、音楽は貴族など一部の特権階級のもので、演奏家は主に貴族の邸宅で開かれる晩餐会などで演奏を披露していた。貴族のサロンから抜け出してピアノ単独でコンサートを開き始めたのはリストとされている。コンサート会場は現代の小ホール並みで、200人から300人の聴衆を収容できる程度であった。いわば人の声が無理なく届く広さに留められていた。(cf. “Concertgoers, Please Clap, Talk or Shout at Any Time” By BERNARD HOLLAND, Published: January 8, 2008)

この頃、ピアノ音楽は手を伸ばせば演奏家に触れられるくらいの距離で聴かれていた。蓄音機は7年前にエジソンが発明したばかりで普及していない。ラジオ放送は1906年まで22年間待たなければならない。人々は娯楽に飢えていたが、音楽を楽しむには生演奏しかなかった。演奏家に謝礼を払えるのは裕福な者に限られるから、音楽界は貴族ら特権階級の人々によって動かされていた。要するに彼らの社交の一部であった。

サロンでピアノを弾くLiszt 1840年.手前の女性はピアノに頭をつけて聴いている.

サロンでピアノを弾くLiszt 1840年.手前の女性はピアノに頭をつけて聴いている.

フォーレ(この時39歳)の作品を「サロンの音楽」と揶揄する向きもあるが、コンサートホールで演奏することの方が稀であったのだから的外れな指摘である。ルービンシュタインは20世紀初頭、パリに大きなコンサートホールがひとつしかなかったと書いている(Rubinstein. 1973. My young years)。大きなホールは専ら交響曲など大規模な作品を演奏するために用いられたから、規模の小さな器楽曲は貴族の邸宅や小ホールで演奏されるほかなかった。そういった事情からこの時代の欧州製ピアノは収容人数200人程度の小ホールを想定して作られている。

しかしながらアメリカでは事情が異なる。1866年ニューヨークに建てられたスタンウェイホールは2500人を収容できた。その後、カーネギーホールが1891年に建設され、2800人を収容した。アメリカでは鉄骨が豊富に使えたので巨大なコンサートホールが積極的に建設された。鉄はピアノと音楽の行方をも左右する。広大な空間でも響くようピアノが改変されていった。そこで使われたのも鉄であり、フレームが鉄で作られるようになった。減衰しやすい高音を遠くまで響かせるために、よく言えばクリスタル、悪くいえば金属的な音になっていった。

ニューヨークに拠点を置くスタンウェイ社がピアノ業界を席巻していったのはホール巨大化の波にうまく乗ったからである。スタンウェイホールやカーネギーホールで経験を積むことで、大きなホールに向いたピアノを開発していった。世界的にホールが巨大化していく中、先端を走っていたニューヨークのピアノが各国に広まっていったのは当然のことといえる。

同時に19世紀的音楽は絶えた。シューベルトの頃からピアノは歌を真似ようとした。ピアノは言葉を持ち、人々に語りかけたのである。ピアノは言葉では表現できないもの、すなわち人間の感情や風物から受けた印象をよく表現した。そのために歌うような、繊細な表現を必要とした。人々はささやくようなその声をピアノのすぐ側で聴いた。しかし、そうした情感の世界は失われていった。

スタンウェイは1867年のパリ万博で金賞を得た後、1880年にハンブルグに支社を置き、ヨーロッパに進出する。ホールで迫力ある音を響かせたいピアニストはスタンウェイを選んだ。大ホールで観衆を湧かせるなら音量があってホールの隅々まで響き渡るスタンウェイのピアノが向いている。Pleyelなど古くからあるヨーロッパのメーカーはスタンウェイに対抗する必要性を感じつつも、木の響きにこだわり、頑固に鉄の使用を拒んだ。1884年製造のPleyelはその時代の有様を証言している。

私のもとにやってくる1884年製造のPleyelは、交差弦を採用し、部分的に鉄フレームも導入している。その一方で鉄のフレームが木の筐体に直接触れないよう布をかませている。あくまでも音は木で響かせるぞという主張だ。音を大きくするよりは音質を選んだ。このような姿勢は後にPleyelが世界市場から閉め出されていく遠因となる。

私のPleyel.金属プレートt木枠と間に布が挟まっている.

私のPleyel.金属プレートと木の筐体との間に赤い布が挟まっている.

私にはヨーロッパ文化がその頂点で放った最後の光をこのピアノが映しているように思われる。それは貴族文化でしかなかったかもしれないが良質であった。大音量で聴衆を扇情するのではなく、美しい音で静かに耳を傾ける者を慰めた。そういった音楽の方が私には大切に思われる。

1928年に建て直されたSalle PleyelはCarnegie Hall並に広がった。ピアニストは聴衆から遠く離れてしまった。Pleyel社は国際競争に負け、国策で守られて生き延びるローカルな製造会社となっていた。